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電脳鑑定の調合師  作者: 藤咲玲


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12/29

12話:『頭金五百億と冷徹皇女の陥落(※本人はスローライフ達成と信じて疑っていません)』

「……レン、頼む。この薬を、俺に売らせてくれ」


 下町の『ノア薬房』の奥、試作されたばかりの二層錠を一気に飲み干したエドワードが、爛々と輝く目でレンの両肩をガシッと掴んだ。


 つい数分前まで「胃に熱い鉄串を刺されたようだ……」と青ざめて倒れ込んでいた男とはまるで別人の迫力である。


「……兄上、効果はあったようですね。胃の痛みはどうですか?」


「痛いどころの話ではない! 飲んだ瞬間にスーッと熱が引き、そのあと胃の奥底からじわじわと力がみなぎってきた! まるで……破壊された筋繊維が超回復で分厚くパンプアップしていくような、圧倒的再生感だ……!」


「いや、胃壁は筋肉じゃなくて粘膜ですけどね」


 レンが苦笑して突っ込むが、エドワードの熱狂は止まらない。


「いいや、同じだ! 鍛錬で傷ついた肉体をプロテインで修復するように、日々の過酷な任務とストレスで傷ついた胃にはこの『MMSC』が必要なんだ! レン、王宮の騎士たちを見ろ! 魔獣との死闘や貴族の派閥争いに胃を痛め、飯も喉を通らずやせ細っていく屈強な男たちがどれほどいるか……!」


 エドワードは熱弁を振るい、懐からドスンと金貨の袋を机に叩きつけた。


「俺が自ら出資して会社を立ち上げる! 近衛騎士団長の名にかけて、王国のすべての戦う男たちの胃袋を鉄壁(アイアン)へとビルドアップしてやるんだ!」


「……なるほど。兄上がそこまで本気なら、親会社(ノア・ホールディングス)からライセンスと基剤の供給を出向の形で認可しましょう。ただし――」


 レンはすっと一枚の契約書を差し出し、極上のCEOスマイルを浮かべた。


「当然ですが、親会社(ウチ)が株式の60%を保有する連結子会社扱いとなります。製造ラインは例の工程分断を厳守、売上ロイヤリティもきっちりいただきますよ?」


「望むところだ! 社名は……そうだな、『ベルフォール・アイアン製薬』! 商品名は胃壁を守る精鋭部隊――『キャベギオン軍α』だ!!」


「……薬の名前に『軍』って入ってるの初めて見ましたよ」


 レンの乾いたツッコミを置き去りに、ノア・ホールディングス傘下にエドワードが代表取締役社長を務める胃腸薬専門子会社が設立された。


 数日後。


「ベルフォール・アイアン製薬 代表取締役社長」の名刺を誇らしげに掲げ、エドワードは近衛騎士団の詰め所へ乗り込んだ。


「総員、注目! 本日より、近衛騎士団の制式携行装備に『キャベギオン軍α』を配備する! 朝夕の点呼時に1錠ずつ服用し、胃壁の前線部隊を死守せよ!」


「「「キャベギオン軍α、了解でありますッ!!」」」


 毎日の激務と公爵家の無茶振りに胃を痛めていた屈強な騎士たちが、涙を流して胃薬の小瓶を掲げ、地響きのような歓声を上げる。


 さらにその噂は瞬く間に王宮の文官、各省の重鎮、そしてノア・ホールディングスの厳しい店舗査察に怯えるFC加盟貴族たちへと広まり、発売初日で数万個が完売。子会社は設立初月から黒字を叩き出すメガヒットを記録した。


