第86話 最初の一曲
前の日、ゼノは机でほとんど夜を明かした。
町の図面。
資材の順番。
人の流れ。
簡易宿舎の数。
飯場の規模。
倉庫の位置。
雨が来た時の遅れ。
王都側へ渡す数字と、温泉郷側で飲み込む数字。
大きい話ほど、小さい見落としで死ぬ。
だから詰めた。
詰めて、詰めて、気づいたら夜がなくなっていた。
当然、朝は遅れた。
ゼノが目を開けた時には、もう朝というより昼前の光に近い。
頭は重い。
肩も痛い。
だが、机の上の紙がちゃんと揃っているのを見ると、それだけで少しだけ安心する。
「……最悪だな」
自分で呟く。
顔を洗って、少し遅い朝食を取りに温泉湖の飯屋へ向かう頃には、温泉郷はもう完全に動いていた。
朝湯帰りの客。
商縁通りへ向かう店主。
湖の方へ流れる人。
歌舞殿の方からは、もう少しだけ音も聞こえる。
遅れた。
その事実に少しだけ舌打ちしたくなる。
だが、寝なかったのは自分だ。
文句を言う相手はいない。
飯屋へ入る。
温かい汁物。
卵料理。
少し硬めのパン。
こういうのが、今はやけに助かる。
ゼノは席につき、汁を一口飲んだ。
胃に落ちた熱で、ようやく頭が少し回り始める。
その時だった。
「起きたか」
低い声。
顔を上げる。
イグニスが立っていた。
相変わらず愛想はない。
だが、その顔を見た瞬間に、ゼノは箸を止めた。
分かる。
この男、何かを持ってきた時の顔をしている。
「……何ですか、その顔」
ゼノが聞く。
「曲」
イグニスは短く言った。
「できた」
ゼノの眠気が、一気に半分飛ぶ。
「もう?」
「もうだ」
「それで呼びに来てくれたんですか?」
「うるさい」
イグニスは平然と答えた。
「できたもんはできた」
ゼノは、そこで少しだけ息を吐いた。
ああ、来たかと思う。
十二人になったミラベル。
新入り五人が入って、まだ立ち位置すら完全には噛み合っていないこの段階で、もう一曲目が来た。
早い。
でも、イグニスならやる。
「どこです」
ゼノが聞く。
「音舞殿」
イグニスが答える。
「もうみんな来てる」
「みんな?」
「ミラベルもノクシアも、音楽団も」
ゼノは、そこで少しだけ笑った。
「じゃあ、俺が最後ですか」
「そうなるな」
「感じ悪いですね」
「お前が寝坊しただけだ」
正論だった。
ゼノは卵料理を一口で無理やり食い、汁を飲み干した。
パンも掴む。
「行きます」
「持ってけ」
イグニスが顎を少し動かして、ゼノのパンを指す。
「歩きながら食べます」
「行儀悪いな」
「言われたくないですよ」
イグニスは少しだけ口元を動かした。
笑ったのか、呆れただけなのかは、よく分からない。
――
音舞殿へ向かう道は、もう昼前の光だった。
少し急ぎ足になる。
パンをかじりながら歩くゼノの頭は、まだ半分しか起きていなかったが、胸の奥だけは妙に熱かった。
新曲。
しかも、一曲目。
十二人になったミラベルの最初の曲。
この男が“できた”とだけ言って朝飯の席まで来た曲。
嫌でも期待する。
音舞殿の扉を開ける。
中は、もう動いていた。
ミラベルがいる。
ノクシアもいる。
ダリオ、ボルグ、カイルス、リュシエル。
リリアン。
しかも、ただ集まっているだけじゃない。
ミラベルはすでに練習の途中だったらしい。
汗がある。
熱がある。
新入り五人も、まだぎこちないなりに立ち位置を探っていた空気が残っている。
ノクシアの方は、もっと露骨だ。
ジュリアが前に出すぎ、カレンが動きすぎ、レティアが遊び、エマが嫌そうな顔でついていき、フィアが静かに全体を見ていた――そんな残り香が、そのまま舞台の端にある。
「来た」
ミルファが真っ先に言った。
「遅いにゃ」
ミュラも続く。
「知ってます」
ゼノが返した。
「前日ほぼ死んでたので」
「顔がやばい」
カレンが笑う。
「お前はいつも元気だな」
ナディアが言う。
エレナは何も言わない。
だが、ゼノを見たあと、すぐにイグニスを見る。
もう“何か来る”と分かっている顔だった。
ルミナは明らかにそわそわしている。
ノエルは静かだが、手は少し強く握られている。
サニアは腕を組んだまま、面白がっている顔だ。
