第72話 王都へ持っていくのは、歌だけじゃない
王都へ出る日の温泉郷は、妙に静かだった。
人がいないわけじゃない。
湯楽郷はいつも通り動いている。
朝湯に入る客もいるし、商縁通りの店先では、今日も布が揺れている。
果実酒広場では、朝からもう笑い声が上がっていた。
けれど、その静けさは“落ち着いている”というより、“みんな意識して騒がないようにしている”静けさだった。
今日、ミラベルは王都へ向かう。
しかも、ただ歌いに行くんじゃない。
勇者たちを迎える席で歌う。
温泉郷で始まった歌姫団が、とうとう王都の中心へ踏み込む。
その事実が、村のあちこちにもう知れ渡っていた。
だからこそ、無責任に浮かれる空気にはならない。
代わりに、みんな少しだけ顔を引き締めて、でもどこか誇らしそうにしている。
ゼノは朝から音舞殿にいた。
舞台の上には、ダリオ、リュシエル、ボルグ、カイルスがいて、それぞれ荷の確認をしている。
弦。
笛。
大太鼓。
小太鼓。
どれも王都まで荷馬車で運ぶ。
細工用の布を巻き、木箱へ入れ、揺れで傷まないように固定する。
こういう時の準備は、少しでも雑だと全部に響く。
「弦はこの箱でいい」
ダリオが短く言う。
「笛はこっちです」
リュシエルが自分で布を巻き直していた。
「振動が強いと嫌なので」
「太鼓は荷台の中央寄せだな」
ボルグが低く言う。
「端に置くと揺れる」
カイルスが頷く。
「下にもう一枚噛ませるか」
四人の動きには無駄がない。
いつも通りに見える。
だが、いつもより少しだけ丁寧だった。
当然だ。
王都公演で楽器を傷めた、なんて笑えない。
ゼノはそれを見ながら、音舞殿の中央に置かれた紙へ視線を落とした。
曲順だ。
一曲目、『おかえりより先に、笑って』
二曲目、『ミラベル』
三曲目から五曲目、既存曲
六曲目、『笑って奪え』
七曲目、『明日へ踏み出そう』
決まった時にはしっくり来ていたが、こうして文字で見ると改めて強い。
最初に空気を取る。
そのあと、ミラベルの名を立てる。
中盤で積み重ねて、六曲目で熱を跳ね上げる。
最後は前へ出す。
王都でやるなら、この流れが一番いい。
「……悪くない」
ゼノが小さく呟く。
「その顔は、かなり気に入ってる時の顔だな」
後ろからマギウスが言った。
振り返ると、工房から来たらしく、共鳴鈴の入った箱を抱えていた。
「かなり気に入ってます」
「素直でよろしい」
マギウスが鼻で笑う。
「共鳴鈴は持っていく分だけ、もう別にしてある」
「ありがとうございます」
「王都でいきなり売る気か?」
「今回は売りません」
ゼノは首を振った。
「まずは歌です」
「だろうな」
マギウスは、それ以上は聞かなかった。
分かっている顔だった。
今の王都公演で最優先なのは、“王都でミラベルがどう見えるか”だ。
共鳴鈴や細かい商いを乗せるのは、その後でいい。
《視聴者数:1,103,742》
〈コメント:いよいよ出発か〉
〈コメント:曲順きたあああ〉
〈コメント:一曲目がおかえりより先に、笑って、なの強い〉
〈コメント:ラスト明日へ踏み出そう、完璧だろ〉
《フィクサル:並び、悪くない》
《ラグゼル:勝ち筋が見えるな》
《ルヴェリア:積み方が上手いわね》
《エルディア:公演構成、安定確認》
昼前には、ミラベルの七人も揃った。
今日は最後の通しと確認だけだ。
身体を潰すほどはやらない。
王都へ向かう前日に疲れ切っていたら話にならない。
それでも、誰も少しも気を抜いた顔をしていなかった。
エレナは譜面を持つ手に迷いがない。
リィナは静かに息を整え、セレスは舞台の中央をじっと見ている。
ミルファは落ち着かないようでいて、今日は無駄に跳ねない。
ナディアはもう完全に“やる顔”だ。
リーシャは緊張しているが、逃げていない。
ミュラはその全部を見ながら、最後に空気を柔らかくする役へ自然と戻っている。
イグニスが、鍵盤の前で言った。
「王都側が鍵盤を用意してるのか」
「うん」
ゼノが頷く。
「向こうでの確認は必須だ」