 しかし――。


 白亜の本社ビル執務室。エドワード社長が意気揚々とレンに決算報告を提出していた、まさにその時。


 バァン! と勢いよく扉が開け放たれた。


「あら、エドワード! 会社設立初月での大成功、おめでとうございますわ!」


 真紅のドレスを翻して入ってきたエレオノーラが、扇子の陰で妖艶に微笑む。


「エ、エレオノーラ姉さん……! な、なんだ、俺は今や一国の子会社を率いる社長だぞ! 以前のように無茶な縁談で脅そうとしても無駄だ!」


 胸を張るエドワードに対し、エレオノーラはふふっと楽しげに喉を鳴らした。


「脅すだなんて人聞きが悪い。……ただ、貴方の胃壁が『キャベギオン軍α』によって鉄壁の要塞になられたと伺いましたのでね」


 エレオノーラは背後の従者へ合図を出し、机の上にドスン、ドスンと3つの巨大な木箱を積み上げさせた。中に入っているのは、びっしりと敷き詰められた見合い写真と釣書である。


「胃に強固な軍勢が配備されたのなら、もうストレスで倒れる心配もありませんわね? さあ、本日はこちらの『公爵・侯爵令嬢厳選50名』とのお見合いスケジュールを組んでまいりましたの! 朝から晩まで、1日5件ずつこなしていただきますわ!」


「5、50人……ッ!? 1、1日5件……ッ!?」


 エドワードの顔からサッと血の気が引き、逞しい手で自らの腹部を強く押さえた。


「ま、待て! 胃壁の軍勢は無事だが、総司令官(メンタル)が死ぬ!! レン! レン助けてくれ! 胃ではなく心臓を強くする薬を今すぐ調合してくれぇぇぇっ!!」


「兄上、心臓の薬は劇薬指定なので無理です。……とりあえず、キャベギオン軍αをおかわりしておきますね」


 レンが涼しい顔で新しい薬瓶を差し出す横で、胃薬会社社長の悲鳴が王都の空へと木霊するのだった。


 ◇


 白亜の本社ビル、最上階のCEO執務室。


 エドワードがお見合い写真の山から逃亡し、エレオノーラが「逃がしませんわよ」と笑顔で追跡していった嵐のあと。部屋に残されたレンは、窓の外を眺めながら静かに紅茶をすすっていた。


「ふう……子会社の設立登記も終わったし、国内の第1期・第2期FC店舗の納品ルートも安定した。これでようやく、俺の目指していた『何もしなくても毎月チャリンチャリンとお金が入ってくる不労所得スローライフ』の完成だな」


「――レン様。大変申し上げにくいのですが、極めて重篤な案件を1件、完全に失念されておりましたわ」


 リリアが音もなく執務机の前に歩み寄り、一通の豪奢な封筒をトン、と置いた。


 黒漆塗りの分厚い羊皮紙に、金泥で描かれた双頭の鷲の紋章。そして中央には、紫色の巨大な魔導蝋封――。


「……ん? なんだこの仰々しい手紙は。王室からの表彰状か?」


「ヴァレンティノ帝国皇帝陛下からの、直筆親書でございます」


「ぶふっ!?」


 レンは吹き出しそうになった紅茶を必死に喉の奥へ押し戻し、目を丸くして手紙を凝視した。


「て、帝国……!? あ、そういえば夜会のとき、帝国大使に『優先交渉権』とかいう適当なペーパーを握らせて追い返したような……」


「『適当なペーパー』ではございませんわ。帝国側はあれを『国家間メガアライアンスの正式な事前調印』と受け止め、全土から集めた錬金術師と大規模予算を凍結したまま、ベルフォール・グループからの次なる指示を首を長くして待っていたのです」