ベルナは楽しそう。
ユノは少しだけ緊張していた。
ノクシアも同じだ。
「ミラベルの曲?」
ジュリアが聞いた。
「たぶんね」
レティアが口元を上げる。
「この空気、そっちでしょ」
リリアンは柱にもたれたまま笑っていた。
「いい朝ね」
そう言う。
「みんな、何が起こるのか分かってる」
「わかるんですか?」
ゼノが言う。
「わかるわよ」
リリアンは言った。
「イグニスの顔が違う」
イグニスが舞台の中央へ行く。
鍵盤の前に座る。
さっきまでざらついていた空気が、そこで一度静かに張った。
ゼノは、そこでようやくパンを飲み込んだ。
遅れて来たくせに、もう頭の中は完全に目が覚めている。
「一曲目だ」
イグニスが言う。
短い。
「ミラベル十二人の最初」
場の空気が、さらに細く張る。
ミルファが息を止める。
リーシャは目を丸くする。
エレナの目の温度が変わる。
サニアが少しだけ口元を上げる。
ルミナは本気で死にそうな顔をした。
「タイトルは」
イグニスが言う。
「『私のリボンがほどける前に』」
ゼノの胸に、小さく鋭いものが落ちる。
いい。
かなりいい。
可愛いだけじゃない。
ちゃんと手を伸ばしにいく名前だ。
そして、鍵盤が鳴った。
一音目で、空気が変わる。
軽い。
でも、軽すぎない。
可愛い。
でも甘いだけじゃない。
跳ねる。
でも浮かない。
十二人が並んだ時に、花が増える感じが、最初の数音で分かる。
ゼノの頭の中で、勝手に立ち位置が動いた。
エレナが前を取る。
リーシャが柔らかく拾う。
ミルファが跳ねる。
セレスが芯を通す。
リィナが二番で空気を変える。
ミュラが甘くする。
ナディアがサビ前で押す。
そこへ新入り五人。
ルミナが少し遅れて笑う。
ノエルが輪になる。
サニアが前へ食いに来る。
ベルナが半分だけ夜を混ぜる。
ユノが拍をつなぐ。
イグニスが歌う。
「私のリボンがほどける前に
こっち向いてね 笑ってよ
風に揺れてるその気持ち
今日はちゃんと連れていく
好きって言うにはまだ早い?
でもね 目が合えばわかるよ
胸の奥でひらく音
秘密のままでいられない
ねえ きらきらしたい日も
ちょっと泣きたい日だって
わたしたちが並んだら
明日に変えてあげるから
リボン、ふわり
スカート、ひらり
きみの世界へ飛びこんで
かわいいだけじゃ終わらない
ちゃんと夢まで連れていく
手を振って
名前呼んで
その声ぜんぶ受け取るよ
今日のいちばん、あげるから
きみの笑顔を見せて」
歌い終わる。
音舞殿に、細くきれいな余韻だけが残った。
誰もすぐには喋れなかった。
最初に動いたのは、ミルファだった。
「……好き!」
本当にそれだけだった。
でも、その一言で空気がほどける。
「それはそう」
ナディアが言う。
「やば……」
リーシャが小さく呟く。
エレナはまだ喋らない。
だが、その顔は完全に“受けた側”ではなく“立つ側”の顔になっていた。
ゼノが聞いた。
「イグニス」
「何だ」
「一番は誰が取る想定ですか」
空気が、少しだけ張る。
いい質問だった。
イグニスはあっさり答えた。
「固定しない」
十二人の何人かが、はっきり息を呑んだ。
「最初はエレナで入ってもいい」
イグニスは続ける。
「でも、この曲は“真ん中だけで回す曲”じゃない。前に出る顔が増えた方が強い」
その言葉に、サニアの口元が少し動く。
ベルナは露骨に面白そうだ。
ユノはびっくりしている。
ノエルは少しだけ目を見開いた。
「ルミナ」
イグニスが言う。
「は、はいっ!」
「死ぬな」
「い、今の一言でむしろ死にそうなんですけど……」
場が少し笑う。
「お前は笑えたら生きる」
イグニスが言う。
「固まると沈む」
「……はい」
「ノエル」
「はい」
「消えるな」
「はい」
「サニア」
「何」
「前に出すぎるな。でも引くな」
サニアが笑う。
「難しいこと言うね」
「やれ」
「やる」
「ベルナ」
「はぁい」
「夜を混ぜすぎるな。半分で止めろ」
「半分、便利だねえ」
ベルナが肩を揺らす。
「便利だから使ってる」
「了解」
「ユノ」
「はい」
「人に合わせる前に、一本持て」
「……はい」
