第91話 現場の湯気、歌の熱
町の二日目は、木槌の音より先に鍋が鳴った。
まだ朝靄の薄く残る草原の真ん中で、飯場の火だけがもう生きている。
薪が爆ぜる。釜の底が鳴る。白い湯気が立ち上って、夜露を含んだ冷たい空気を押しのけていく。
昨日まで何もなかった場所なのに、鍋が一つ鳴っているだけで、そこが急に“人のいる場所”になるから不思議だった。
ゼノは飯場の前で腕を組み、その湯気を眺めていた。
「……いいですね」
ぽつりと漏らすと、隣のロイドが鼻で笑った。
「鍋が鳴ると、現場って感じがするな」
「寝台より先に、こっちかもしれません」
「そりゃそうだ。腹が減ってたら働く気も出ねえ」
その通りだ、とゼノも思う。
寝る場所は大事だ。
でも、朝一番で人の顔を変えるのはだいたい飯だ。
少し遅れてガルドもやってきた。手に木椀を持っているあたり、最初から食う気満々だ。
「匂いがあるだけで違うな」
飯場を見ながら言う。
「これなら人が散らねえ」
「そのために先に火を入れました」
現場頭もやってきた。
昨日より早い。しかも今日は、もう完全に現場の顔をしていた。
「おい」
飯場の釜を見て言う。
「ちゃんと煮えてんのか」
「煮えてます」
「味は」
「まだ質素です」
「上等だ」
現場頭は即答した。
「現場の朝飯なんざ、腹に入って温けりゃ七割勝ちだ」
その返しに、王都側の若い人足たちが少し笑う。
昨日よりずっと空気が柔らかかった。
今日の朝飯は、具の少ない汁と、固めのパン、それから塩気の強い肉が少し。
豪華とは言えない。だが、現場前の腹に入れるなら十分だ。
器を持った人足たちが自然に並ぶ。
昨日までどこか他人行儀だった王都側の連中も、今日はもう迷わず飯場へ寄ってきていた。
「うま……」
若い人足が汁をすすって言う。
「昨日の朝はパンだけだったからな」
横の男が返す。
「昨日は着いたばっかだったろ」
現場頭が言う。
「いや、あれはあれでうまかったですけど」
「じゃあ黙って食え」
また笑いが落ちる。
ゼノはその様子を見ながら、小さく納得していた。
鍋が鳴る。
朝飯を食う。
文句を言いながらでも並ぶ。
その流れができた時点で、もう少しだけ町になる。
町ってのは、派手な建物が立つ前に、こういうところから根を張る。
《視聴者数:2,493,118》
〈コメント:現場の朝飯いいなあ〉
〈コメント:鍋があるだけで一気に町感出る〉
〈コメント:二日目の空気、好き〉
〈コメント:王都組がもう馴染み始めてるのいい〉
《エモーシア:朝ごはんって本当に大事ね》
《ラグゼル:腹が満ちると動きも変わる》
《フィクサル:無駄話はいい。進め》
《リュケオン:でもこういうの好きなんだよな!》
《ゼノ:分かってるよ。今日も頼む》
飯が落ち着く頃、また荷馬車の音がした。
二日目の資材だ。
木材。縄。布。追加の寝台骨組み。
二棟目の仮宿舎に使う板材。
それに細かい釘や金具まで積んである。
現場頭がすぐに立ち上がった。
「よし、来たな」
文官も今日は慌てない。目録を抱えたまま、ちゃんと前に出てくる。昨日のわたわたした感じが、少し薄くなっていた。
「今日は二棟目の仮宿舎を立てます」
ゼノが言う。
「全部やるのか?」
現場頭が聞く。
「骨は俺が立てます」
ゼノは答えた。
「でも、その後の噛み合わせと細部はそっちで」
現場頭の目が細くなる。
「任せるのか」
「全部俺がやると、現場が死ぬんで」
ゼノは言った。
「骨組みだけ一気に作ります。その先はお願いします」
その返しに、現場頭の顔が少しだけ変わった。