 リリアは呆れたように細い指でこめかみを押さえた。


「レン様が国内のFC展開と『キャベギオン軍α』の開発に夢中になって放置されていた3ヶ月間、帝国側はずっと放置プレイ(生殺し)状態でしたのよ」


「……ま、まずいな。帝国軍が怒って攻め込んできたりしないだろうか」


 冷や汗を流しながら、レンはペーパーナイフで紫の蝋封を切り、親書を広げた。

 そこには、威厳に満ちた達筆な文字で、予想の斜め上をいく内容が綴られていた。


『親愛なるベルフォール・グループ総帥、レン閣下へ』


 貴殿が提示した「濃縮粉末によるライセンス契約」の構想に、我が帝国議会および皇室は連日熱狂の渦にある。

 国内の製薬ギルドを統合し、帝国全土に「ノア薬房」の看板を掲げる準備は万全である。


 しかしながら、貴殿からの連絡が途絶えて久しい。

 我が国の至らぬ対応により、貴殿の機嫌を損ねてしまったのではないかと夜も眠れぬ思いである。


 つきましては、我が帝国第2皇女を特使として貴社本社へ派遣する。

『帝国全土における独占FC展開権の購入費』として、頭金・金貨500万枚(約5,000億円)の帝国国債手形を積んだ親善使節団が、間もなく王都へ到着する予定である。

 何卒、我が国を見捨てず、寛大なご慈悲と事業提携を賜りたい――


「……頭金だけで5,000億!?」


 レンの手から親書がハラリと滑り落ちた。

 怒られるどころか、あまりの音信不通ぶりに「焦らしプレイ」を食らった帝国側が、勝手に価値を吊り上げて特使と国家予算級の札束を送り込んできたのだ。


 レンはふっと視線を落とし、脳内のPCで表計算の画面を開いた。


 思考のままに数値を入力し、関数を走らせる。帝国全土の人口分布と初期店舗数、工場の稼働率が組み合わさり、瞬時に正確な解が弾き出された。


 帝国初期展開(300店舗)での月間消費予測:約150万本

 必要マスター濃縮粉末:1.5トン(1,500kg)/月

 王国側工房の稼働率:現在の抽出・乾燥ラインで即座に対応可能

 月間見込み営業利益:金貨2,200万枚(約2,200億円/月)


「……よし。数字の破綻はないな」


 レンが思考の画面を閉じると、向かいのリリアが書類を整えながら感嘆の息を漏らした。


「相変わらず見事な計算速度ですわね、お兄様。あっという間に国家規模の数字を弾き出してしまわれるなんて」


「さて、数字は出たが、問題は最後の『魔力刻印』だ」


 レンは羊皮紙に、月間1.5トンという粉末量の数値を書き留めた。


「国内向けだけなら僕が週に半日スタンプを押せば済んでいたが、帝国分が乗ると10キロ缶で毎月150個、将来の全土展開を考えれば数千個に膨れ上がる。僕一人で全部の封印を押していたら、スローライフどころか一生地下工房に幽閉されたスタンプ押し係になってしまう」


「ええ、前世の巨大飲料メーカーも、事業拡大に伴って創業者の手作業から近代的な分業ライセンスシステムへと移行したとお兄様が仰っていましたわね」


「そう。だから、『刻印プロセスの権限委譲』を行う」


 レンは机の引き出しから、特注させた重厚な金属製の小型装置――『連動魔導刻印機』を取り出した。


「僕の固有魔力波長をこの魔導コアに焼き付けてある。これに『リリアの認証魔力』と『エドワード兄上の認証魔力』、そしてパスコードを同時に通すことで、僕が不在でも正規のセキュリティ刻印が発動する仕組みだ」


「まあ……! つまり、信頼できる最高幹部による複数承認システムですのね」


「その通り。これで最終パッキングの現場作業はリリアと兄上の統括する特命班へ完全に任せられる。――僕はいよいよ、脳内PCで経営数値をチェックしながら紅茶を飲むだけの『名誉CEO』になれるわけだ」


