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追放された魔術師は、神に観測されながら暮らしている〜生活魔法しか使えないのに、加護が止まりません〜  作者: 灰音 澪


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第89話 心臓を叩く女

 歌舞殿に残った熱は、日が落ちてもすぐには消えなかった。


ミラベルの新しい色。

ノクシアの最初の牙。

イグニスが落とした三曲。

音楽団の顔つき。

リリアンの笑い方。


全部が、今日一日で一段進んだ。


ゼノは黄昏時の空気を吸いながら、歌舞殿の外へ出たところで、少しだけ肩を回した。


明日から、王都側の資材搬入が本格的に始まる。

そうなれば、自分は町の方へ張りつく時間が増える。

飯場。

簡易宿舎。

倉庫。

人足。

荷の流れ。

王都側との折衝。


歌の方ばかり見ていられなくなる。


だから、その前に言っておかなければならないことがあった。


「……よし」

 ゼノが小さく言う。


覚悟、というほど大げさなものじゃない。

でも、自分がしばらく手を離すと決めるには、それなりに気合いが要った。


 ――


 晩飯は温泉郷の落ち着いた店にした。


歌舞殿で一通り区切りをつけてから、ゼノが全員へ声をかけたのだ。


「今夜、飯行きませんか」


それだけで、空気が少し動いた。


「また何か話か」

ダリオが聞く。


「はい」

ゼノは頷いた。

「なので、イグニス、リリアン、ダリオ、ボルグ、カイルス、リュシエル、来てください。マギウスにも声をかけます」


イグニスは特に嫌そうな顔もしなかった。

リリアンは最初から来る気だった顔をしている。


そうして、夜。


飯屋の奥の長い卓に、いつもより濃い顔ぶれが揃った。


イグニス。

リリアン。

ダリオ。

ボルグ。

カイルス。

リュシエル。

マギウス。

そしてゼノ。


飯屋の灯りはやわらかい。

肉の匂い。

出汁。

酒。

湯上がりの客の笑い声。


だが、この卓の空気だけは少しだけ違った。

仕事の顔だ。

しかも、かなり面白い仕事の前の顔。


「で」

ダリオが酒を置いて言う。

「何だ」


ゼノは少しだけ全員を見回した。


「明日から、王都側の資材搬入が本格的に始まります」

真面目な顔で言う。

「なので、俺は町づくりの方へかなり時間を持っていかれます」


誰も驚かない。

そこはもう分かっていたことだ。


ただ、分かっていても、口にされると少しだけ重みが出る。


「だろうな」

ボルグが言った。


「だから」

ゼノは続ける。

「公演までの間、歌の方、頼みます」


イグニスは水を一口飲み、短く返す。

「分かってる」


リリアンは笑った。

「えらい素直ね、今夜は」


「任せるって言う側がぐだぐだしてると、見苦しいので」

ゼノが答える。


「いいじゃない」

リリアンが言う。

「そういう時の男の顔、嫌いじゃないわ」


ゼノは、その返しに一瞬だけ困る。


こういうのだ。

この女は、何でもない顔で少しだけ心臓を叩いてくる。


ダリオが、その微妙な間を見逃さない顔で笑っていた。

最悪だ。


「リュシエル達には」

ゼノは少し咳払いして続けた。

「新曲三曲を入れた編成、仕上げ、録音をお願いします。共鳴鈴に落とす分も、かなり急ぎます」


リュシエルがすぐに頷く。

「順番はもう頭の中で組んでいます」


「早いですね」


「イグニスが止まらないので」

リュシエルは淡々と言った。

「こちらも止まれません」


「誰のせいだ」

イグニスが低く言う。


「主にあなたです」

カイルスが笑う。


マギウスには、ゼノが少しだけ真面目な顔で向き直った。


「共鳴鈴、頼みます」


マギウスは酒ではなく果実水を回しながら、少しだけ目を細める。

「分かった」


「数はいつもの倍は欲しいです」

ゼノは答えた。

