第87話 十二の光、仕上げに入る
次の日の朝、温泉郷は少しだけ浮ついていた。
別に祭りの日ではない。
誰かが酒を撒いたわけでもない。
湖に珍しい客が来たわけでもない。
ただ、紙が出たのだ。
ミラベル十二人の発表公演を決めてすぐに、告知を出した。
それが温泉郷だけじゃなく、王都にも、近辺の村にも町にも、一気に撒かれた。
温泉郷の入口。
商縁通り。
果実酒広場。
王都の掲示板。
街道沿いの宿場。
村の井戸端。
紙は、人の口より早くはない。
だが、人の口が広がるための火種にはなる。
だから朝から、温泉郷のあちこちで同じ言葉が飛んでいた。
「十二人だってよ」
「ミラベルが?」
「新しい子も入るらしいぞ」
「王都にも貼られたって話だ」
「見に来る客、増えるんじゃないか?」
そのざわつきが、歌舞殿までちゃんと届いていた。
――
音舞殿の中は、もう朝から熱かった。
ミラベル十二人が並ぶ。
前日、一曲目『きみのリボンがほどける前に』を受けた顔のまま、まだ少し浮ついている者もいる。
だが、完全に夢の顔ではない。
告知が出た。
つまり、もう逃げられない。
その現実が、ちゃんと全員の足元へ落ちていた。
エレナはいつもより静かだった。
静かだが、そういう時の方が中心は強い。
セレスは表情を崩していない。
リィナは、もう新入り五人の動きを見ている。
ミュラは少しだけ緊張しているのに、口元だけは笑っている。
ミルファは落ち着かない。
ナディアは“来いよ”の顔。
リーシャは、緊張を逃がさないようにしている。
新入り五人も、昨日までとは違った。
ルミナは死にそうな顔のまま、でも消えていない。
ノエルは少しだけ前を見るようになった。
サニアはやる気が顔から漏れている。
ベルナは明らかに楽しんでいる。
ユノはまだ揺れるが、昨日よりは一本ある。
ゼノは、その十二人を見て、小さく息を吐いた。
「紙、もう王都にも貼られたそうですよ」
言う。
「聞いた」
ナディアが即答する。
「逃げ道、消えたな」
「最初からないですけどね」
ゼノは返した。
「でも、やるって感じが増した」
ミルファが言う。
「なんか、お腹のとこが変」
「それを緊張って言うんだよ」
ベルナが笑う。
「知ってるよ!」
リリアンは今日も朝から来ている。
柱にもたれ、異国の布を揺らしながら、その全部を面白そうに見ていた。
「いい顔してる」
言う。
「昨日より全員、ちょっとだけ“売り物”に近づいたわ」
「朝から言い方が嫌ですね」
ゼノが言う。
「褒めてるのよ」
リリアンは笑う。
「舞台の前では最高の褒め言葉」
その時だった。
音舞殿の奥から、鍵盤の蓋が上がる音がした。
イグニス。
昨日より明らかに顔が悪い。
寝てない。
だが、こういう時のこの男は、寝ていない方がだいたい危ない。
良い意味でだ。
「……来たな」
ダリオが低く言う。
「来ましたね」
カイルスも笑う。
ボルグは腕を組んだまま、何も言わなかった。
でも、少しだけ目が起きている。
リュシエルは、もう譜面台のない鍵盤の前で全部を組むつもりだと理解した顔をしていた。
ノクシアの五人まで、自然に視線を向ける。
「また朝から?」
ジュリアが笑う。
「そうみたい」
レティアも口元を上げる。
「いいな」
カレンが前のめりになった。
「ミラベルばっか曲増える」
「うるさい」
エマが言う。
「でも……まあ、聞く」
フィアだけは静かに舞台を見ていた。
あの顔は、音を待つ顔だ。
イグニスが座る。
鍵盤の前。
そこへ落ちた瞬間、空気が変わる。
ゼノはそこで確信した。
来る。
昨日の続きが、来る。
「二曲目」
イグニスが短く言った。
ミラベルの空気が、一段で張る。
「タイトルは」
イグニスが少しだけ間を置く。
「『恋の順番待ちなんて、してられない』」
サニアが、はっきり笑った。
「いいね」
小さく言う。
エレナの睫毛が揺れる。
ベルナは「来た」と顔に書いてある。
ルミナは、また死にそうになっていた。
「死ぬな」
ナディアが横から言う。
「い、今からなのに無理です……」
ミルファが吹き出した。
「ルミナ、朝からずっとそれだよ!」
「だって無理なものは無理なんです!」
だが、そうやって少しだけ崩れた方がいい。
完全に固まるより、ずっといい。
そして、鍵盤が鳴る。
一曲目『私のリボンがほどける前に』より、少しだけ前に出る。
可愛いだけじゃない。