 完璧な業務自動化とリスク分散の構築に、レンが満足げな笑みを浮かべたその時――。


 ドォォォン……! と窓の外から、帝国使節団の到着を告げる祝砲が轟いた。


「さあリリア、特別貴賓室へ向かおう。5,000億円の頭金を持ってきた帝国の第2皇女殿下に、この完璧な需要予測と分業プランを叩きつけてやる時間だ」


「承知いたしましたわ、CEO」


 レンは立ち上がり、王国最強のメガ企業総帥として、国際ビジネスの最前線へと歩みを進めたのだった。


 ◇


 白亜の本社ビル、最上階の特別貴賓室。


 重厚な扉が左右に開き、部屋の空気が張り詰めた。


 入ってきたのは、豪奢でありながら機能的な軍礼装風のドレスを身に纏った銀髪の女性――ヴァレンティノ帝国第2皇女、セシリア・フォン・ヴァレンティノ。


 感情の起伏を一切見せない冷徹な眼差し。その背後には、帝国近衛兵と、引き締まった表情を崩さない財務官たちが整然と控えている。


「初めまして。ヴァレンティノ帝国皇帝が名代、第2皇女セシリア・フォン・ヴァレンティノです。ノア・ホールディングスCEO、レン閣下とお見受けいたします」


「ようこそ王都へ、セシリア殿下。長旅、心より歓迎申し上げます」


 レンが立ち上がって一礼すると、セシリアは着席を促されながら、無駄のない所作で席についた。


「単刀直入に本題へ入らせていただきます。過日、我が妹である第3皇女イリスが夜会にて持ち帰った『優先交渉権』に基づき、我が国は貴社製品の独占展開権取得に向けた実務協議を希望しております」


 セシリアは冷ややかに、しかし淀みなく事実を並べ立てる。


「本来であれば、留学中の妹イリスがそのまま窓口を務める手はずでした。……しかし、あの子はレン閣下に心酔するあまり『全財産を注ぎ込んででもレン様をお迎えする!』と本国へ支離滅裂な熱情の手紙を送りつけてくる始末。国家規模の事業提携を、恋に狂った小娘の一存に委ねるわけにはまいりません」


 セシリアの鋭い眼光がレンを射抜く。


「3ヶ月前、妹から提出された完治の診断書と優先交渉権の写しを見た皇帝陛下ならびに帝国議会は即座に決断を下しました。妹を交渉権限から完全に外し、実務と軍務を統括するこの私を『全権特使』として派遣し、国家の総力を挙げて貴社と契約せよ、と。この3ヶ月の間、我が国も帝国製薬ギルドの統廃合および展開予定地の選定を秘密裏に完了させております」


 感情的な雑音は一切挟まず、妹の暴走の回収と国家の準備状況だけを淡々とテーブルに乗せる。国家を背負う特使としての手腕が窺える切り出し方だ。


「……なるほど。イリス殿下には夜会で大変熱烈なご提案をいただきましたが、帝国中枢が極めて冷静に動かれていたようで安心いたしました」


 レンが穏やかに返すと、セシリアは冷徹な眼差しのままわずかに顎を引いた。


「妹の無礼は詫びますが、ビジネスは別です。……我が帝国は人口5,000万人を擁する広大な領土。王国一国の生産能力でその需要を賄えるのか、また長距離輸送に伴うコストと品質維持をどう担保されるおつもりか。――その具体的回答がなければ、巨額投資の最終決裁は下せません」


「ご懸念はもっともです。そのための回答をこちらに用意しております」


 レンは不敵に微笑むと、手元の魔導投影板(プロジェクター)に魔力を通した。


 卓上の中央に、光の粒子で編み上げられた立体的な図解と色鮮やかなグラフが浮かび上がる。

 前世のドラッグストア店長・製薬開発時代に叩き込まれた、視覚で直感的にねじ伏せるプレゼンテーションの幕開けだ。


「なっ……光の立体魔導図……!?」


 財務官たちが息を呑む中、レンは流れるような所作で光のグラフを指し示した。


「まず、こちらをご覧ください。帝国全土における初期300店舗の月間消費予測は150万本。完成品(ガラス瓶充填済み)で陸路輸送した場合と、我が社の『マスター粉末輸送方式』を比較した物流コスト・破損リスクの対比グラフです」


