第85話 動き出す町の前
翌朝、ゼノは朝から落ち着かなかった。
落ち着かない理由は二つあった。
一つは、町だ。
ダンジョン町の構想は、もう紙の上では遊びではない。
レオニスが土地を押さえ、こっちも費用と資材と人手の概算を出した。
ここから先は、夢ではなく工程の話になる。
もう一つは、歌だ。
十二人のミラベル。
動き始めたノクシア。
異国の踊り子リリアン。
気になる。
特にノクシアは、放っておくとエマが噛みつき、ジュリアが笑い、レティアが遊び、カレンが走り、フィアだけが静かに全体を見ている、あの危うい五人だ。
今いちばん面白くて、今いちばん目を離したくない。
だが、今日はそっちじゃない。
「顔があっち向いてるな」
ロイドが言った。
温泉郷を出る前、荷馬車の横で帳面袋を肩に提げたまま、呆れたようにこっちを見る。
「向きますよ」
ゼノは答えた。
「今いちばん面白い時期なんで」
「町も面白い時期だろ」
「そっちは失敗すると死ぬので、面白いって言いにくいんですよ」
「それはそうだ」
今日の王都行きは、ゼノ一人ではなかった。
前回同様、マギウスも一緒だ。
だが歌の方は、あえて切った。
ミラベルとノクシアは、イグニスとリリアンに任せる。
任せる、と決めたから任せなければ。
それができないと、たぶんこの先で全部抱えすぎて潰れる。
「大丈夫ですかね」
ゼノが小さく言うと、ロイドが鼻を鳴らした。
「誰の話だ」
「ノクシアです」
「お前の顔見てると、お前がいない方がまともに進む気もする」
ロイドは少し笑いながらも平然と言う。
「イグニスとリリアンなら、少なくとも甘くはならん」
「ひどいですね」
「事実だ」
マギウスが後ろで笑った。
「まあ、今日は町だ。歌は置いとけ」
「分かってます」
本当は、半分くらいしか分かっていない。
でも、そう言うしかなかった。
《視聴者数:1,985,429》
〈コメント:気になるのはノクシアか?〉
〈コメント:多分違う〉
〈コメント:歌より女だろ〉
〈コメント:ゼノわかりやすい〉
《ラグゼル:わかりやすい男だ》
《フィクサル:素直になるのも大事だ》
《エモーシア:心が暖かくなってるのかしら》
《ゼノ:お前ら良い加減しろ》
《リュケオン:ついに恋バナくるか》
ゼノは相手にするのをやめた。
――
王都に着く頃には、ゼノの頭はもうかなり切り替わっていた。
レオニスの私的な執務室へ通されると、王子はもう机に向かっていた。
ラウスもいる。
侍従長までいた。
つまり、今日は本当に“話を決める日”なのだ。
「来たか」
レオニスが言う。
「はい」
ゼノが一礼する。
マギウスも最低限の礼をした。
王子は頷き、すぐに言った。
「まず結論から言う。建設の人の募集は始めている」
ゼノは小さく息を吐いた。
「やっぱり早いですね」
「お前が遅いだけだ」
レオニスは平然と言う。
「で、今日はその先だろう」
「はい」
ゼノは紙を広げた。
町の骨格図。
資材の概算。
人手。
工程。
仮設から本設へ移る順番。
王子は黙って見ている。
侍従長も。
ラウスだけが、いつも通りほとんど顔を動かさない。
「まず、最初に全部は建てません」
ゼノが言う。
「入口、広場、ギルド、本格宿場、工房区画、耕作地再生、会場。全部を同時にやると、資材も人も散ります」
「当然だな」
レオニスが言う。
「なので初動は絞ります」
紙の上の一角を指で叩く。
「人が来るには、まず寝る場所と食う場所が要ります」
王子の視線が少し細くなった。
その顔は、“続きを言え”の顔だ。
「ダンジョンが動き出す前でも、土木と警備と測量の人間は入ります」
ゼノは続ける。
「その人達が泊まる。食う。道具を置く。なので簡易の宿と飯屋が先です」
侍従長がそこで初めて口を開いた。
「常設ではなく、仮設を先に?」
「はい」
ゼノは頷く。
「木組み中心でいい。簡易でもいい。だが、雨風を凌げて、飯が出せて、荷を置ける。そこを先に立てます」
