第93話 前夜、舞台はまだ秘密を抱いている
公演前日の朝は、少しだけ息が浅い。
苦しいわけじゃない。
胸が痛むわけでもない。
ただ、歌舞殿の戸を開けた瞬間、胸の奥がひとつきゅっと狭くなる。
ああ、明日だな、と身体の方が先に分かる。
中は、もう動いていた。
鍵盤の短い音。
靴裏が板を擦る音。
数を取る声。
止める声。
笑いそうになって、でも途中でちゃんと引っ込めた顔。
ミラベルの十二人が、もう並んでいる。
新入りの五人も、前みたいな“増えた子たち”の見え方ではなかった。もちろん差はある。立ち方の太さも、息の置き方も、まだ元の七人の方が強い。
でも、舞台に立たせた時に、ちゃんと十二人で見えるところまで来ていた。
中央にエレナ。
その横にセレスとリィナがいるだけで、舞台の骨が立つ。ミュラは甘さを入れすぎる手前で止まれるようになって、ミルファは跳ねたあとに迷子にならなくなった。ナディアは前へ出る時だけ目つきが少し変わる。リーシャはその反対側で、ちゃんと柔らかく残る。
新入りの五人も、それぞれ色を持ってから変わった。
陽黄のルミナ。
薄藤のノエル。
緋橙のサニア。
紅紫のベルナ。
青磁のユノ。
色って、やっぱり馬鹿にできないなとゼノは思う。
布一枚なのに、人はそれだけで立ちやすくなる。
自分がどこにいるか、どう見られるか、急に輪郭が出る。
「そこ、一回止めて」
声を掛けたのはリリアンだった。
ぴたりと、十二人が止まる。
今日は旅の踊り子の顔じゃない。いや、見た目は相変わらず派手だ。布も飾りも、朝から目にうるさいくらいだ。
でも目だけが違う。
舞台を見ている目だ。
「一曲目で全部見せようとしすぎ」
舞台へ上がりながら、リリアンが言う。
「気持ちは分かるけど、それやると客は“増えた”しか持って帰れないの。多い、すごい、で終わる。それじゃ足りないでしょ?」
エレナが小さく息を整えて、頷いた。
「……はい」
「最初は絞る」
リリアンは中央に立って、指先で位置を示した。
「エレナ。ミュラ。リーシャ。最初はこの三人。ここで“ああ、ミラベルだ”って思い出させる。そのあとよ、十二を見せるのは」
そう言って、エレナを半歩だけ前へ出す。ミュラの角度を少し変え、リーシャを一歩ぶんだけ引く。後ろの列も、綺麗に揃えすぎない。視線の向きをほんの少しだけ散らす。
たったそれだけなのに、見え方が変わった。
ゼノは思わず眉を動かした。
上手い。
立ち位置を直しているだけじゃない。
客の目がどこから入るか、その順番で組み替えている。
「一曲目の『ミラベル』は、安心させる曲」
リリアンが言う。
「まず“知ってる顔”を出す。増えた話は、そのあと」
ベルナが、へえ、と笑った。
「細か」
「細かくないと雑になるの」
リリアンは即答する。
「二曲目の『笑って奪え』は逆。ここは最初から前へ出ていい。さっき預けた可愛さを、そのまま噛みにいく」
サニアが口元を上げた。
「それ、好き」
「でしょうね」
リリアンも笑う。
「でも一人で食べに行かない。ナディアと並ぶ時は、喧嘩じゃなくて、同じ獲物を追う感じ」
「言い方が嫌」
エレナが即座に返す。
「でも分かる」
ナディアが言った。
エレナは一瞬だけ黙って、それから小さく息を吐いた。認めたくない時の顔だった。
ゼノは少し離れた場所から、そのやり取りごと見ていた。
一曲目『ミラベル』。
二曲目『笑って奪え』。
既存曲を三つ挟んで、六曲目『きみのリボンがほどける前に』。
七曲目『恋の順番待ちなんて、してられない』。
八曲目『ひみつのハートは、きみにだけ』。
流れはもう決まっている。
並びも、意味も、できている。