 光のグラフには、赤い棒(完成品輸送:馬車1,500台分・破損率12%・輸送費莫大)と、極小の青い棒(粉末輸送:装甲馬車わずか2台・破損率0.01%・コスト95%カット)が圧倒的な落差で描かれていた。


「完成品を運ぶ場合、重量は実に数百トン。山脈越えの街道で破損・変質のリスクを抱え、採算は確実に破綻します。対して我が社が提案するのは、王国内で厳格に品質保証を完了させた『超濃縮マスター粉末』のみを帝都へ直送するモデルです」


 レンが指を滑らせると、光の映像が切り替わり、今度は精緻なフローチャート図が展開された。


【工程分断型ライセンス生産モデル(図解)】


 [王国特命工房]:生薬から高純度抽出 ➔ 超濃縮マスター粉末化(月間わずか1.5トン / 10kg密閉缶150個)


 [ベルフォール特急装甲馬車]:小容量・超高密度の粉末を高速護衛輸送(関税・輸送コストを極限圧縮)


 [帝都大規模ライセンス工房]:現地の水・ガラス瓶を用いて指定比率で希釈・瓶詰め・最終パッキング


 [帝国全土300店舗]:均一な最高品質の製品を安定供給


「帝国側で行っていただくのは、帝都での大規模ボトリング工房への設備投資と現地雇用のみ。我が社は基剤供給と品質基準の査読に特化します。これにより、初期投資回収期間は従来の3分の1に短縮されます」


 人口動態データ、都市ごとの需要予測曲線、工房稼働率のシミュレーション――。

 文字と数字の羅列ではなく、一目で勝敗と利益が理解できる完璧なプレゼン資料に、セシリアの眉が大きく跳ね上がった。


「……なんという分かりやすさ……。文字の契約書を読み解くまでもなく、我が国の利益と実現可能性が完璧に可視化されている……」


 背後の財務官たちに至っては、「内務省の試算を遥かに超えている」「この流通図、美しすぎる……」と声にならない感嘆を漏らして身を乗り出していた。


 セシリアはふっと息を吐き、冷徹だった口元に微かな敗北感と賞賛の笑みを浮かべた。


「……完敗ですね。この3ヶ月、ただ返答を保留されていたのではなく、我が国の市場構造を完全に分析し、この完璧な図面を用意されていたわけですか」


 セシリアが背後の従者へ短く合図を出すと、重厚な魔導施錠が施された深紅の大型金庫が恭しく卓上に置かれた。


「妹が我を忘れて騒ぎ立てた理由が、ようやく骨の髄まで理解できました。――条件は合意に達したと判断します。こちらが契約に基づく頭金、金貨500万枚(5,000億円相当)の帝国国債手形です。帝国内における独占展開権、正式に契約を締結いたしましょう」


「ありがとうございます、殿下。帝国全土への供給網構築、直ちに前進させます」


 光のグラフが静かに霧散する中、レンとセシリアの手がしっかりと握り合わされ、国家の枠組みを超えた巨大アライアンスが成立した。


 契約の握手を交わし終えた直後、レンは机の脇に用意させていた上質な革張りのバインダーを手に取り、両手でセシリアの前へと差し出した。


「セシリア殿下。こちらは、たった今お見せした魔導立体図のすべてを、羊皮紙へ寸分違わず精密印刷した『プレゼンテーション資料の写し一式』でございます」


「……えっ? この資料の写しを……?」


 セシリアが珍しく目を丸くしてバインダーを見つめる。


 中を開くと、先ほど宙に浮かび上がっていた鮮やかな輸送コスト対比グラフ、精緻なサプライチェーンの図解、そして都市ごとの需要予測曲線と試算表が、誰の手にも取れる極めて見やすい書式で美しくファイリングされていた。


「帝国へお戻りになられた際、皇帝陛下や帝国議会、ならびに財務省の重鎮の方々へ事業計画をご説明なさる折、ぜひこちらをお使いください。口頭や文字だけの報告書よりも、この図解資料をお見せいただく方が、殿下のご説明の手間も省け、閣僚の方々のご納得も格段に早まるかと存じます」


