第96話 夜の余熱
歌縁館を出たあとも、温泉郷の夜はまだ終わっていなかった。
終演からだいぶ経ったはずなのに、商縁通りにはまだ人の流れがある。
共鳴鈴を袋ごと胸に抱えている女。
誰色を買ったのか見せ合って笑っている娘たち。
午後の部から出てきたばかりみたいな赤い顔で、「あの曲やばかった」「七曲目で完全に持ってかれた」と繰り返している男たち。
湯上がりの客が、湖の方を何度も振り返りながら歩いている。
舞台はもう終わっている。
でも、終わったあとに町の中でまだ歌の話が続いている、想像以上にうまくいった。
ゼノはその空気の中を歩きながら、横にいるイグニスを見た。
「温泉、行きませんか」
イグニスは少しだけ眉を寄せた。
「今からか」
「今からです」
ゼノは即答した。
「今日入らないと、明日たぶん身体が終わるので」
「もう半分終わってる顔してるぞ」
「それは生き返る前です」
イグニスは少し黙った。
そのまま断るかと思ったが、通りの向こうでまだ“陽黄売り切れてない!?”と叫んでいる客の声を聞いて、ふっと息を吐く。
「……まあ、分かる」
それで決まった。
《視聴者数:2,781,306》
〈コメント:きた、温泉タイム〉
〈コメント:ライブ後の風呂、絶対いい〉
〈コメント:この町ほんと歌と温泉が一体化してるな〉
《エモーシア:こういう日の湯は効くのよね》
《リュケオン:打ち上げの風呂、最高!》
《フィクサル:浮かれるな。疲労を抜け》
《ゼノ:分かってるよ》
《ノクティア:でも今日は少しくらい浮かれていい夜じゃない?》
《ゼノ:少しくらいならな》
――
夜の湯は、昼より静かで深い。
湯面に灯りが落ちて、ゆっくり揺れる。
遠くで桶の鳴る音が一度だけして、また静かになる。
昼のような賑わいはない。そのかわり、音の隙間に身体の疲れが落ちてくる。
ゼノは肩まで浸かった瞬間、小さく息を漏らした。
「っ……」
熱が、背中から胸へ回る。
足の裏に残っていた張りがほどける。
舞台のあと、歌縁館で動いて、売り場まで見て、それでもまだ気を抜いていなかった身体が、ようやく「ああ、今日は終わったのか」と思い出し始める。
「死んでるな」
少し離れたところで、イグニスが言った。
「生き返ってるんですよ」
ゼノは目を閉じたまま答える。
「その逆です」
「毎回同じこと言うな」
「イグニスが毎回同じ事言うからです」
イグニスも湯に身体を預けた。
さすがに今日は、その顔にも疲れがある。目の下に少しだけ影が落ちていた。だが、目そのものはまだ起きている。公演を終えた疲れの顔じゃない。終わった上で、次のことまで見えている顔だ。
しばらく、二人とも黙った。
湯気が流れる。
夜風が頬を撫でる。
公演が終わった実感が、遅れて身体の中に沈んでくる。
先に口を開いたのは、ゼノだった。
「……取れましたね」
イグニスは目を閉じたまま頷く。
「取ったな」
短い。
でも、その二文字が妙に重かった。
取った。
客席を。
熱を。
次を欲しがる顔を。
それが、今日の結果だ。
「午後の部、かなり良かったです」
ゼノが言う。
「午後の方が強かった」
イグニスはすぐに返した。
「一曲目『ミラベル』でちゃんと掴んだ。二曲目『笑って奪え』で客の顔が変わった」
「やっぱり、そこ見てたんですね」
「そこを見ないでどうする」
言いながら、イグニスは湯を手ですくって落とす。
「午前も悪くなかった。だが午後は、客が最初から見に来る顔だった。その上で、十二人の方も腹が決まってた」
ゼノは頷く。
それはその通りだった。
午前は“始まった”感じがあった。