マギウスも続いた。
「冒険者の町だろうが何だろうが、最初は現場です」
低く言う。
「現場に飯と寝床がないと、全部が鈍る」
レオニスはそれを聞いて、静かに頷いた。
「必要資材は」
短く聞く。
ゼノは紙をめくる。
「簡易宿二棟。飯屋兼炊き出し所一棟。倉庫小屋二棟。井戸周りの仮設囲い。人足の仮設詰所。これを最初に」
炭筆で書いた数字を叩く。
「木材、石材、縄、布、釘、炊事釜、食器、簡易寝台。あと、馬車回しのための整地材」
「人手は」
ラウスが聞いた。
「最初の搬入だけで二十。設営で十五。整地と基礎見でさらに二十」
ゼノが答える。
「ただし、全員を常駐させる必要はない。交代で回せます」
侍従長が紙の数字を見ながら言う。
「宿と飯屋を先に立てるなら、先行搬入も整理しやすい」
「そうです」
ゼノは頷く。
「いきなりダンジョン入口を掘るより、まず人が留まれる形を作る。その方が後の流れが死にません」
「いい」
レオニスが言った。
「そこは同意する」
短いが、十分に重い一言だった。
《視聴者数:2,082,774》
〈コメント:現実的で好き〉
〈コメント:まず宿と飯屋、わかる〉
〈コメント:ちゃんと工程の話になってるの強い〉
〈コメント:王子も本気だなこれ〉
《ラグゼル:正解だ》
《フィクサル:人が留まれなければ始まらん》
《エモーシア:食べる場所を先に作るの、好きよ》
《ゼノ:今日は静かだなお前ら》
《リュケオン:真面目回だからな》
ゼノは紙をさらにめくった。
「工程はこうです。今日ここで決まれば、王都側は必要資材の運び込みと、人の手配を始める。うちも温泉郷側で受け入れの準備をする。二週間後から先行設営に入る」
「二週間」
レオニスが繰り返す。
「短いですか」
ゼノが聞く。
「いや」
王子は言った。
「短くていい。熱があるうちに動いた方がいい」
ゼノは、そこで少しだけ肩の力が抜けた。
やはりこの人は、決めたあとの動きが早い。
だからこっちも、曖昧な話では来られない。
「ただし」
レオニスが言う。
「二週間後に始めるなら、こちらも優先順位を明確にする。資材搬入は宿、飯屋、倉庫、詰所を先。ダンジョン入口の本格掘削は、その後だ」
「それでいいです」
ゼノは即答した。
「必要な人間も、まずは設営職と土木寄りを厚くする」
侍従長が言う。
「兵も最小限つけるが、警備というより管理補助だな」
マギウスが小さく頷いた。
「初動で武装だけ多いと、町じゃなく軍営に見える」
マギウスが言う。
「それは避けた方がいい」
「同感だ」
レオニスが言った。
「ここは戦場を作るわけじゃない」
その一言で、部屋の空気が少し締まる。
そうだ。
ダンジョンは危険だ。
人も来る。
金も動く。
だが、目指すのはただの討伐拠点ではない。
町だ。
「運び込みは王都側で始める」
レオニスが言う。
「木材、鉄材、簡易炊事具、寝台、布、縄。人も選ぶ。二週間後の着手を前提に、先に道も整えさせる」
「ありがとうございます」
ゼノは言った。
「礼は早い」
王子が返す。
「形になってから言え」
「そうでした」
「だが、悪くない運びだ」
レオニスは言う。
「宿と飯屋を先に出したのはいい。人はまずそこからだ」
ラウスがそこで少しだけ目を上げた。
「殿下」
「何だ」
「温泉郷側にも、早めに知らせた方が良いかと」
「当然だ」
レオニスは言う。
「ゼノ、お前が戻って話せ。二週間は短い」
「はい」
そのあとも、話は細かかった。
どこまでを王都側が持つか。
温泉郷側の受け皿をどうするか。
簡易宿の規模。
飯屋に必要な炊き出し量。
先行して入る人間の寝台数。
馬の扱い。
荷下ろしの場所。
夢を見る時間は終わったのだと、改めて思う。
今やっているのは、全部、現実の話だった。
そして、それが思った以上に嫌じゃないのも事実だった。
話が終わる頃には、外の光が少し傾いていた。
