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追放された魔術師は、神に観測されながら暮らしている〜生活魔法しか使えないのに、加護が止まりません〜  作者: 灰音 澪


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75/82

第75話 拍手のあとで、別の声

 慰労の会の夜は、拍手が終わってからが長い。


公演が終わり、勇者たちを労う席もひとまず収まり、ようやく表向きの役目を果たし終えた頃には、会場の熱はもう酒と噂へ形を変えていた。


ミラベルの名。

新曲。

王都での初舞台。

勇者たちの反応。

第一王子がどう見ていたか。


どこへ行っても、その手の話が耳に入ってくる。


だからゼノは、少しだけ肩の力を抜きながらも、まだ完全には気を解かなかった。


王都はこういう時の方が面倒だ。

舞台の上で歌っている間より、終わった後の方が色々なものが寄ってくる。


 レオニスの席へ行き、今夜の礼と、明日改めて伺うことだけを告げる。


王子は杯を手にしたまま、短く頷いた。


「今日は休め」


「はい」


「……いい歌だった」


それだけ言って、レオニスはそれ以上引き止めなかった。


王族らしくないくらい、言葉が短い。

けれど、その短さの方がむしろ本気で届いた感じがした。


横にいたラウスが、ほんの少しだけ目を伏せる。

多分、あれで十分だという顔だった。


 会場を出ると、王都の夜風は少し冷たかった。


宿へ戻る道中、派手ではないが小洒落た料理店へ入ることにした。


中へ入ると、灯りはやわらかく、席の間もほどよく空いていた。

酒の匂いはある。

だが騒がしくはない。


「いいじゃん」

ミルファが言う。


 席に着くと、ようやくみんなの身体から少しずつ緊張が抜けていくのが分かった。


エレナは水を一口飲んで、そこでやっと本当に息をついた。

ミルファは喋りたくて仕方ない顔をしていた。


「ねえねえ、最初の拍手、思ったより早かったよね!」

案の定、ミルファが切り出す。


「早かったですね」

エレナが言う。

「一曲目で、もう少し様子見されると思ってました」


「私もです」

リーシャが小さく続ける。

「もっと静かに見られるのかと……」


「見てたわよ」

セレスが言った。

「でも、見ながらもう気になってる。あれはそういう顔だったわ」


「王都の人、最初の三十秒は値踏みしてたにゃ」

 ミュラが言う。

「でも、サビ前で変わったにゃ」


リィナが頷く。


「ええ。“これは聞いておいた方がいい”という顔に変わりました」


「よく見てるな」

ダリオが感心したように言う。


「舞台の上にいる時は、ちゃんと皆さんを見ないと」

リィナの返しは静かだったが、妙に説得力があった。


《視聴者数:1,274,883》


〈コメント:終演後の空気いい〉

〈コメント:王都の客、ちゃんと食いついたな〉

〈コメント:拍手の後の方が面倒、わかる〉


《エモーシア:ほどけた後の顔、好きよ》

《フィクサル:勝った後ほど気を抜くな》

《ルヴェリア:でも、今日は少しくらい浮かれていいわ》


 そこへ料理が来る。


肉料理。

焼いた野菜。

温かいスープ。

薄く切ったパン。


どれも王都らしく小洒落ているが、味はちゃんとしていた。


「……うまい」

ボルグが言う。


「それは良かったです」

ゼノが返す。


「でも量が上品だな」

カイルスが皿を見て言う。


「王都だから」

リュシエルが言う。


「また王都を悪く言った?」

ミルファが笑う。


「言ってません」


「言ってるよ」


 そんな会話の合間に、イグニスがようやく一口食べて、ぼそりと呟いた。


「鍵盤は昨日よりましだった」


「慣れたんですか?」

ゼノが聞く。


「慣れた」

イグニスは短く答える。

「あと、今日の客席の方が音を前に押してた」


ダリオが笑う。


「それは分かる。昨日の箱より今日の客の方が楽器だったな」


「どういう意味?」

ミルファが聞く。


「聞く気がある客は、こっちの音を引っ張るって意味だ」

ダリオが言う。

「今日の勇者どもは、最初は硬かったが、途中からちゃんと受けた」


ゼノはその言葉に頷いた。

本当にそうだった。


勇者たちは、最初から盛り上がる客ではなかった。

でも、一度入ったら深かった。


「最後の曲、かなり良かった」


イグニスが急に言った。


その一言で、ミラベルの七人が揃って顔を上げる。


「えっ」

ミルファが言う。

「今、褒めた?」


「うるさい」


「褒めたよね!?」


「リーシャがよかった」

イグニスはミルファを無視した。

「あと、エレナは前に出す量がちょうどよかった。セレスは引きすぎなかった。リィナは二番から深くしたのが正解。ナディアはサビ前の押し、今日は過不足ない。ミュラは最後の抜きが良かった」