でも、見せ方ひとつで別物になる。
リリアンの指示は、妙に知りすぎていた。
最初に誰を抜くか。
どこで全体を見せるか。
可愛さをどう客へ渡して、どこで取り返すか。
熱を上げきらず、でも切らさず、次へ渡すやり方。
言葉にすると簡単だ。
でも、それを当たり前みたいな顔でやるのが引っかかった。
「ゼノ」
リリアンが振り返る。
「見てるだけ?」
「使い方が雑ですね」
ゼノは舞台へ上がった。
「雑に振った方が働くじゃない」
「否定しにくいです」
客席側へ立つ。
歌舞殿の広さ。
板の照り。
正面から見た十二人の密度。
温泉湖の方から入る空気。
リリアンが、隣に来た。
「一曲目の終わりで、一回ちゃんと全員を見せる」
「はい」
「でも見せきらない」
「……はい」
「“まだある”って思わせたまま、二曲目で前に出る」
その言い方が、妙に耳に残った。
全部見せたら終わる。
少し残すと、客は次を欲しがる。
分かる。
分かるのに、なんでこんなに引っかかるのかが嫌だった。
ゼノは横目でリリアンを見た。
異国の布。
細い指。
わざと人を食ったみたいな笑い方。
なのに、舞台の話になると急に具体的すぎる。
怪しい。
かなり。
でも今は飲み込むしかない。
明日が本番だ。
優先順位を間違えるな、と自分に言い聞かせる。
なのに神どもは、こういう時だけ絶妙にうるさい。
《リュケオン:お、気になってる気になってる》
《ノクティア:遅いのよ》
《エモーシア:あの女、知りすぎてるもの》
《フィクサル:今は明日のことだけやれ》
《ゼノ:分かってる》
《リュケオン:でも気になるだろ》
《ゼノ:……気にはなる》
昼まで、練習は止まらなかった。
一曲目は“顔”だ。
エレナ、ミュラ、リーシャで客の目を先に取る。そこから十二へ広げる。
二曲目で熱を一段上げる。
ナディアとサニアが前へ出る。ベルナの少し危ない色もそこに混ざる。そこをエレナが散らしすぎず、セレスが締め、リィナが流れを切る。
六曲目『きみのリボンがほどける前に』で、柔らかく落とす。
七曲目『恋の順番待ちなんて、してられない』で、増えた意味を正面から叩きつける。
八曲目『ひみつのハートは、きみにだけ』は、客一人ひとりに“こっち見た”と思わせるための曲だ。
強い流れだと、ゼノは思った。
かなり強い。
「ルミナ」
イグニスが言う。
「は、はいっ!」
「六曲目で死ぬな。あそこでお前が笑うと、客の顔が変わる」
「その言い方だと余計死にます!」
「じゃあ死ぬな」
「雑すぎません!?」
場が少し笑う。
笑いが起きるくらいには、全員ちゃんと張りすぎていない。
それが良かった。
ノエルにはリィナがついている。
「七曲目で引きすぎます」
「……はい」
「でも今日は昨日よりいいです」
それだけで、ノエルの背筋が少しだけ伸びる。
ベルナにはセレス。
「危ないのは結構です。でも安売りしないでください」
「好き、その言い方」
「褒めてません」
「うん、知ってる」
ユノにはリーシャがついて、呼吸の合わせ方を教えている。サニアはナディアと張り合いながら、でも本当にぶつからないぎりぎりを覚え始めていた。
別の舞台側では、ノクシアも止まっていない。
ジュリアは腰で取る。
カレンは前のめりの熱をそのまま出す。
レティアは遊びを線へ変え、フィアは静かなまま目で刺す。
エマは、もう完全に盗る側の顔だった。
リリアンはミラベルとノクシアを行き来しながら、どっちもちゃんと別物として立たせている。
光は光。
夜は夜。
混ぜない。
でも、どっちにも舞台に立つ理由がある。
その仕事ぶりを見るたびに、ますます普通の旅芸人には見えなかった。