「5人の分を多めにしてほしい」


「そうだな」


「材料は大丈夫ですか?」


「親父がかなり慣れてきたから大丈夫だ」

 マギウスが言う。


「アルノフさんが。助かります」

ゼノは答える。

「アルノフさんにお願いして良かったです」


マギウスは少しだけ笑った。

「あの時は焦ったな」


「アルノフさんを分かっているマギウスだから了承してくれましたね」


「今は誇りを持って、作ってくれてるよ」


ダリオが、そこで少しだけ真面目な声になった。

「公演まで、町と歌を並行でやるんだな」


「やります」

ゼノは頷く。

「やるしかないので」


「でかく出たな」


「最初からです」


リリアンが、パンにソースを付けながら言う。

「でも、そういう時って、片方だけ見てると両方死ぬのよね」


ゼノはその言葉に頷いた。


「分かってます」

言う。

「だから、歌の方は任せるんです」


その一言に、場が少しだけ静かになる。


任せる。

それは口で言うより、少し重い。


イグニスは黙っていた。

だが、その黙り方は拒絶ではない。


「ミラベルは心を掴める」

イグニスが言った。

「ノクシアも、一曲目で顔を作れる。あとは磨くだけだ」


リリアンがそこで口元を上げる。

「磨くだけ、ね。簡単に言うじゃない」


「簡単じゃない」

イグニスは即答した。

「でも、やる」


「嫌いじゃない返し」

リリアンは笑った。


その二人のやり取りを見ながら、ゼノはほんの少しだけ安心していた。


この二人は、ぶつかる。

でも、そのぶつかり方がちゃんと前を向いている。

そこが強い。


食事は進んだ。


野菜。

肉。

スープ。

少し強い酒。

柔らかいパン。


話すことは多いのに、変な張り方はしない。

こういう飯は、気持ちがいい。


やがて、夜も少し深くなる。


ダリオたちが先に立つ。

「俺らはもう行くぞ」


「はい」

ゼノが答える。


ボルグは「飯は食え」とだけ言った。

カイルスは笑いながら「お前も寝ろよ」と言う。

リュシエルはもう録音順を考えている顔だった。

マギウスは最後に、「共鳴鈴は任せろ」とだけ落として出ていく。


イグニスも席を立った。


「先に戻る」

短く言う。


「はい」


「明日、町だろ」


「はい」


「寝ろ」

その一言だけ残して、さっさと出て行く。


結局、あの男はそういうところだけちゃんとしている。


そして、気づけば卓に残っていたのは二人だった。


ゼノと、リリアン。


飯屋の灯りがやわらかい。

客はまだいる。

でも、さっきまでの仕事の卓とは違って、少しだけ空気がゆるんでいた。


リリアンは茶を飲んでいる。


「……残りましたね」

 ゼノが言う。


「ええ」

リリアンは笑う。

「残したんじゃない?」


「そう見えます?」


「見えるわよ」


その言い方に、また少しだけ胸の奥がざわつく。


この女は、本当に何でもない顔で人の足元を掬う。


「で」

リリアンが茶碗を置く。

「公演の話」


ゼノは少しだけ目を上げた。


「何です」


「演出」

リリアンは言う。

「私に任せなさい」


まっすぐだった。

冗談の顔をしていない。


ゼノは一拍だけ黙る。


「演出、ですか」


「そう」

リリアンは頷く。

「ミラベルの出し方。新入り五人の見せ方。新曲の温度差。客の目をどこで奪って、どこで泳がせて、どこで落とすか」


そこまで一気に言ってから、少しだけ笑った。


「そういうの、私、かなり得意よ」


得意だろうな、とゼノは思った。


この女は、舞台そのものを身体で知っている。

ただ踊るだけじゃない。

どこで客が息を呑むか。

どこで男が銅貨を投げるか。

どこで女が嫉妬し、どこで子どもが目を輝かせるか。

そういうのを、多分、国を跨いで見てきた。


「……お願いします」

ゼノが言った。


リリアンは、その返事を聞いて、少しだけ目を細める。


「素直ね」


「ここで意地張る理由がないので」