そのやり取りを聞きながら、ゼノは少しだけ息を吐いた。
いい。
かなりいい。
元の七人も、新しい五人も、ちゃんと一曲の中で居場所が見える。
ノクシアの方も黙っていない。
「可愛いじゃん」
ジュリアが言う。
「でも、ちゃんと武器」
「昼の顔してるくせにね」
レティアも笑う。
「いいな」
カレンが言う。
「こっちも負けたくなくなる」
フィアは静かに頷いた。
「強い」
エマだけが腕を組んだまま、少しだけ悔しそうな顔をしていた。
「何」
ジュリアが聞く。
「……別に」
エマが言う。
「ただ、むかつくくらい可愛い」
リリアンがそこで笑った。
「いいじゃない」
言う。
「光の方も、ちゃんと牙がある」
ダリオは腕を組んだまま、低く言う。
「入りとしてかなり強いな。肩を開かせる」
「しかも散らない」
リュシエルが続ける。
「十二人でも、輪郭が死んでいない」
ボルグは一言だけだった。
「悪くない」
その“悪くない”は、かなり重い。
そして、その時だった。
空気が、わずかに震えた。
何が起きたのか、誰にも見えない。
だが、ゼノには分かる。
来た。
《フィクサル:いい》
《ラグゼル:流れができた》
《エモーシア:かわいい……!》
《リュケオン:きたきたきた!》
《ノクティア:光のくせに、やるじゃない》
《ゼノ:イグニスは天才だろ》
誰にも見えない光が、イグニスへ落ちる。
音舞殿の空気が一段だけ濃くなる。
鍵盤の前の男が、ほんの少しだけ顔をしかめた。
「……来た」
イグニスが低く言う。
「何がです」
ゼノが聞く。
イグニスは鍵盤から手を離さないまま答えた。
「二曲目」
場がざわつく。
「えっ」
ミルファが言う。
「今?」
リーシャが続く。
「今だ」
イグニスは言った。
「まだ全部じゃない。でも、浮かんでる」
エレナの目がさらに鋭くなる。
サニアはもう笑っていた。
ベルナは面白そうだ。
ルミナは心が追いついていない顔だった。
「二曲目もミラベルですか」
ゼノが聞く。
「そうだ」
イグニスは答える。
「一曲目で可愛く掴む。その次で、増えた意味を前に出す」
ノクシアの五人まで黙る。
リリアンだけが、柱にもたれたまま、静かに笑っていた。
「いい朝ね」
言う。
「曲が次を呼んでる」
神たちは、さらにうるさかった。
《リュケオン:行け行け!》
《エモーシア:そのまま落として!》
《ラグゼル:取れる流れだ》
《フィクサル:逃がすな》
《ゼノ:お前ら、朝から元気すぎるだろ》
《リュケオン:朝だからだよ!》
イグニスは少しだけ黙り、それから短く言った。
「二曲目もやる。まだ仕上げる前だが、行く」
その言葉で、空気がまた一段熱くなる。
ゼノは、そこでようやく本当に目が覚めた気がした。
町も動く。
歌も動く。
しかも、ただ前へ進むだけじゃない。
ちゃんと“次”を呼んでいる。
ゼノは小さく息を吐いて、笑った。
「イグニス」
「何だ」
「かなり良いです」
イグニスは少しだけ口元を上げた。
「だろ」
その瞬間、ミルファがまた小さく悲鳴を上げる。
「今、笑った!?」
「うるさい」
「笑ったよね!?」
「黙れ」
場が少しだけ笑いに崩れる。
でも、その崩れ方まで良かった。
張っていた空気が、ちゃんと前向きにほどける。
ゼノはその場を一度だけ見回す。
ミラベル十二人。
ノクシア五人。
リリアン。
音楽団。
全員が、もう次の顔をしていた。
《視聴者数:2,204,337》
〈コメント:朝から神回すぎる〉
〈コメント:一曲目でこれかよ……〉
〈コメント:二曲目まで来るの熱すぎる〉
〈コメント:全員の反応が良すぎる〉
〈コメント:これもう始まってるだろ〉
《フィクサル:よし》
《ラグゼル:太い流れだ》
《エモーシア:朝から胸がいっぱいだわ》
《リュケオン:祭りの匂いがしてきた!》
《ノクティア:光も夜も、ちゃんと面白くなってきたじゃない》
《ゼノ:最初からそう言ってるだろ》
《ノクティア:ええ。だから見てるのよ》
ゼノは思う。
忙しい。
かなり忙しい。
でも、今はそれが少しも嫌じゃない。
むしろ――
かなり、面白い。
――――
次回
第87話 十二の光、仕上げに入る