夕方前、ゼノはイグニスたちを集めた。
歌舞殿の端に卓を置く。
ダリオ、ボルグ、カイルス、リュシエル、マギウス。
イグニスは壁にもたれ、リリアンは椅子に浅く腰掛けた。
「最終確認、いきます」
曲順をもう一度なぞる。
一曲目『ミラベル』。
二曲目『笑って奪え』。
三〜五曲目、既存曲。
六曲目『きみのリボンがほどける前に』。
七曲目『恋の順番待ちなんて、してられない』。
八曲目『ひみつのハートは、きみにだけ』。
「頭の二曲で客の顔を変える」
イグニスが言う。
「『ミラベル』で掴む。『笑って奪え』で、いつもと違うと理解させる」
「既存曲三つは落としすぎない」
ダリオが続ける。
「でも六から八の前に、一回だけ呼吸は戻す」
「六曲目からは流れで見せる」
リリアンが言った。
「単曲で勝とうとすると弱い。三つでひとつの顔にする」
マギウスが共鳴鈴の箱に手を置く。
「鈴は八曲目のあとだな。最後に“自分だけに向けられた”と思ったまま手を伸ばさせた方が、売れる」
「さすがですね」
ゼノが言う。
「お前もその顔してる」
ダリオが笑った。
「してますよ」
ゼノは即答した。
「ここまで仕込んだんで」
細かい確認はかなり長引いた。
入りの間。
位置の詰め。
新曲三連のつなぎ。
共鳴鈴を売る導線。
終演後の流れ。
全部詰め終わる頃には、外はもう夕方をこえていた。
「飯にしましょう」
ゼノが言うと、誰も反対しなかった。
温泉湖の店は、前夜らしい明るさを持っていた。
湖から少し冷えた風が入る。
店の中は暖かい。
魚を焼く匂い。汁の湯気。低い話し声。
明日が公演だと知っている顔が多いのだろう。
みんな少しずつ浮いている。
魚。汁。肉。野菜。酒。
話は自然に明日のことへ寄った。
「『ミラベル』で始めるのは正解だな」
ダリオが言う。
「顔として一番強いですから」
ゼノが答える。
「で、『笑って奪え』で温度を変える」
カイルスが笑う。
「嫌な並びだな。逃げる暇がない」
「逃がす気ないだろ」
ボルグが低く言う。
「ないですね」
ゼノは素直に返した。
マギウスが魚をほぐしながら言った。
「最後が『ひみつのハートは、きみにだけ』なのはいい」
「なぜです?」
「持ち帰る顔になるからだ」
マギウスは即答した。
「終わったあとで客が一番反芻するのはあの感じだ。そこで鈴に流せる」
ゼノは頷く。
食事が進み、話も少しずつ緩んでいく。
やがて、ひとり、またひとりと席を立った。
ダリオ。
ボルグ。
カイルス。
リュシエル。
マギウス。
最後にイグニスが立ち上がる。
「明日」
短く言う。
「はい」
「遅れるな」
「遅れませんよ」
「信用はしてない」
それだけ言って、イグニスも帰った。
気づけば、残ったのはまた二人だった。
ゼノとリリアン。
妙にそうなる。
偶然なのかそうじゃないのかは分からない。
でもゼノは、その時間を嫌っていなかった。
リリアンは茶を飲みながら、湖の向こうを見ていた。
少ししてから、何でもない顔で言う。
「今度の町でも、会場は作るのでしょう」
「作ります」
「なら半端はやめなさい」
ゼノが顔を上げる。
「どうせならドーム規模」
リリアンはさらっと言った。
「トロッコも欲しいし、上からゴンドラを落とせる高さもいるわね。最後は花火も欲しい」
その瞬間、ゼノの中で何かが止まった。
ドーム。
トロッコ。
ゴンドラ。
花火。
言葉の並びが、あまりにも前世だった。
大きな箱。
外周。
移動演出。
上から降りる装置。
終盤の花火。
そんな光景を、ゼノは前の世界で何度も見てきた。
だから分かる。
それを自然に一息で繋げて話せるのは、おかしい。