帰り際、レオニスがふと聞いた。
「歌の方はどうだ」
ゼノは、そこで少しだけ目を瞬いた。
町の話だけで終わると思っていた。
「気になりますか」
「気になる」
王子はあっさり言う。
「王都から戻ってから、温泉郷でまた何か始めたんだろう」
「相変わらず耳が早いですね」
「紙を撒いたのもお前だ」
「そうですね」
少しだけ迷ってから、ゼノは言った。
「新しい踊り子を拾いました」
ラウスの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
「またか」
レオニスが言う。
「またです」
「今度は何だ」
「異国の踊りです」
ゼノは答える。
「新しい歌姫団ノクシアに教えています。」
王子はそこで、少しだけ目を細めた。
「忙しいな、お前は」
「はい」
「潰れるなよ」
その一言は短かった。
だが、不思議とちゃんと届いた。
ゼノは少しだけ笑って答えた。
「その前に、王都が先に潰れないでくださいよ」
「誰に言ってる」
「ですよね」
――
温泉郷へ戻ったのは、二日後の夕方だった。
湯気がある。
木の匂いがある。
やっぱり、この帰ってきた時の空気は少しだけ肺にやさしい。
そのままゼノは、歌舞殿の方へ向かった。
中では、ミラベルとノクシアがちょうど一区切りついたところらしかった。
汗。
熱。
床に座り込んでいる者。
腕を回している者。
壁に寄りかかる者。
リリアンもいる。
しかも、当然みたいな顔で座って果実水を飲んでいた。
「戻ったか」
イグニスが言う。
「はい」
ゼノは頷いた。
「決まりました」
その一言で、空気が少し変わる。
ミラベルの十二人も、ノクシアの五人も、視線がこっちへ集まった。
「二週間後から始めます」
ゼノははっきり言った。
「王都側が先に資材の運び込みと人の手配を始めます。最初は、簡易の宿と飯屋、倉庫、詰所からです」
エレナが息を呑む。
ルミナたちは、まだぴんと来ていない顔もある。
だが、ロイドやマギウスはすぐに意味が分かった顔になった。
「早いな」
ダリオが言う。
「早いです」
ゼノは答えた。
「だから、温泉郷側も受け入れ準備に入ります。町の話が、ようやく本当に動きます」
ノクシアの方では、エマが少しだけ目を細めた。
「じゃあ、ほんとに作るんだ」
「だから前から言ってます」
ゼノが言う。
「言ってたけど」
エマは言った。
「言うのとやるのって違うじゃん」
「有言実行です」
その返しに、ジュリアが笑う。
レティアも口元を上げる。
カレンは何だか面白そうで、フィアは静かに頷いた。
ミラベルの方では、ミルファがまず声を上げた。
「うわ、ほんとに始まるんだ……」
「始まるよ」
ナディアが言った。
「ここまで来て止まる方が変だろ」
ゼノは、その場の全員を見回した。
「忙しくなります」
言う。
「歌も止めない。町も止めない。だから各自、ちゃんと休んでちゃんと動くこと」
「いちばん怪しいの、お前だろ」
ダリオが言う。
「それはそうですね」
ゼノは素直に答えた。
イグニスが少しだけ呆れた顔をしたが、何も言わなかった。
その沈黙が逆に怖い。
夜、全部が一区切りついてから、ゼノは温泉郷の飯屋へ向かった。
王都へ行って、戻ってきて、歌舞殿でみんなに話して、ようやく頭の中の線が少し落ち着いた頃だった。
飯屋の戸を開けると、焼いた魚の匂いと、出汁の湯気が一気に顔へ当たった。
客はそこそこ入っている。
仕事帰りの職人。
湯上がりの旅人。
顔見知りの村人。
その奥で、ひときわ異質な色が目に入った。
「……いた」
リリアンだった。
奥の席で、何でもない顔をして魚を食べている。
異国の布。
金具。
褐色寄りの肌。
この温泉郷の飯屋にいるのに、その一角だけ別の国の灯りみたいだった。
しかも、やたら馴染んでいる。
魚の身をきれいにほぐし、骨を脇へ避け、湯気の立つ汁を一口飲む。
箸はまだ危なっかしいが、食べ方そのものは妙に上品だった。