ちゃんと“増えた意味”を客席へ押しつけるための音だ。
跳ねる。
でも柔らかさはまだある。
十二人の光が、一気に前へせり出してくる感じ。
イグニスが歌う。
「恋の順番待ちなんて してられない
この指 この声 先に見つけて
だって今日のわたしは
昨日よりずっと かわいいから
リボンの色が違うだけで
気づいてくれたらうれしいの
名前を呼ぶその一瞬
ぜんぶ特別にしたいんだよ
ひとりじゃないの でもね
ちゃんと私もここにいる
花が増えたこの景色
いちばん先に きみに見せたい
恋の順番待ちなんて 似合わない
好きならもっと 前に来てよ
十二の光 こぼれそうなほど
今日はぜんぶ 受け取って
手を振って
笑って
その目、こっちにちょうだい
かわいいだけじゃ足りないの
夢の先まで 連れていくから
ねえ 今日の一番を決めるなら
最後までちゃんと見ててね
どの花が好きかなんて
迷うくらいで ちょうどいいでしょ」
歌い終わる。
一曲目より、はっきり熱が前へ残った。
「うわ」
ミルファが言う。
「来るな」
ナディアが答える。
エレナは、今度はすぐに言った。
「これ、二曲目ですね」
「そうだ」
イグニスが短く返す。
セレスが静かに続ける。
「一曲目で掴んで、ここで増えた意味を押し出す」
「ええ」
リィナも頷いた。
「しかも、誰か一人を真ん中に固定する感じではない」
ベルナが笑う。
「いいねえ。これ、喧嘩できる」
「そこはしなくていい」
エレナが即座に言う。
「でもする顔してるじゃん」
サニアが言った。
「あなたが前に出すぎなければしません」
「出すよ?」
火花が小さく鳴る。
それを見て、ゼノは逆に少し安心した。
そうだ。
この曲は、火花が出るくらいでちょうどいい。
ノクシアの方も受けていた。
「へえ」
ジュリアが言う。
「一曲目より好きかも」
「私はこっち」
レティアも言う。
「可愛い顔して、順番待ちしないって言い切るの、いい」
「分かる」
カレンが頷く。
「ちゃんと強い」
エマは腕を組んだまま、ぼそっと言う。
「むかつくくらい前に来る」
「つまりいいってことね」
リリアンが笑う。
その時だった。
また来る。
ゼノには分かった。
見えないが、空気が変わる。
誰にも説明できない。
でも、分かる。
《リュケオン:よし、二曲目もいい!》
《エモーシア:かわいいのにちゃんと前へ出る!》
《ラグゼル:取る気がある》
《フィクサル:続けろ》
《ゼノ:来るなこれ》
《ノクティア:来るわね》
誰にも見えない光が、またイグニスへ落ちる。
今度は昨日より派手だった。
鍵盤の周りの空気が、目に見えないまま一段濃くなる。
イグニスが眉を寄せた。
「……っ」
「イグニス?」
エレナが言う。
「平気だ」
イグニスは即答した。
「来た」
ミラベルが息を呑む。
ノクシアも。
音楽団も。
何かが起きたことだけは、全員に伝わる。
「何がです」
ゼノが聞く。
イグニスは、指を鍵盤に置いたまま言った。
「三曲目」
場が、朝なのに熱を持つ。
「えっ」
ルミナが言う。
「また!?」
今度はリーシャが声を上げた。
「お前、ほんとどうなってんだ」
ダリオが笑う。
ボルグまで、そこで少しだけ口元を動かした。
「乗ってるな」
リュシエルはもう、諦めた顔で頷いている。
「今日中に記憶しておいた方が良さそうですね」
イグニスは、鍵盤から手を離さなかった。
「三曲目」
低く言う。
「『ひみつのハートは、きみにだけ』」
ゼノは、そこでようやく笑った。
来た。
二曲目よりもう一段、かわいい側へ戻す。
でも、ただ戻るだけじゃない。
たぶん、掴んだ客を離さないための曲だ。
「ほんとに三曲で押す気か」
ボルグが壁際で呟いた。
「既存曲も強くなる」
リュシエルが言う。
「この流れなら」
鍵盤が鳴る。
一曲目より軽い。
だが、軽く終わらない。
手を振りたくなる。
笑いたくなる。
客席の誰か一人へ、ちゃんと秘密を投げる曲だ。
イグニスが歌う。
「ひみつのハートは、きみにだけ
まだ誰にも言わないよ
目が合うたび ふわっとなる
これってきっと特別でしょ?
リボンをなおすふりをして
ほんとはちょっと見てほしい
近くにいると うれしくて
でもね 言えない くやしいな
きらきら ひらひら
今日のわたしを見つけてね
たくさんの声のまんなかで
きみにだけ ちゃんと笑うよ
だいすきって まだ早い?