そこまで一気に言って、水を飲む。


全員が、しばらく固まっていた。


「……珍しい」

ナディアが言う。


「本番終わりだからだ」


「そういうもんか?」


「今日くらいは言っとく」


ミルファがにやにやしている。


「じゃあ私は!?」


「うるさい」


「ひどっ!」


だが、そのやり取りで場が一段明るくなったのは確かだった。


 イグニスは基本的に褒めない。

だからこそ、今みたいにまとめて言われると効く。


エレナなんかは、さりげない顔をしていたが耳が少し赤い。

リーシャは完全に照れて俯いている。

セレスですら、ほんの少しだけ目元がやわらいでいた。


「……でも」

その時、リィナが静かに言った。

「怖かったけど、気持ち良かった」


場が少し落ち着く。


「ええ」

ゼノが答える。


「まあ、今夜は食え」

ボルグが言う。

「また何かあるかもしれないぞ。ゼノはお構いなしで何かを持ってくる」


「勝手に寄ってくるんですよ」

ゼノが返す。


「今度は何が寄ってくるんだろうな」

ボルグは少しニヤついて言った。


「良い話ならいいけどな」

カイルスが笑う。


 みんな少しずつ笑った。

ちゃんと食べて、ちゃんと疲れて、ちゃんと今日を終えようとしていた。


そういう空気は悪くなかった。


 食事を終え、店を出る。


王都の夜気はさっきより少しだけ冷えていた。

酒場へ流れる客も多い。

通りの灯りも、まだ落ちる気配はない。


ミラベルたちを送るために、一度宿に戻った。


今日はもう十分だ。

王都の夜まで見せる必要はない。


 ゼノはみんなに声をかけた。


「少し出ませんか?」


ゼノがそう言うと、全員がそりゃそうだろう、という顔をした。


「酒場?」

ダリオが聞く。


「そんなところです」

ゼノが答える。


「王都の酒が美味いとは思えねえな」

ボルグが低く言う。


「飯もきれいすぎて腹に溜まった気がしねえ」

カイルスが続く。


「お二人とも、完全に田舎者の感想ですね」

リュシエルが淡々と言った。


「お前、今さら王都側に立つのか」


「立ってません。味覚の話です」


その乾いたやり取りの横で、イグニスは何も言わない。

だが機嫌が悪いわけでもなかった。

演奏を終えたあとの、少しだけ空になった顔をしている。


 王都の通りは、夜になってもまだ人が多かった。


灯りが多い。

笑い声も多い。

だが温泉郷の夜とは違う。


こっちの夜は、どこかで誰かが別の誰かを値踏みしているようだ。

酒場の前。

劇場帰りの馬車。

飾り窓の光。

楽しそうな顔をしていても、その奥に計算がある。


ゼノはそういう夜が嫌いだった。

でも、目を離したくはなかった。


《視聴者数:1,281,114》


〈コメント:王都の夜いやだな〉

〈コメント:ここで何か来るな……〉


《フィクサル:来るぞ》

《エルディア:不規則接近、前方》

《リュケオン:こういう夜は転がるんだよな》


 細い裏道に差しかかった、その時。


前方で、誰かが走る気配がした。


軽い。

小さい。

だが、必死な足音だった。


「待て!」


男の怒鳴り声が後ろから飛ぶ。

次の瞬間、影が路地から飛び出してくる。


若い。

いや、若いどころか、まだ子ども寄りだ。


痩せた身体。

ぼろい外套。

腕に布包みを抱えている。


女の子だった。


ゼノが何か言う前に、ボルグが一歩前へ出る。


「おい」


それだけで、道が塞がる。


女の子はすぐに向きを変えた。

だが今度はカイルスが横へ回った。


「悪いな」


軽い声のくせに、動きは容赦がない。


女の子は壁を蹴って上へ逃げようとしたが、ダリオが外套の裾を引っかけた。


「速ぇな」

感心したように言う。


「離せ!」


その声を聞いた瞬間、イグニスがほんの少しだけ目を上げた。


ゼノも同じものを感じていた。


若いのに、妙に乾いている。

少し掠れていて、でも芯がある声だった。


女の子は最後に振りほどこうとしたが、ボルグに手首を取られて止まる。


後ろから、息を切らせた店主らしい男が追いついてきた。