イグニスは半眼のまま続ける。
「同じ鍵盤じゃない。癖も重さも変わる。最悪、触った瞬間にムカつく」
「すごくありそうですね」
ゼノが言う。
「ある」
イグニスは即答した。
「だから、会場入ったら最初に俺が鍵盤見る」
ダリオが口元を上げる。
「お前が機嫌悪くなるところから始まるのか」
「機嫌悪くならねえ鍵盤ならいい。
なる前提で言うな」
小さな笑いが落ちる。
だが、いい緩み方だった。
「太鼓と弦は、前日に設置だ」
ボルグが確認する。
「はい」
ゼノが頷く。
「王都に入ったら、その日は宿で休みます。次の日、会場の下見と設置。本番はその次の日です」
エレナが小さく息を吐いた。
「ちゃんと一日あるの、少し安心します」
「そうですね」
リィナも静かに言う。
「いきなり本番ではないのがありがたいです」
「でも王都だよ?」
ミルファが目を丸くする。
「絶対でかいよね?」
「でかいだろうな」
ナディアが肩を回した。
「客も空気も」
「王都だからって、別に客の耳が三つあるわけじゃない」
イグニスが切る。
「ないけど!」
ミルファが言い返す。
「でも緊張はするじゃん!」
「するのは勝手だ」
イグニスは淡々と返す。
「ただ、それを舞台に持ち込むな」
セレスが静かに頷いた。
「はい」
ゼノは、そのやり取りを見ながら少しだけ安心した。
大丈夫だ。
緊張している。
でも、呑まれてはいない。
だったら明日から先も、まだちゃんと進める。
最後の通しは、七曲を全部ではなく、頭と終わりを重点的にやった。
一曲目、『おかえりより先に、笑って』。
ここで空気を取る。
そして最後の『明日へ踏み出そう』。
ここで王都に残す。
真ん中はもう仕上がっている。
問題は入口と出口だ。
そこを間違えると、全体の印象まで変わる。
音が止んだあと、イグニスが一言だけ言った。
「これで行く」
それが、今日一番重かった。
ゼノは頷く。
「はい」
もう変えない。
この形で王都へ行く。
それが決まった。
――
荷馬車が音舞殿の前へつけられる。
ダリオたちの楽器は先に固定した。
工房側からも、予備の細工道具や補修用の布が少しだけ積み込まれる。
商縁通りの前では、マギウスとロイドが立っていた。
「王都で変なもん食うなよ」
マギウスが言う。
「何の心配ですか」
ゼノが返す。
「お前は忙しいと雑になる」
「否定しにくいですね」
ロイドが帳面袋を肩に提げたまま言う。
「王都で何があっても、歌だけは落とすなよ」
「はい」
「……あと、王子相手でも、調子に乗りすぎるな」
「そこは気を付けます」
「本当か?」
「努力します」
ロイドが呆れたように息を吐く。
「まあいい。帰ってきた時に、また人が増えてる話を期待しとく」
ゼノは少しだけ笑った。
「それはありそうです」
エレナたちも、それぞれ見送りを受けていた。
サラがエレナの襟元を最後に整える。
ミレイがリーシャの手を握って、緊張しすぎないようにと言う。
ミュラは子どもたちに尻尾を触られながら「帰ったらまた歌うにゃ」と笑っていた。
ミルファはすでに半分くらい王都へ飛び出している顔をしていて、ナディアに「お前は落ち着け」と頭を小突かれている。
その全部を見ながら、ゼノは小さく息を吸った。
出る。
とうとう、本当に出るのだ。
温泉郷の中で育ててきたものを、そのまま王都へ持っていく。
《視聴者数:1,118,460》
〈コメント:出発だあああ〉
〈コメント:ここまで来たか……〉
〈コメント:温泉郷から王都、感慨深い〉
〈コメント:絶対でかい回になる〉
《フィクサル:行ってこい》
《エモーシア:いい顔してるわね》
《ラグゼル:王都で跳ねろ》
《ルヴェリア:帰ってきた時、もう一段上がってるわよ》
道中は、思っていたより静かだった。
最初のうちはミルファとミュラが王都の話で騒いでいたが、途中の宿に着く頃にはそれも少し落ち着いた。
長旅になると、誰でも自分の中に潜る時間が出てくる。
ゼノは馬車の窓から流れる景色を見ていた。
王都へ向かう道。