じゃあ、好きかも、で待ってて
そのうちもっと近くなる
ひみつのハートは、きみにだけ
星より先に 見つけてね
風より先に 呼んでよね
かわいいだけじゃ終わらない
夢まで連れてく 手をつないで」
歌い終わる。
今度は、余韻がふわっと残った。
「……好き……」
ユノが呟いた。
「分かる」
リーシャも頷く。
ミュラはもう完全にやられていた。
「かわいいにゃ……」
ミルファが顔を押さえる。
「三曲目まで強いの反則じゃない!?」
「反則で取れるなら使うだろ」
ナディアが言った。
セレスは静かに息を吐いた。
「並びましたね」
「並んだ」
エレナが言う。
「最初に柔らかく掴んで、二曲目で前に出して、三曲目で近くに落とす」
その整理は、かなり正確だった。
ゼノは頭の中で、もう公演の流れを組み始めていた。
一曲目『きみのリボンがほどける前に』。
二曲目『恋の順番待ちなんて、してられない』。
三曲目『ひみつのハートは、きみにだけ』。
これで頭を取る。
かなり強い。
相当強い。
ノクシアの方は、完全に火がついていた。
「ミラベルばっかずるい」
カレンが言う。
「分かる」
ジュリアも笑う。
「ずるくない」
エマが言った。
「向こうは向こうで死ぬほどやるだけでしょ」
「それはそう」
フィアが静かに言う。
リリアンが柱にもたれたまま、ゆっくり笑った。
「いいじゃない。光が派手になったら、夜はもっと研げるわよ」
ゼノは、そこでようやく全員へ向き直る。
「告知はもう盛大に撒いてます」
言う。
「温泉郷、王都、近くの村と町。もう戻れません」
ルミナが青くなる。
「や、やっぱりそうですよね……」
「はい」
ゼノは頷いた。
「なので、大急ぎで仕上げます」
指を折る。
「新しい五人の象徴色。衣装。立ち位置。三曲の振り。共鳴鈴への録音。開演までに全部です」
場が、少しだけ静まる。
現実の量が多すぎると、人は一瞬静かになる。
その静けさを、サニアが破った。
「いいじゃん」
口元を上げる。
「それくらいないと、燃えない」
「燃えるのは勝手ですが、倒れないでください」
ゼノが返す。
「倒れない」
ベルナも笑った。
「衣装、楽しみ」
ノエルが小さく息を吐く。
「象徴色……」
「お前ら、色もまだなんだよな」
ナディアが言う。
「そうなんです」
ユノが言った。
「まだ“新しい五人”のままで……」
エレナがそこですぐに口を開く。
「今日中に一度、全体で候補を出しましょう」
セレスも頷く。
「色は歌の印象にも響きます」
リィナが静かに続けた。
「衣装の線も、色が決まらないと進みません」
ダリオが肩を回す。
「楽器側も急ぐな。三曲続けて録るなら、編成をちゃんと切らないと鈴で死ぬ」
「はい」
リュシエルがすでに書き始めていた。
「録音順も整理します」
ボルグが低く言う。
「飯を抜くなよ。全員死ぬぞ」
「一番大事ですね」
ゼノが言う。
その時だった。
今度は、神たちが本気で騒いだ。
《リュケオン:いいぞいいぞいいぞ!》
《エモーシア:可愛い、強い、忙しい、全部ある!》
《ラグゼル:流れが太くなった》
《フィクサル:仕上げろ。ここからが本番だ》
《ノクティア:ふふ、光の方までこんなに面白くなるなんてね》
《ゼノ:お前、珍しく素直だな》
《ノクティア:今だけよ》
《ゼノ:十分だ》
《リュケオン:もっと加護いるか!?》
《ゼノ:いる。遠慮なく投げろ》
《エモーシア:ほんと偉そう!》
《フィクサル:だが嫌いじゃない》
誰にも見えない加護が、音舞殿の空気へさらに落ちる。
目には見えない。
だが、全員が少しだけ背筋を伸ばした。
呼吸が合う。
音の輪郭が立つ。
今から本当に走り出す、そんな感じが空気に混ざる。
ゼノは思った。
かなり面白い。
町も動く。
歌も動く。
ミラベルは三曲で頭を取りにいく。
ノクシアも、絶対このまま黙っていない。
忙しい。
だが、それでいい。
むしろ、このくらい全部が同時に前へ出る方が、自分たちらしい。
《視聴者数:2,254,601》
〈コメント:三曲連続は熱すぎる〉
〈コメント:ミラベル強すぎるだろ〉
〈コメント:ノクシアも燃えてるの最高〉
〈コメント:象徴色と衣装まで一気に来た!〉
〈コメント:これ読んでてめちゃくちゃ面白い〉
《フィクサル:進め》
《ラグゼル:今だ》
《エモーシア:駆けなさい》
《リュケオン:祭りを大きくしろ!》
《ノクティア:置いていかれないでよ、夜の方も》
《ゼノ:誰に言ってる》
《ノクティア:もちろん、あなたたち全員に》
音舞殿の高い天井へ、三曲分の余韻がまだ薄く残っていた。
十二人の光は、もう“増えた”だけでは終わらない。
取るために並ぶ。
奪うために笑う。
その準備が、今ここから始まる。
――――
次回
第88話 十二の色、夜の牙