「……どこで知ったんですか」
ゼノは思わず聞いていた。
「何を?」
リリアンが笑う。
「今の話です」
「企業秘密」
「またそれですか」
「便利だもの」
リリアンは平然としている。
「でも違う? 会場を作るなら、見に来る理由まで建物の中へ入れておいた方が強いでしょう」
ゼノは黙った。
建物だけじゃない。
見に来る理由まで、設計に入れる。
そんなの、ただ踊る側の人間の言葉じゃない。
神たちが、案の定うるさい。
《リュケオン:出た出た!》
《エモーシア:もう前世の匂いしかしないわよ》
《ノクティア:やっと繋がった?》
《ラグゼル:盛るなあ》
《フィクサル:だが嫌いじゃない》
《ゼノ:お前まで言うのか》
《リュケオン:絶対見てたやつの発想だろ!》
《ゼノ:……だよな》
《ノクティア:面白い女でしょ》
《ゼノ:かなりな》
面白い。
怪しい。
それに、かなり綺麗だ。
この女は、自分の知らないどこかの匂いを持っている。
しかも、それを隠してるのか、隠してないのかもよく分からない顔で、平然と先の会場の話まで広げてくる。
そんな相手に引っ張られない方が難しい。
「何」
リリアンがこちらを見る。
「そんな顔して」
「変なこと言うなと思ってます」
ゼノは正直に答えた。
「変?」
「かなり」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
リリアンは目を細めた。
「じゃあ残り半分も、そのうちそうなりなさい」
ずるい返しだった。
ゼノは思わず笑ってしまう。
「公演が終わったら」
リリアンが言う。
「次は会場の話、ちゃんと詰めるわよ」
「そこまで手を出す気ですか」
「面白いものには出す」
リリアンは肩をすくめる。
「それに、あんたもそういうの好きでしょ」
好きだ。
かなり。
大きい会場。
客を飲み込む光。
近くまで来る推し。
上から降りる演出。
最後の花火。
そんなものをこの世界で本気で作れるなら、面白くないはずがない。
「……好きですね」
ゼノが小さく言う。
「何が?」
「両方です」
その答えに、リリアンは少しだけ笑った。
茶器を置く音がやけに小さかった。
「いい返事」
湖の向こうはもう暗い。
店の灯りだけが柔らかい。
ゼノはその明かりの中で、ようやく認めた。
かなり好きになっている。
まだ言葉にする段階じゃない。
でも、目が追う。声を拾う。気づくと背中を見ている。
そこまで来てしまっている。
《エモーシア:はい、落ちた》
《リュケオン:完全に落ちたな!》
《ノクティア:分かりやすい男》
《フィクサル:浮かれるな。明日が先だ》
《ゼノ:分かってる》
《エモーシア:でも終わったらもっと面倒そうね》
《ゼノ:それも分かってる》
リリアンが立ち上がる。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
数歩進んで、振り返った。
「明日、奪いなさいよ」
少し笑う。
「一曲目から八曲目まで、全部」
その言い方が、やっぱり好きだった。
ゼノは頷く。
「やります」
「よろしい」
そう言って、リリアンは湯気の向こうへ消えていった。
ゼノは、その背中が見えなくなったあともしばらく席を立たなかった。
前夜だ。
舞台の形は見えた。
十二人の光が、明日どう客席へ落ちるかも見えた。
町の先に作るべき会場の輪郭まで、少しだけ見えてしまった。
そして、自分の気持ちまで見えてしまった。
明日だ。
十二の光が客席を奪う。
その先の話は、そのあとでいい。
――――
次回
第94話 十二人で、客席を奪う