以前通った時とは、少しだけ違って見える。
あの時は探るために行った。
今度は見せるために行く。
それだけで、同じ道でも空気が変わるのが不思議だった。
隣にいたイグニスは、珍しく眠っていた。
さすがに昨夜も完全には寝ていないのだろう。
腕を組んだまま、壁にもたれて、深くではないが目を閉じている。
ゼノはその横顔を見て、それ以上は何も考えないようにした。
今はこれでいい。
王都へ行くと決めた。
新曲も作った。
だったら、もう余計な感傷は邪魔だ。
――
王都に入ったのは、次の日の夕方手前だった。
石畳。
高い建物。
整えられた窓。
道を行く人間の服まで、どこか揃って見える。
やっぱり綺麗だ、とゼノは思う。
そして、やっぱり少しだけ嫌な綺麗さでもある。
「うわ……」
ミルファが小さく漏らした。
「ほんとに王都だ……」
「王都だな」
ナディアが言う。
「見れば分かるけど」
エレナは窓の外を見ながら、息を潜めていた。
リーシャは少し硬い。
リィナとセレスは静かに景色を見ている。
ミュラだけは「人が多いにゃ」と妙に楽しそうだった。
馬車はそのまま、指定された宿へ向かう。
王都の中心から少し外れた、高級すぎず、だが雑でもない宿だった。
外観は上品で、入口も広い。
けれど、見せつけるような豪華さはない。
「いい場所だな」
ダリオが言う。
「王子の趣味かもしれませんね」
ゼノが答える。
「無駄に目立たせる気はない」
「助かる」
イグニスがぼそりと言った。
まだ半分眠そうだったが、ちゃんと起きていたらしい。
宿へ入ると、従者がすでに待っていた。
「お待ちしておりました」
一礼する。
「殿下が、到着の折には一度顔を見せてほしいと」
「今からですか」
ゼノが聞く。
「長くは拘束されません」
従者は答えた。
「ご挨拶と、明日以降の確認だけとのことです」
ゼノは頷いた。
「分かりました。俺とイグニスで行きます」
「俺も?」
イグニスが横から言う。
「来てください」
「眠い」
「知ってます」
「お前、本当に容赦ねえな」
そう言いながらも、断らない。
結局そこなのだ。
――
レオニスに通されたのは、前に使った私的な応接の間だった。
広い。
だが、やはり威圧のための豪奢さはない。
必要なものだけが整えられている。
王子はすでに席についていた。
ラウスも壁際に立っている。
「来たか」
レオニスが言う。
「はい」
ゼノが一礼する。
イグニスも、少し遅れて頭を下げた。
王子はその姿を一度見て、ほんのわずかに目を細めた。
だが余計なことは言わない。
「長旅ご苦労」
レオニスは言う。
「まずは来てくれたことに礼を言う」
「こちらこそ、お声がけありがとうございます」
ゼノが答える。
「勇者たちを労う場とは言ったが、堅苦しい式典にする気はない」
王子は続けた。
「音が死ぬからな」
その言い方に、イグニスが少しだけ目を上げる。
「だから、まず今日は休め」
レオニスは言った。
「宿はこっちで押さえてある。明日、お前たちは会場の下見と準備に入る」
「はい」
「鍵盤は現地に用意した」
王子の視線がイグニスへ向く。
「気に入らなければ言え。替えは難しいが、調整はさせる」
イグニスがそれに短く返す。
「見てから言います」
「だろうな」
レオニスの口元がわずかに動く。
ゼノは少しだけ安心した。
あの王子は、イグニス相手に変な気遣いをしない。
それがむしろ助かる。
「弦、笛、太鼓は明日搬入します」
ゼノが言う。
「今日はみんなを休ませます」
「そうしろ」
レオニスは頷いた。
「明日は会場を好きに使え。本番は明後日だ。それまでに場も音も、納得いくまで確かめろ」
「ありがとうございます」
「ただし」
王子が少しだけ目を細める。
「本番で中途半端は要らん」
その一言は、脅しではない。
期待だ。
だからこそ、少しだけ重い。
ゼノは笑わずに答えた。
「そのつもりはありません」
「ならいい」
レオニスはそこで、少しだけ背を預けた。
「曲は決めたか」
「はい」
ゼノが言う。