リリアンが顔を上げる。
「あら」
少し笑う。
「来ると思った」
「偶然です」
ゼノは言った。
「嘘ね」
リリアンは即答した。
「でも、そのくらいの方がかわいいから許す」
ゼノはため息をつきながら、向かいへ座った。
「前、いいですか」
「もう座ってるじゃない」
店の女将が追加の茶を持ってきた。
どうやらリリアンは、もうすっかり“変わった旅の美人客”として受け入れられているらしい。
「温泉郷の飯、どうですか」
ゼノが聞く。
リリアンは茶碗を少し持ち上げて、魚の残りを見た。
「好き」
あっさり言う。
「王都の料理より、こっちの方が暖かい」
その返しに、ゼノは少しだけ笑った。
「分かるんですね」
「旅してると、そのくらいは分かるわ」
リリアンは言う。
「綺麗なだけの皿は飽きるの。こっちは最初から、ちゃんとお腹に入れるための味がしてる」
魚をもう一口。
食べ方が本当にきれいだ。
ゼノはそこを見ていた。
「何」
リリアンが言う。
「いや」
ゼノは視線を戻す。
「旅慣れてるなと思って」
「慣れるわよ」
リリアンは笑う。
「海を越えて、港を変えて、言葉の違う街で食べて寝て踊ってれば」
その言い方が、妙に軽い。
だが、その軽さの下に薄くないものがあるのも分かる。
「南西の海の向こうって言ってましたよね」
ゼノが聞く。
「どんな国なんですか」
リリアンはそこで、少しだけ目を細めた。
「ひとつじゃないわ」
言う。
「海を渡ると、国って線じゃなくなるの。港ごとに匂いが違う」
ゼノは、その言い方が好きだった。
「例えば?」
リリアンは茶を飲み、少しだけ遠くを見る顔になった。
「最初にいたのは、赤い帆の港町」
言う。
「朝は魚と塩の匂い。夜は香油と酒。船乗りと商人と踊り子が、だいたい同じ顔して笑ってる街」
「いい街ですか」
「いい男は少なかったわね」
「そこですか」
「大事よ」
リリアンは真顔で言う。
「でも、客は多かった」
少し笑ってから、続ける。
「その次は砂の都。昼が長くて、夜がもっと長い街。あそこはね、布が薄いほど金になるの」
「分かりやすいですね」
「分かりやすいわよ」
リリアンは肩をすくめる。
「でも、あの街で学んだの。見せるのは肌じゃなくて、“見せそうで見せない間”だって」
ゼノは、その一言に少しだけ背筋が動いた。
なるほど、と思う。
あの日の広場で男たちが吸われていた理由の一つが、そこにあった。
「向こうの宴で一回、王の甥だか何だかに呼ばれたことがあって」
リリアンが言う。
「金は出す、宝石も出す、その代わり今夜だけお前を囲うって顔をされたの」
「嫌ですね」
「嫌だったわよ」
リリアンは笑った。
「だから踊ってる最中に、そいつの膝の上に置いてあった杯だけ蹴り落として帰った」
ゼノが目を瞬く。
「……は?」
「いい音したわよ」
リリアンは楽しそうに言う。
「広間が一回しんとしたあと、女たちが笑ったの」
「それで無事だったんですか」
「無事じゃなかった」
リリアンはあっさり言った。
「三日追われた」
「笑えないですよ」
「でも、その三日で別の一座に拾われたの」
リリアンが言う。
「その座長が、あんた面白いわねって」
そこでゼノは少し黙った。
面白いから拾われる。
その感覚が、どこか自分に近い気がした。
「その一座では?」
ゼノが聞く。
「五人組だった」
リリアンは言った。
「歌うのは二人。残りは踊り。真ん中は毎回変わる。客席を正面から取る日もあれば、横から崩す日もある」
ゼノの指先が少しだけ動く。
ノクシアだ。
「そこで覚えたの」
リリアンが続ける。
「一人で完璧でも、五人だと負けることがあるって。逆に、一人じゃ届かないものを、五人だと奪える時もある」
その言葉が、妙に深く落ちた。
「解散したんですか」
ゼノが聞く。
「したわ」
リリアンは魚の最後の身を外しながら言う。
「一人が男に行って、一人が金に行って、一人は故郷に帰った。そういうものよ」