午後は“取りに行った”感じがあった。
「六曲目からの三曲も、午後の方が流れが良かった」
イグニスは続けた。
「ルミナが午後の方が笑えた」
ゼノは少しだけ笑う。
「やっぱりそこですか」
「そこだ」
イグニスは即答した。
「ノエルも午後の方が消えなかった。ユノが繋いだ。サニアは午前より強かった。ベルナは危なくしすぎずに残った」
ちゃんと見ている。
端まで。
舞台の流れも、新入りの細かい変化も。
「エレナは」
ゼノが聞く。
イグニスは少しだけ目を開けた。
「真ん中だった」
短く言う。
「前に立つだけじゃなくて、周りを立たせた。今日のあいつは中心の顔だ」
その言い方が、ゼノには少しだけ嬉しかった。
エレナは、ただ上手いんじゃない。
ただ前に出られるんじゃない。
群れの中心として、他をちゃんと立たせるところまで行き始めている。
それはかなり強い。
《ラグゼル:核が出来たな》
《エモーシア:真ん中が一人で光るだけじゃ駄目なのよ。周りまで光らせて初めて群れになる》
《リュケオン:エレナ、いい育ち方してる!》
《ゼノ:見てるなあ、お前ら》
《フィクサル:見る価値がある時は見る》
「で」
ゼノが湯の縁に腕を置きながら言う。
「ノクシアです」
イグニスの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「増やすんですよね」
「増やす」
やはり即答だった。
「何曲くらい考えてます」
「最低でも今はあと二つ」
イグニスは言った。
「一曲目で顔は作れた。でも、それだけだと“強そう”で終わる。終わる群れは弱い」
終わる群れは弱い。
その言葉が、湯の熱とは別にゼノの胸へ残った。
ミラベルは今日、八曲やった。
だから途中で熱を変えられた。
顔を見せて、奪って、揺らして、近くまで落とした。
ノクシアが一曲で終わるなら、“夜っぽい”“強い”“かっこいい”で終わる。
それは確かに弱い。
印象としては残っても、客を連れて帰れない。
「二曲目は?」
ゼノが聞く。
「もっと前へ出るやつ」
イグニスは答える。
「一曲目が“夜を着る顔”なら、次は夜の方から噛みに行く」
「三曲目は」
イグニスは少しだけ考えた。湯面に指先を沈め、揺れた灯りを見てから言う。
「近い曲」
短く落とす。
「最後に一人ずつ刺す。強いだけで終わると雑になる」
ゼノは頷いた。
分かる。
ノクシアはただ強くしただけだと、逆に安くなる。
見下ろすだけの夜じゃ足りない。
近くまで来て、耳元で息をかけるみたいな夜にならないと駄目だ。
「リリアンも、そういう顔してました」
ゼノが言う。
「だろうな」
イグニスは即答した。
「あいつ、見せ方の勘がいい」
少し間が落ちる。
ゼノはその間に少しだけ笑って言った。
「勘、ですか」
「勘じゃないかもな」
イグニスは平然と言う。
「知ってる感じがある」
ゼノは、そこで思わずそっちを見た。
「やっぱり思います?」
「思う」
イグニスは言った。
「衣装も、構成も、妙に整理されすぎてる。場数だけじゃない。……まあ、今はいい」
そう言って、また目を閉じる。
「今は使えるもんを使う」
続けた。
「疑うのは後でいい」
その言い方が、妙にしっくりきた。
「ですね」
ゼノは答える。
「今は、あいつが面白い方が大事だ」
「だいぶ気に入ってるな」
イグニスが言った。
平坦な声なのに、やけに刺さる。
「……何の話ですか」
ゼノはとぼける。
「やめろ」
イグニスは即答した。
「分かりやすすぎる」
最悪だった。
でも、否定しきれないのがもっと腹立たしい。