便利な魔法使いを見る顔ではない。
現場を回す側として、こちらを見始めた顔だった。
「……悪くねえ」
低く言う。
「任せろ」
ゼノは草原へ一歩出る。
二棟目の仮宿舎。
一棟目との距離。風の抜け。人の出入り。
夜につまずかない広さ。寝台を並べた時の圧迫感。
頭の中で全部組む。
片手をかざした。
『《建築補助:思考設計》』
土が低く鳴る。
王都側の人足たちは、もう昨日ほど騒がない。
それでも、息を呑む気配は分かる。
木材が浮く。
板が走る。
縄が締まる。
柱が立ち、梁が噛み、宿舎の骨が一気に形を持つ。
『《生活魔法:構造認識》
《生活魔法:安全固定》
《生活術式:定着》』
骨組みが立った。
昨日と違うのは、そのあとだった。
ゼノは一歩引く。
「ここからは、お願いします」
現場頭が一瞬だけ黙る。
それから口の端を上げた。
「よし!」
声を張る。
「聞いたな! 骨はもうある! ここから先は俺らの仕事だ!」
その言葉で、王都側の人足たちの顔がはっきり変わった。
木槌を持つ。
板を運ぶ。
釘を打つ。
骨が見えているから、次の手が早い。
文官まで少しだけ走っていた。
「いいですね」
ロイドが横で言う。
「こういうの」
「全部こっちで奪うと、人が育たないので」
ゼノは答える。
「昨日より顔がいい」
「珍しく真っ当なこと言うな」
「だいたいいつも真っ当です」
「どの口が」
ガルドがそこで、土の向こうを見た。
「なら、こっちもやるか」
低く言う。
ゼノもそちらを見る。
耕作放棄地。
まだ荒れている。草が伸び、土は痩せ、見た目だけでは“戻る畑”に全然見えない。
「行きますか」
「行こう」
ガルドは頷いた。
「早めに手を入れときたい」
――
畑側は、現場の熱と種類の違う静けさがあった。
木槌の音は遠い。
風の抜けだけがある。
草の匂い。乾いた土。
足元に、昔は耕されていた名残だけが、うっすら残っていた。
ゼノはしゃがみ、土を手に取る。
軽い。
ぱさついている。
すぐ作物が喜ぶ土ではない。
「……駄目ですね」
「駄目だな」
ガルドも即答した。
「すぐ良い畑に戻る土じゃねえ」
「ですよね」
ガルドは足先で土を返しながら言う。
「野菜は土の機嫌がそのまま出る。急いで種だけ入れても、ひょろいのしか育たん」
ゼノは黙って聞いた。
町は勢いで前へ出る。
飯場も宿舎も、手を入れればすぐ形になる。
でも畑は違う。急かしたぶんだけ、貧相なものしか返さない。
「まずは土づくりですね」
「そうだ」
ガルドは頷く。
「良い野菜を作るなら、良い土が要る。良い土にするなら、良い堆肥が要る」
そこでゼノは顔を上げた。
「堆肥場」
「必要だ」
ガルドが言う。
「ちゃんとやるならな。野菜くず、落ち葉、藁、家畜が入るならそれも使う。回して、寝かせて、土に戻す場所が要る」
ゼノは頭の中でその線を組み直す。
畑を戻す。
野菜を作る。
保存食へ回す。
町の胃袋にする。
その一番手前に、堆肥場がある。
遠回りに見える。
でも、たぶん一番早い。
「……要りますね」
「要る」
ガルドは短く言った。
ゼノはすぐ立ち上がる。
「文官呼びます」
仮設現場へ戻ると、ちょうど文官が帳面を抱えて走っていた。
それを捕まえる。
「すみません」
「な、何ですか!?」
「堆肥場の資材も追加で王都へ回してください」
「た、堆肥場?」
「はい」
ゼノは頷いた。
「耕作放棄地を畑へ戻すなら必須です。囲い、土留め、撹拌用の道具、簡易の屋根。場所はこっちで切ります」
文官は少しだけ目を見開いた。