 レンが穏やかに、しかし細やかな配慮を込めて微笑んだ。


(……なんという男……)


 セシリアの胸の奥に、かつてないほどの熱い衝撃が走った。


 ただ圧倒的な利益と論理で相手をねじ伏せるだけではない。

 契約が成立したその先の、彼女自身が本国で直面するであろう政治的な説明や調整の苦労まで完璧に先回りし、一番欲しかった最高の武器を「どうぞお使いください」と差し出してくる。


 冷徹な特使として感情を殺し、国家の重責を背負って戦い続けてきたセシリアの心に、その気遣いはあまりにも深く、温かく染み渡った。


「……恐れ入りました、レン閣下」


 セシリアはバインダーを胸元でぎゅっと抱きしめ、先ほどまでの冷徹な鉄の仮面を脱ぎ捨てた。その唇から零れたのは、一人の女性としての素直な感動と、心からの敬意に満ちた眩しい微笑みだった。


「どこまでも完璧な方ですね。……我が帝国にとって、貴方以上のパートナーは存在し得ないと確信いたしました。この資料、大切に使わせていただきます」


 帝国の誇る冷徹な第2皇女の心を、レンの気配りと前世仕込みの営業力が完全に射抜いた瞬間だった。


 王都を離れ、帝国へとひた走る豪奢な特急装甲馬車の中。


 車輪が規則正しい音を立てて街道を刻む中、セシリアは手元の上質な革張りバインダーを静かに開いていた。


 車内の魔導灯に照らされているのは、レンから手渡されたプレゼンテーション資料の写し――鮮やかな対比グラフ、寸分の狂いもない物流図解、そして各都市の需要予測。

 何度見返しても、その緻密さと圧倒的な先見性に溜め息が漏れる。


「……信じられない男ね」


 セシリアはバインダーのページをそっと指先でなぞり、窓の外へと視線を向けた。


 当初は、妹イリスが夢中になっている「下町の天才薬師」の品定めをするつもりだった。

 どれほど腕の立つ薬師だろうと、所詮は王国の地方領主や商人相手に小銭を稼いでいるだけの小僧に過ぎない――そう高を括っていたのだ。


 だが、現実はどうだったか。


 国家の枠組みすら軽々と飛び越える冷徹なビジネスモデル。

 相手を圧倒する魔導図解によるプレゼンテーション。

 そして何より、契約成立後にこちらの本国での根回しや政治的負担まで完璧に先回りして資料を手渡してくる、あの底知れない気配りと包容力。


 知性、美貌、胆力、そして相手の懐深くに自然と入り込む人間的魅力――そのすべてが、16歳という若さであり得ない次元で完成されていた。


(これほどまでの器だとは、夢にも思わなかったわ……)


 ふと、セシリアの胸の奥に、かつて感じたことのない甘く危険な熱が灯った。


 帝国を背負う第2皇女として、これまで数多の王侯貴族や冷徹な政治家たちと渡り合ってきた。誰もが自分を利用しようと群がり、あるいはその冷徹さに怯えて距離を置く中、対等に、かつこれほど心地よく自分を尊重してくれた男がいただろうか。


(……最高のビジネスパートナー。いいえ……)


 セシリアはバインダーを胸元に強く抱きしめ、ふっと妖艶な笑みを唇に浮かべた。


(我が帝国を共に統治し、隣に立つべき『生涯の伴侶』として……これ以上の男が世界に存在するかしら?)