「そいつだ! うちの肉包み持って逃げやがった!」


布包みの中身を見るまでもなかった。

匂いがする。

食べ物だ。


「返してやる」

ボルグが言う。


女の子が睨み上げる。

「離せ!」


「返したらな」

カイルスが包みをひょいと取った。

「……肉包み、二つか」


「腹減ってるんだろうな」

ダリオがぼそりと呟く。


店主はまだ怒っていた。

「衛兵に突き出せ! こういうのは一度きっちり――」


「待ってください」

ゼノが口を挟んだ。


店主が苛立った顔で見る。

「何だあんた」


「代金は払います」

ゼノは言った。

「その上で、品は返す。これで終わりにしてください」


「はあ?」


「その代わり、騒ぎはここで終わる」


王都の夜は、こういう小さな騒ぎもすぐ尾ひれがつく。

今のゼノたちは、王都で目立ち始めたばかりだ。

面倒な場所で衛兵沙汰は避けたい。


店主は渋い顔をしたが、ゼノが銀貨数枚を見せると、舌打ちしながらも引いた。


「……勝手にしろ。だが次は知らねえぞ」


「次は捕まる前にもっと上手くやれ」

ダリオが言うと、女の子が本気で睨んだ。


「何だよ、その目」


「うるさい」


ボルグとカイルスが肉包みを店主へ返しに行く。

その間、ゼノたちは女の子を路地の脇へ寄せた。


 暴れるかと思ったが、もう無理だと分かったのか、肩で息をしながら黙っていた。

汚れている。

だが、ただのみすぼらしさではない。

逃げ慣れている手足をしている。


「名前は」

ゼノが聞く。


「言うわけないでしょ」


強い。

だがその強さは、虚勢が半分以上だ。


イグニスがぼそりと言った。


「腹減ってんのか」


「関係ない」


「ある」

イグニスは半眼のまま言う。

「肉包みを盗むのは、腹が減ってるからだろ」


女の子はそこで唇を噛んだ。

図星なのだろう。


リュシエルが静かに観察していた。


「年は?」


「十八」


「嘘ですね」


「……十六」


カイルスが戻ってきた。

「返してきた」

後ろからボルグも来る。

「店の親父、まだ怒ってたが、金見たら静かになった」


「でしょうね」

ゼノは頷いた。


ボルグが女の子を見下ろす。

「で、どうする」


その問いに、ゼノは少しだけ考えた。


放り出すのは簡単だ。

だが、それで終わる顔ではなかった。


「何で盗んだ」

ゼノが聞く。


「腹減ったから」

女の子は即答した。


「一人で?」


「関係ないって言ってるでしょ」


そこでイグニスが、初めて少しだけ興味を見せた顔になった。


「声、いいな」


全員がそちらを見た。

女の子本人まで、怪訝そうに目を細める。


「……は?」


「掠れてる」

イグニスが言う。

「でも芯がある。押しつけてないのに残る」


「何言ってんの」


「歌ったことあるか」


女の子が一気に警戒した。

「ない」


「嘘だな」

イグニスが即答した。


その返しの速さに、ゼノは少しだけ口元を上げる。


「何で分かるの」

女の子が言う。


「今の“ない”が、喉を隠した言い方だった」

イグニスは淡々としている。

「使ったことある奴の否定だ」


女の子は黙る。


そこでゼノも、ようやく少しずつ形が見え始めた。


「誰かに育てられた?」

ゼノが聞く。


「……育てられたっていうか」


「親は」


女の子の目が、そこでほんの少しだけ落ちた。


「死んだ」


「いつ」


「三年前」


ボルグが腕を組む。

カイルスも口を閉じた。


「何してた人たち」

ゼノが続ける。


女の子は一拍だけ黙ってから、吐き捨てるように言った。


「歌手」


路地の空気が少しだけ変わる。


「へえ」

ダリオが言う。


「今は?」

ゼノが聞く。


「仲間のとこ」


「仲間?」


「そう」


短い。


「悪いやつらじゃないのか?」

ボルグが聞く。


「今さらでしょ」


「みんなそんな事をしているのか?」

ボルグのその一言に、女の子がぎりっと歯を噛む。

「今日は腹減ってたの!」


ようやく、本音に近い声が出た。