「……畑も本気なんですね」
「本気です」
ゼノは答える。
「町が食えないと話にならないので」
その返しに、文官の顔が少し締まる。
すぐに帳面へ書き込んだ。
「分かりました。王都へ回します」
「お願いします」
文官が去ったあと、ガルドが満足そうに頷いた。
「いい」
「まずは堆肥場ですね」
「そうだ」
ガルドは土を見る。
「畑は、急いでる顔した奴にあんまり優しくねえ。でも、手を入れた分はちゃんと返してくる」
その言葉が、ゼノには妙に残った。
町づくりは勢いでも進む。
でも畑は違う。
だからこそ面白い、と思った。
――
一方その頃、温泉郷では歌の方も止まっていなかった。
歌舞殿では、ミラベルの十二人がもう汗だくだ。
「違う」
イグニスが言う。
「ルミナ、笑うの遅い」
「い、今、笑ってました!」
「遅い」
「ひどい!」
「ノエル、消えるな」
「消えてません……!」
「消えてる」
そのやり取りに、ミルファが吹き出した。
エレナは笑わない。
その代わり、真ん中に立つ線が昨日より一段太い。
セレスは静かに全体を締め、リィナは新入りの揺れを細く切る。
ミュラは甘くしすぎず、ナディアは押しすぎないぎりぎりで前へ出て、リーシャは自分の輪郭を少しずつ残し始めていた。
新入り五人の色も、舞台の中でだいぶ馴染み始めている。
陽黄のルミナ。
薄藤のノエル。
緋橙のサニア。
紅紫のベルナ。
青磁のユノ。
色がつくだけで、人は少し立ちやすくなる。
それは舞台でも同じらしかった。
別の舞台側では、ノクシアがリリアンの前で踊っている。
「ジュリア、腰で取って。胸で押さない」
「はいはい」
「カレン、早い」
「分かってる!」
「レティア、遊ぶのを一拍遅らせる」
「そこが楽しいのに」
「フィア、目を逸らさない」
「……はい」
「エマ」
「何」
「今のは良かった」
エマが一瞬だけ固まった。
「……褒め方が雑」
「でも嬉しいでしょ」
「うるさい」
その返しに、ジュリアとレティアが笑う。
フィアは少しだけ目を細め、カレンは「今のほんと良かった」と横から余計なことを足して、エマがさらに嫌そうな顔をした。
でも、その嫌そうな顔さえ、前よりずっと柔らかい。
夜を着る五人は、ちゃんと群れになり始めていた。
――
夕方。
ゼノが温泉郷へ戻る頃には、草原の仮設現場はもう昨日よりしっかり“働く場所”になっていたし、歌舞殿の方もまた一段熱を増していた。
町も歌も止まらない。
ゼノは、まだ土の匂いの残る自分の手を見下ろして、少しだけ笑った。
飯場。
二棟目の宿舎。
堆肥場の追加。
そして歌。
二日目の現場は、鍋の湯気と、土の匂いと、遠くの歌声を全部抱えたまま、ちゃんと前へ進んでいた。
《視聴者数:2,531,902》
〈コメント:畑の話ちゃんと入るのいい〉
〈コメント:堆肥場まで視野にあるの強い〉
〈コメント:現場とアイドルが両方進むの好きすぎる〉
〈コメント:ノクシアもミラベルもちゃんと成長してる〉
〈コメント:読んでてずっと楽しい〉
《フィクサル:悪くない》
《ラグゼル:土も人も流れができてきた》
《エモーシア:鍋と畑と歌、全部あるのいいわね》
《リュケオン:忙しいのにちゃんと面白い!》
《ノクティア:光も夜も、置いていかれてないじゃない》
《ゼノ:置いていく気はないからな》
《ノクティア:そういうとこよ》
町はまだ途中だ。
歌も、まだ仕上がりきっていない。
でも、途中だから面白い。
今はまだ、どっちも伸びる余地だらけだ。
――――
次回
第92話 基礎が沈み、十二が燃える