 ふと、本国で「レン様を私のものにする!」と喚いていた妹イリスの幼い顔が脳裏をよぎる。


「……ふふ。ごめんなさいね、イリス」


 セシリアの紫水晶のような瞳が、獲物を狙う怜悧な光を宿した。


「あの男は、貴女のような夢見がちな小娘が独占するには……あまりにも勿体なさすぎるわ」


 帝国へ戻る馬車の中で、冷徹無比だったはずの第2皇女の心に、野心と独占欲が美しく燃え上がっていた。


 一方その頃、白亜の本社ビル・最上階の執務室。


 セシリアたち帝国使節団を見送り、ソファへどっかりと体を沈めたレンは、大きく伸びをして深呼吸を漏らしていた。


「ふぅーーっ……! やった、終わったぁ……!」


 卓上には、頭金5,000億円(金貨500万枚)の帝国国債手形が収まった深紅の金庫と、調印済みの正式契約書。

 前世のドラッグストア店長時代なら、メガチェーンの全国フランチャイズ展開と超大国との独占ライセンス契約を一挙に成功させたような、まさに人生最大のビジネス的快挙である。


「いやあ、完璧だったな。これで王国内のFC網も安定軌道に乗ったし、帝国への展開も『粉末を卸してマニュアルを渡すだけ』のボトラー方式で丸投げできた。設備投資も現場のオペレーションも全部帝国持ちだ」


 レンは湯気の立つハーブティーを満足げにすすり、ふかふかの背もたれに身を預けた。


「これで厄介な国家間の調整や矢面に立つ仕事は、あの真面目で優秀な第2皇女殿下が全部引き受けてくれる。俺は月一で粉末をチェックして、公爵家の装甲馬車に積み込むだけで毎月莫大なロイヤリティが入ってくるわけだ」


 頭の中に広がるのは、前世で夢見て、過労死によって奪われた憧れのライフプラン。


(これでもう、これ以上会社を大きくする必要もないし、無理に働く必要もない。不労所得で悠々自適……今度こそ、下町で誰にも邪魔されない本当のスローライフが送れるぞ……!)


「……お兄様、何を一人で気の抜けた顔をしてニヤついていらっしゃいますの?」


 呆れたような声と共に、冷たいハーブ水をトレイに乗せたリリアが歩み寄ってきた。

 その涼やかな瞳には、哀れみすら滲んでいる。


「いやぁリリア、見てくれよこれ! 5,000億だぞ、5,000億! これでノア薬房の基盤は盤石、俺たちの仕事も完全に一段落だ。明日からは午後出勤にして、下町の薬房で新しいハーブの品種改良でものんびりやろうと思ってさ」


「一段落、でございますか……?」


 リリアは深くため息をつき、扇子でトントンと机を叩いた。


「あの氷のように冷徹だった帝国の第2皇女殿下が、最後には頬を染めて、魂を奪われたような目で資料を抱きしめて帰られたのを見ていなかったのですか?」


「え? いや、プレゼン資料がわかりやすくて本国への根回しが楽になるから、喜んでくれただけだろ? 営業マンとしての基本の気遣いだよ」


「……その無自覚な人誑し(ひとたらし)が、一番タチが悪いですわ」


「人誑しって人聞きが悪いな! 俺はただ、真っ当にビジネスを円滑に進めただけだって」


「はぁ……。王都の貴族令嬢たちだけでなく、アシュフォード侯爵令嬢、果ては帝国の第3皇女に続いて第2皇女まで……。お兄様、ご自分の首元にどれだけ太い縄が何本も巻き付いているか、本当に自覚がありませんのね」


「何を物騒なことを。大丈夫だって、みんな大人だし、ビジネスとプライベートの区別くらいついてるさ!」


 レンは極めて楽観的に笑い飛ばし、窓の外に広がる夕暮れの王都を見下ろした。


 帝国の冷徹な第2皇女が「生涯の伴侶として妹には勿体ない」と野心を燃やし始めていることにも、

 近いうちに妹イリスと姉セシリアによる帝国内での熾烈な「レン争奪戦」が勃発することにも、

 そして公爵邸でその動きを察知したエレオノーラがさらなる超法規的包囲網を敷き始めていることにも――。


 この時のレンは、まだ露ほども気づいていなかったのである。

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