《ノクティア:はい、図星》
《エモーシア:隠せてないのよねえ》
《リュケオン:分かりやすすぎる!》
《ゼノ:うるさい》
《フィクサル:そちらは今どうでもいい》
《ノクティア:どうでもよくはないでしょ》
《フィクサル:後回しでいいと言っている》
《ゼノ:珍しく意見が合うな》
しばらくして、二人は湯から上がった。
湯上がりの夜気が少し冷たい。
火照った身体にちょうどいい。
そのまま別れてもよかったが、今日はもう少しだけ喉を湿らせたい気分だった。
「軽く、行きます?」
ゼノが言う。
「軽くだぞ」
イグニスが返す。
「それはもちろん」
酔うための酒じゃない。
今日という日を少しだけ落ち着かせるための一杯だ。
――
店の中は、公演帰りの熱をまだ抱えていた。
共鳴鈴を机の上に置いているやつがいる。
紅と陽黄を並べて見比べている娘がいる。
“午後の方がやばかった”“いや午前からもう強かった”みたいな話が、あちこちの席から断片的に聞こえてくる。
ゼノとイグニスは、少し端の席へ座った。
酒と、軽い肴だけを頼む。
本当に軽くだ。
先に口を開いたのは、ゼノだった。
「明日から、また現場です」
「そうだな」
イグニスが答える。
「なので」
ゼノは少しだけ真面目な声になる。
「音楽のことは頼みます」
イグニスは水を一口飲んで、それから短く言った。
「任せろ」
そこで終わりかと思ったら、続きがあった。
「次は現場に集中しろ」
イグニスは言う。
「今日の公演は終わった。ミラベルもノクシアも、こっちはこっちで回す。お前が半端に覗きに来て、両方中途半端になる方が面倒だ」
ゼノはそれを聞いて、少しだけ笑った。
「言いますね」
「言う」
イグニスは平然としている。
「お前、気になるとすぐ両方見ようとするからな」
図星だった。
町が動く。
歌も動く。
どっちも好きだ。
だから、つい両方へ手を出したくなる。
でも、それで全部が薄くなるのは違う。
「……気をつけます」
「気をつけるな。切れ」
イグニスは言った。
「今はそっちだ」
その言い方が、妙にありがたかった。
任せる。
その代わり、お前はそっちをやれ。
そう言われるのは、思っていた以上に強い。
「分かりました」
ゼノは頷く。
「現場、ちゃんとやります」
「そうしろ」
そこでイグニスは立った。
「俺は帰る」
「早いですね」
「お前も長居するな」
イグニスは言う。
「明日から現場だろ」
「そうですね」
「じゃあな」
それだけ言って、イグニスはさっさと出ていった。
あの男らしいと思った。
言うことだけ言って、変に残さない。
湿っぽくもしない。
でも必要なことはちゃんと置いていく。
《フィクサル:いい切り分けだ》
《ラグゼル:流れが多い時ほど、誰が何を持つかはっきりさせろ》
《エモーシア:任せるって言えるの、実は大事なのよね》
《ゼノ:だな》
ゼノは一人で、少しだけ酒を口にした。
店のざわめき。
夜の温泉郷。
今日の公演の残り熱。
頭の中には、舞台の最後の拍手と、ノクシアの次の音と、明日からの現場が一緒にあった。
忙しいな、と思う。
でも、嫌じゃない。
「ここにいたんだ」
その声で、ゼノは顔を上げた。
リリアンだった。
昼の演出家の顔ではない。
でも、ただの女の顔でもない。
今日一日全部を見てきた女の、少しだけ緩んだ夜の顔だった。
「いました」
ゼノが言う。
「知ってる」
リリアンは笑う。
「見れば分かる」
そのまま向かいに座る。
自然すぎて、断る隙もない。
「イグニスは?」
リリアンが聞く。
「先に帰りました」
「賢い」
リリアンは言う。