ゼノはそこで少しだけ目を細める。

若い。

まだ完全に悪党の顔ではない。


イグニスが壁にもたれたまま言う。


「歌え」


「は?」


「何でもいい」


「何で」


「確認だ」


「意味分かんない」


「こっちは分かってる」


女の子は、本気で嫌そうな顔をした。

だがイグニスは引かない。


ゼノも、その横顔を見ながら、これはもう止めても無駄だと思った。


「今ここで?」

女の子が言う。


「嫌なら帰れ」

イグニスは言った。

「ただし次は解放だけでは済まんかもな」


「脅し?」


「提案だ」


最低な言い方だ、とゼノは思う。

だが、こういう相手にはそのくらい雑な方が届くこともある。


女の子はしばらく睨んでいたが、やがて、小さく息を吐いた。


「……一曲だけ」


そして、ほんの短い歌を口にした。


王都の流行歌ではない。

もっと古い。

酒場か、旅の焚き火か、そういうところで流れていそうな歌だった。


掠れている。

若いのに、荒い道を歩きすぎた喉だ。


でも良かった。


びっくりするほど、良かった。


芯がある。

乾いている。

明るい曲より、もっと錆ついた歌が似合う。

女の子なのに、可愛さより先に“生きてる音”が来る。


歌い終わる。


ダリオが目を丸くしていた。

「……おい」


ボルグも黙る。

リュシエルは、もう観察の目に変わっている。


《視聴者数:1,289,772》


〈コメント:うわ、当たりだ〉

〈コメント:これは拾うしかない〉

〈コメント:ミラベルとは別の匂いがする〉

〈コメント:夜の声だな……〉


《エモーシア:痛んでるのに、まだ綺麗ね》

《ルヴェリア:未完成。だから伸びる》

《フィクサル:拾え》

《ノクティア:その喉は捨てるな》


 イグニスだけが、当然みたいな顔で言った。


「やっぱりか」


女の子は警戒したままだ。

「何」


「歌ってみないか」

イグニスが言う。


今度こそ、本気で全員がそちらを見た。


「は?」

女の子が声を裏返らせる。


「歌だ」

イグニスは半眼のまま繰り返す。

「盗むより向いてる」


「何言ってんの、あんた」


「事実だ」


ゼノは、そこでようやく口を開いた。


「今いる仲間、そこ抜けられますか」


女の子の顔が固まる。

それだけで答えは半分出ていた。


「……簡単じゃない」


「やっぱり」


「みんな……」

女の子が低く言う。

「親がいないやつばっかり……」


「親がいないから盗みをしていい理由にはならない」

カイルスが言った。


「そうだけど」


「なら、そのままでいいのか」

ボルグが聞く。


女の子は答えなかった。


ゼノはイグニスを見る。

イグニスも同じ顔をしていた。


話を聞きに行く気だ。


「居場所、案内できますか」

ゼノが聞く。


「……今から?」


「今からです」


女の子は少しだけ目を見開く。

「馬鹿なの?」


「よく言われます」


「本当にそうだと思う」


だが、完全に拒絶する顔ではなかった。


「面倒事の匂いしかしねえ」

ダリオが言う。


「そうですね」

ゼノが答える。


「でも、お前ら止めても行くだろ」


「はい」


「だろうな」


ボルグとカイルスは、女の子が本当に逃げないように一度だけ目で圧をかけてから宿に帰った。

リュシエルは去り際に、女の子の喉をもう一度見ていた。


「あれは確かに珍しいです」

小さく言ってから、静かに去る。


 路地裏を案内される道中、ゼノは名前を聞いた。


「で、呼び方は」


女の子はしばらく黙っていたが、やがて言った。


「エマ」


「本名?」


「うん」


それで十分だった。


 案内された先は、王都の外縁近くにある、崩れかけた建物の地下だった。

完全な悪党の巣、というほどでもない。

だが、人の目から外れるには十分な場所だ。


中には三人いた。


リーダーらしき男。

左頬に傷のある女の子。

まだ若いが目つきの悪い男。


ゼノたちを見た瞬間、空気が変わる。


「……誰だ」

リーダーの男が言う。