「そういう顔、好きよ」


またそれだ。


ゼノは茶を飲むふりで少しだけ視線を逸らした。

たぶん、遅い。

分かっている。

でも、分かっていても、この女の前だと少しだけ調子が狂う。


その時だった。


《リュケオン:あっ》

《エモーシア:あらあら》

《ノクティア:ふふ》

《ラグゼル:分かりやすいな》

《フィクサル:顔に出すな》

《ゼノ:お前ら黙れ》

《エモーシア:でも、気づいたわよね》

《ゼノ:何をだよ》

《ノクティア:その女を、ちゃんと目で追ってること》

《ゼノ:うるさい》

《リュケオン:恋だな!》

《ゼノ:違う》

《フィクサル:違わんな》

《ゼノ:最悪だ》


最悪だった。


だが、その最悪さえ、少しだけ可笑しい。


リリアンは、もちろん神の声なんて知らない。

だが、ゼノの一瞬の間だけは見逃さなかった。


「何」

口元を少し上げる。

「今、変なこと考えた?」


「考えてません」


「嘘ね」


「あなた、すぐ嘘って言いますよね」


「だって、分かるもの」

リリアンは笑う。

「目が少し泳いだわ」


ゼノはそこで、ほんの少しだけ参ったと思った。


この女に隠し事は難しい。

少なくとも、こういう小さな揺れはすぐ拾われる。


「町づくり、頑張って」

リリアンが言った。


今度は、少しだけやさしい言い方だった。


「公演までの間、そっちはそっちで、ちゃんと前へ出なさい」

続ける。

「歌の方は、私たちが仕上げる」


ゼノは、その言葉を正面から受けた。


町を作れ。

歌は任せろ。

そう言われるのは、想像していたよりずっと強かった。


「……頼みます」

ゼノは言う。


「ええ」

リリアンは頷く。

「だから、そっちは町を立てなさい。中途半端に戻ってきて口出ししないでよ」


「ひどいですね」


「大事なことよ」

リリアンは笑う。

「中途半端な男って、一番邪魔だから」


「そこまで言います?」


「言うわ」


でも、その言い方が、少しも嫌じゃない。


むしろ、ちゃんと押し出してもらっている感じがした。


ゼノは少しだけ息を吐いて、笑った。


「分かりました」

言う。

「町、ちゃんとやります」


「そうして」


リリアンは立ち上がる。

異国の布が、飯屋の灯りを少しだけ掠める。

この温泉郷の中にいるのに、やっぱり少しだけ別の国の匂いがした。


「じゃあ、おやすみ」

リリアンが言う。


「はい」


「ゼノ」

振り返って、少しだけ笑う。

「公演の日、ちゃんと見に戻りなさいよ」


その一言が、妙に深く落ちた。


ゼノは少しだけ間を置いてから頷く。


「戻ります」


「ならいいわ」


そう言って、リリアンは湯気の向こうへ消えていった。


ゼノは、その背中をまた少しだけ長く目で追った。


追ってから、自分で少しだけ困る。


ああ、やっぱりこれはまずいなと思う。

でも、嫌じゃない。


《視聴者数:2,389,604》


〈コメント:うわああああ好きだろこれ〉

〈コメント:リリアン強すぎる〉

〈コメント:神たちが全員気づいてて草〉

〈コメント:演出任せて、は最高すぎる〉

〈コメント:夜の空気よすぎるだろ……〉


《エモーシア:きれいな夜ね》

《リュケオン:面白くなってきたあああ》

《ラグゼル:いい女だ》

《フィクサル:浮かれすぎるな。明日から町だ》

《ノクティア:でも、ああいう女に惹かれるの、分かるわ》

《ゼノ:お前まで言うのか》

《ノクティア:今夜だけよ》


明日から、町づくりが本格的に動く。


飯場。

宿舎。

倉庫。

荷。

人。

道。


かなり忙しい。


でも、その忙しさの向こうに、公演がある。

ミラベルの十二の光があって、ノクシアの夜があって、その真ん中にリリアンがいる。


だったら、たぶんまだまだ面白くなる。


――――

次回

 第90話 現場頭の照れ隠し

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