「明日からまた現場なんでしょ」
「はい」
そこで、リリアンは少しだけ真面目な顔になった。
「ノクシアのダンス」
言う。
「もっと強くしたい」
ゼノは自然と背筋を伸ばす。
「どの辺を?」
「今でも悪くない」
リリアンは言った。
「でもまだ、“踊れる”で止まってる。あの五人は、もっと“踊りが武器”にならないと駄目」
ゼノは頷く。
分かる。
「ジュリアは色気がある。でも、まだ自分の色気に寄る時がある」
リリアンが続ける。
「カレンは強いけど、身体が先に走る。レティアは賢い。でも賢いままだと冷たくなる。フィアは静かなのが武器なのに、たまに遠い。エマは……」
そこで少しだけ笑う。
「やっと喧嘩じゃなくなってきた」
ゼノも少し笑った。
「本人に言うと怒りますよ」
「知ってる」
リリアンは言う。
「でも、あの子は伸びる。かなり」
その言い方に、ゼノは少しだけ安心した。
リリアンはちゃんと見ている。
ミラベルも。
ノクシアも。
その上で、“もっと強くしたい”と言っている。
その言葉が、今夜は妙に心強かった。
《ノクティア:そこ、私も同意》
《エモーシア:エマ、ちゃんと火がついてたものね》
《リュケオン:夜組、伸びるぞこれ!》
《ゼノ:お前ら、ほんと見てるな》
《ノクティア:だって面白いんだもの》
「明日から現場なんでしょ」
リリアンが言う。
「はい」
「なら、早く寝なさいよ」
さらっと言う。
ゼノは少しだけ目を瞬いた。
「急に母親みたいなこと言いますね」
「嫌?」
リリアンが笑う。
「嫌ではないです」
「でしょうね」
そう言って、茶を一口飲む。
「時間が出来たら、新しい会場の話をゆっくりしましょう」
ゼノは、その一言に少しだけ胸の奥が動くのを感じた。
新しい会場。
町の先に作る場所。
リリアンと話す、その先の舞台。
「ゆっくり、ですか」
ゼノが言う。
「ええ」
リリアンは頷く。
「今度はちゃんと座って。図でも描きながら。あんた、そういう話になると目が変わるし」
「見てるんですね」
「見てるわよ」
当たり前みたいに言う。
「それに、そういう話してる時の顔、わりと好き」
またそれだ。
何でもない顔で、ちゃんと心臓を叩いてくる。
ゼノは少しだけ困ったように笑った。
「……あなた、ずるいですね」
「知ってる」
リリアンは即答した。
最悪だった。
でも、嫌じゃない。
リリアンはゼノの肩を軽く叩く。
「私はまだ居るから」
言う。
「早く帰りなさい」
「店に?」
「そう」
リリアンは笑った。
「私はもう少し飲む。あんたは明日から町づくりでしょ」
ゼノは少しだけ息を吐いて、頷く。
「分かりました」
言う。
「帰ります」
「よろしい」
そう言って、リリアンは少しだけ手を振った。
ゼノは席を立ちながら、また思う。
かなり惹かれている。
だいぶまずい。
でも、今はそれでいい気もする。
《エモーシア:はい、また落ちてる》
《リュケオン:分かりやすいなあ!》
《ノクティア:でも嫌いじゃないわ、そういう顔》
《フィクサル:本筋を忘れるな》
《ゼノ:忘れてねえよ》
《ラグゼル:忘れてはいないな。少し揺れているだけだ》
店の戸を開けると、夜の温泉郷の空気が少し冷たかった。
明日からまた現場だ。
飯場。
土台。
ダンジョン。
町。
でも、その向こうに、音楽もある。
ノクシアの次の曲も、会場の話も、ちゃんと残っている。
だったら、前へ行くしかない。
ゼノは小さく息を吐いて、湯気の向こうへ歩き出した。
夜はまだ終わっていない。
けれど、熱はもう次の形に変わり始めていた。
――――
次回
第97話 トート