「ゼノです。話がしたくて来ました」

ゼノが答える。


「エマ」

傷のある女が低く言う。

「何連れてきた」


エマは舌打ちした。

「勝手に付いて来ただけ」


「そういうことにしときます」

ゼノは言った。


イグニスは何も言わない。

ただ、周りを見ている。


不良の空気。

だが、完全な悪党の巣ではない。

飢えと頼る大人もおらず、なんとか生きるために、集まっている連中の溜まり場だ。


「こいつを抜けさせたい」

ゼノが言った。


その一言で、若い男が笑った。

「は?」


「歌わせたいんで」

ゼノは続ける。


「ふざけてんのか」

リーダーの男の声が低くなる。


「本気です」


沈黙が落ちる。


傷のある女がエマを見る。

「出て行きたいのか?」


エマは顔をしかめた。

「……分からない」


「行くな」

女が吐き捨てた。


「でも」

そこでイグニスが初めて言った。

「声は本物だ」


全員の目がそちらを向く。


イグニスは半眼のまま、だが一歩も引かない声で続けた。


「喉を雑に使ってる。癖も悪い。だが、それでも残る。育てれば跳ねる」


不良たちには、その価値が分からない顔だった。

だが、“本気で欲しがっている”のは伝わったのだろう。


「連れていってどうする」

リーダーの男が聞く。


「歌わせる」

イグニスが答える。

「盗ませるよりはましだ」


「綺麗事だな」


「綺麗事じゃない」

ゼノが言った。

「こっちは商売です。声に価値があるなら拾う。それだけです」


この場で夢や希望の話をしても、舐められるだけだ。

だからゼノはあえて現実で押した。


「抜けたら何くれる」

若い男が聞く。


来た、とゼノは思う。

結局そこだ。


「金」

ゼノは即答した。

「ただし買うわけじゃない。手切れです」


「額は」


「今ここで言うと揉めるんで、そっちの頭と話します」


リーダーの男が、そこで少しだけ目を細めた。

話が通じる方だ。


「お前、何者だ」


「温泉郷の商売人です」

ゼノが言う。

「歌も売ってる」


傷のある女が、そこで初めて少しだけ興味を見せた。

「……今日慰労の会で歌があるって、あの歌姫団か」


「そうです」

ゼノは頷く。


「ミラベル?」

若い男が言う。


「知ってるのか」

リーダーの男が聞く。


「少し」

若い男は肩をすくめる。

「旅人が話してるのを聞いたことがある」


ゼノはその場で、ようやくひとつだけはっきりした。


エマをミラベルに入れる気はなかった。


違う。


この声は、ミラベルとは別の場所で立たせるべきだ。

ミラベルの明るさや可愛さに混ぜると、お互いが死ぬ。


もっと尖っていて、夜っぽくて、傷をそのまま音にできる声。

別の色。

別の集まり。


ゼノの中で、その形がぼんやりと立ち上がる。


「……新しく作るか」

小さく呟く。


「何を」

イグニスが聞く。


ゼノはエマを見た。


「ミラベルとは別のグループです」


エマが目を瞬く。

不良たちも怪訝な顔になる。


「この子はミラベルじゃない」

ゼノは言った。

「でも、この声は捨てるには惜しい」


イグニスは数秒だけ黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……そうだな」


リーダーの男が低く笑う。

「面白えな、お前ら」


「よく言われます」


「本気か」


「本気です」


王都の地下の薄暗い場所で、変な話が始まっていた。


だがゼノには、これが妙にしっくり来た。


王都に来て、歌って、拍手を取って。

その夜に拾ったのが、この掠れた声だ。


ならきっと、これも無駄ではない。


ミラベルが光なら、こっちは別だ。

まだ名前もない。

形もない。

でも、きっと必要になる。


ゼノは静かに息を吐いた。


王都で奪ったのは拍手だけじゃなかった。

どうやら、次の種まで拾ってしまったらしい。


――――

次回

 第76話 悪党の涙


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