「寂しくないですか」
リリアンはそこで少しだけ笑った。
だが、その笑いはさっきまでより少し静かだった。
「寂しいわよ」
言う。
「でも、消えたものを抱えたまま踊るのも、踊り子の仕事」
その言い方が、やけに綺麗だった。
ゼノは、そこで初めて少しだけ危ないと思った。
この女は、ただ踊りが上手いだけじゃない。
話し方がうまい。
しかも、自分の傷まで、安く見せない。
だから目が離しにくい。
「そのあとも?」
ゼノが聞く。
「雪の国にも行った」
リリアンは言う。
「寒すぎて、腰より肩で踊るの。布が重くなるから、線の見せ方も変わる」
「面白い」
「面白かった」
リリアンは頷く。
「逆に、島の国では足首が主役だった。砂浜で踊るから、足の抜き方で色気が決まるのよ」
「全部、違うんですね」
「全部違う」
リリアンは答えた。
「でも、変わらないものもある」
「何です」
リリアンは、真っすぐにゼノを見た。
「自分を見てるって、客に思わせる瞬間」
静かに言う。
「それは、どこの国でも強い」
ゼノは、その目を少しだけ正面から受けた。
分かる。
かなり分かる。
商売も。
舞台も。
歌も。
結局そこなのだ。
「ノクシア」
リリアンが言う。
「いいわね」
「どの辺が」
「まだ自分の身体も声も信じ切ってないのに、もう人を刺せる気配がある」
リリアンは笑った。
「そういうの、育つと危ない」
「危ないって、いい意味でですか」
「舞台にとってはね」
リリアンは言った。
「客にとっては知らない」
その返しに、ゼノは少しだけ笑う。
「その感じ、好きです」
「知ってる」
リリアンは言う。
「だからあんた、拾うんでしょ。歌も、人も、町まで」
ゼノは一瞬、言い返し損ねた。
その沈黙を、リリアンは見逃さない。
「図星?」
「半分くらいは」
「半分?」
リリアンは口元を上げる。
「残り半分は、奪ってる顔してるけど」
その一言に、ゼノは少しだけ息を止めた。
嫌じゃなかった。
むしろ、妙に効いた。
この女は、人の見せてない部分まで、軽い顔で拾っていく。
危ない。
でも、そういう危うさがあるから、多分、舞台であれだけ人を惹きつけられるのだ。
「……リリアン」
ゼノが言う。
「何」
「しばらくいてください」
リリアンは、茶碗を持ったまま笑った。
「口説いてる?」
「契約の話です」
「残念」
そう言って、少しだけ目を細める。
「でも、しばらくはいるわよ。この温泉郷、退屈しなさそうだもの」
その答えに、ゼノは胸の奥で小さく熱が動くのを感じた。
町は動く。
ダンジョンも掘る。
ノクシアも育つ。
ミラベルも一カ月後に十二人で立つ。
そして、その全部の横に、この異国の女がいる。
たぶん、少し面倒で、かなり面白い。
飯屋の灯りはやわらかかった。
リリアンは魚を最後まできれいに食べ、骨を揃え、茶を飲んでから、何でもない顔で立ち上がる。
「じゃあ、おやすみ」
言う。
「はい」
「坊や」
振り返りもせずに言う。
「町を作る男の顔してる時もいいけど、たまにはちゃんと寝なさい」
「坊やじゃないです」
「そういう返し、嫌いじゃないわ」
そう言って、リリアンは湯気の向こうへ消えていった。
ゼノは、その背を少しだけ長く目で追った。
追ってから、自分で少しだけ困る。
ああ、これはまずいな、と。
でも、嫌ではなかった。
町は動く。
ノクシアも動く。
ミラベルも一カ月後に立つ。
だったら、今はこの慌ただしさごと楽しむしかない。
〈コメント:絶対アレだろ〉
〈コメント:わかりすぎる〉
〈コメント:惚れてるだろ〉
〈コメント:相手にされるか?〉
《リュケオン:まだ告るのははやいな》
《ノクティア:ドキドキする夜だわ》
《エモーシア:ゼノ弄ばれているわね》
《フィクサル:浮かれるな》
《ゼノ:頼むから口出すな》
神達のからかいすら、楽しく思えた。
――――
次回
第86話 最初の一曲