「一曲目、『おかえりより先に、笑って』。二曲目、『ミラベル』。三曲目から五曲目は既存曲。六曲目、『笑って奪え』。七曲目、『明日へ踏み出そう』です」
王子はその曲名を聞いて、少しだけ目を閉じた。
「新しい曲もあるのか」
短い。
でも、その一言で十分だった。
「最初で空気を取る」
レオニスが言う。
「最後で残す。そういう並びだな」
「はい」
「王都向きだ」
そこで少しだけ笑う。
「だが、王都に媚びていないのがいい」
イグニスが、そこで初めて言葉を出した。
「媚びた歌は腐るんで」
レオニスはその返しに、ほんの少しだけ口元を上げる。
「聞いていた通りだな」
ラウスが壁際で静かに目を伏せた。
笑ったのかもしれない。
《視聴者数:1,126,905》
〈コメント:レオニスとイグニスの会話いい〉
〈コメント:ちゃんと鍵盤気にしてくれてる〉
〈コメント:王都に媚びてないのがいい、分かる〉
〈コメント:本番前の空気たまらん〉
《フィクサル:いい接点だ》
《エルディア:王都側受け入れ、安定》
《ラグゼル:場は整った》
《エモーシア:あとは見せるだけね》
「今日は休め」
王子が改めて言う。
「王都見物などして疲れるな。浮かれて声を枯らすな。眠れ」
「はい」
エレナあたりが聞いたら背筋を伸ばしそうな言葉を、ゼノが代わりに引き受ける。
「明日、会場で会う必要があれば行く」
レオニスは言った。
「だが基本は好きにやれ。場だけは空けてある」
「助かります」
そこで話は終わった。
長くない。
だが、必要なことは全部あった。
宿へ戻る道で、イグニスがぼそりと言う。
「思ったより話が早いな」
「変に王族ぶらない人なので」
ゼノが答える。
「助かる」
「はい」
「でも、明後日こけたら普通に殺したい顔してたぞ」
「それはそうでしょうね」
「だろうな」
小さな笑いにもならないやり取りだった。
でも、その乾いた感じが少しだけよかった。
宿へ戻ると、七人はもうそれぞれ部屋へ荷を置いていた。
「どうでした?」
エレナがすぐに聞く。
「今日は休め、明日下見、明後日本番、です」
ゼノが答える。
「あと、鍵盤は向こうが用意しています」
それを聞いたミルファが「うわぁ」と言う。
「それ、イグニス絶対文句言うやつ」
「見てからだ」
イグニスが切る。
「もう文句言う顔してるじゃん!」
「うるさい」
そのやり取りに、少しだけ緊張がほどけた。
セレスが静かに言う。
「では、今日は本当に休んだ方が良さそうですね」
「そうですね」
リィナも頷く。
「明日の下見で、緊張は嫌でも入ります」
ナディアが肩を回す。
「今夜は寝るか。考えすぎてもろくなことない」
リーシャが小さく息を吐いた。
「……はい」
ミュラは窓の外を見ていた。
「王都、きれいにゃ」
その一言に、ゼノは少しだけだけ口元を上げる。
「そうですね」
「でも、温泉郷の方が好きにゃ」
「それもそうですね」
食事は軽かった。
誰も騒がない。
けれど、食欲がないほどでもない。
緊張している。
でも、壊れてはいない。
それが大事だった。
夜、自分の部屋に入ってから、ゼノは窓を少しだけ開けた。
王都の夜風は温泉郷より乾いている。
遠くにまだ馬車の音がある。
笑い声もする。
綺麗だ。
でも、やはり少し腹立たしい綺麗さでもある。
それでも今は、それでいいと思った。
明日、会場を見る。
鍵盤を確かめる。
太鼓や弦を入れる。
立ち位置を切る。
場を読む。
そして明後日、歌う。
王都で。
ゼノは机の上の曲順を書いた紙を、もう一度だけ見た。
一曲目、『おかえりより先に、笑って』。
二曲目、『ミラベル』。
三曲目から五曲目、既存曲。
六曲目、『笑って奪え』。
七曲目、『明日へ踏み出そう』。
悪くない。
どころか、かなり強い。
王都が呼んだなら、その王都で、ちゃんと奪えばいい。
ゼノは紙を畳み、小さく息を吐いた。
初日は終わった。
次は下見。
その次が、本番だ。
いよいよ、ここからだった。
――――
次回
第73話 王都の舞台は、静かに値踏みしてくる




