第68話 初披露、笑って奪え
音舞殿の開場前から、今日は空気が違っていた。
人が多いわけじゃない。
いや、実際には多いのだが、それだけでは説明がつかない。
客の顔が、もう浮ついている。
温泉湖から流れてきた湯上がりの客。
果実酒広場で軽く一杯やってから来た男たち。
何度目かの来訪らしい娘たち。
いつも通り、席を取って待っていた常連。
みんな、まだ何も始まっていないのに、どこか笑いそうな顔をしていた。
理由は分かっている。
歌舞殿の中で初めて形になったあの曲は、もうミラベルの中で回り始めていた。
口ずさみたくなる歌は、歌う側に宿るのも早い。
ゼノは音舞殿の入口脇で、その流れを見ていた。
客の足取り。
視線の置き方。
入場していく時の顔。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
今日は刺す日じゃない。
今日は奪う日だ。
《視聴者数:846,209》
〈コメント:来たああああ〉
〈コメント:今日は明るい回だろ!?〉
〈コメント:笑って奪え初披露きた!〉
〈コメント:湯上がりで浴びたい曲すぎる〉
《リュケオン(娯楽の神):こういう日を待ってた》
《エモーシア(感情の神):泣いた後の笑顔は強いのよ》
《ルヴェリア(育成の神):完成ではない。伸びる日に入っている》
《ラグゼル(商運の神):今日は帰り道まで金の匂いがするな》
《フィクサル:掴めよ、ゼノ》
ゼノは心の中でだけ笑った。
『分かってる』
そこへロイドがやってくる。
帳面袋を肩に提げ、いつも通りの顔をしていたが、口元だけ少し緩んでいる。
「今日は売り場も早そうだな」
「そうですね」
ゼノは音舞殿の扉を見たまま答える。
「でも、先に歌です」
「知ってる」
ロイドが笑う。
「お前とイグニスは、そこだけは変なほどぶれねえ」
変、という評価はどうかと思ったが、間違ってはいない。
歌が先だ。
売るのは、その熱のあとでいい。
遠くの方で、ミュラの笑い声がした。
歌舞殿の裏手からだ。
続いてミルファの、少し高くて元気な声もする。
「もうテンションが上がってるな」
ロイドが言う。
「今日はその方がいいです」
「珍しいな。いつもは落ち着かせる側だろ」
「曲次第です」
ゼノは短く答える。
「今日は上げた方が勝ちなので」
ロイドは「なるほど」と言って、音舞殿の横へ視線を流した。
工房側の販売担当も、今日は早めに揃っていた。
新たに販売だけを任せる為の人達に、教えるためだ。
マギウスが全体を見て、場所に合う人を選ぶ。
工房の一人一人が、新しく来た者たちに、役割を教えている。
前回より、顔つきが明らかに慣れていた。
初回で崩れず回したことで、自信がついたのだろう。
それは大きい。
ゼノが一度そちらを見た時、マギウスが顎で合図した。
ゼノがマギウスの元に行く。
「新しく入った者達も悪くない。すぐに慣れるだろう」
「皆さん、自信のある顔をしています。
教えるのも上手く伝えられそうですね」
ゼノは販売スペースを見ながら確信していた。
自分の役割を、新しく来た者たちに、詳しく説明をしている。
きっとすぐに交代できるだろう。
マギウスは音舞殿の方を見ながらゼノに言った。
「今日は前より来るぞ」
「でしょうね」
「値段で止まる顔してない連中が多い」
「歌が勝てば、止まりません」
「おう」
マギウスが口元を上げる。
「なら勝たせろ」
その返しが、妙によかった。
――
開場の時刻が来る。
扉が開かれ、客が流れ込む。
ざわめき。
椅子を引く音。
抑えきれない期待の混じった話し声。
今日の客席は、前より少し若い熱が多かった。
男だけではない。
女も多い。
しかも、ただ見に来た顔じゃない。
推しを決めに来た顔。
もう一度奪われに来た顔。
今日は何か起きると、勝手に信じている顔。
ゼノは、それを見て思う。
ちゃんと育ってる。
湯楽郷の空気が。
ミラベルの客が。
この場所そのものが。
《視聴者数:859,177》
〈コメント:客の顔が違う〉
〈コメント:もうファンが付いてる〉
〈コメント:現場の熱ってこういうやつ〉
〈コメント:今日は奪いにくる回だな〉
《エモーシア:期待が先に育ってるわね》
《リュケオン:こういう空気、最高なんだよ》
《フィクサル:舞台が客を育て始めた》
最後の客が入り、扉が閉まる。
外の音が少し遠くなる。
舞台袖で、ミラベルの七人が並んでいた。
今日は衣装も少し違う。
前回の幻想的な寄り方ではなく、軽やかさを前に出している。
象徴色を残しつつ、裾や袖の動きが見えるように調整された衣装。
揺れるたびに、七人の違いがそのまま目に入る。
エレナは中央で静かに呼吸を整えていた。
リィナは目を閉じ、空気の流れを聞くように立っている。
ミュラはもう尻尾が隠しきれず揺れているし、ミルファは口の中で何度も歌い出しを転がしている。
ナディアは壁にもたれながらも、目だけは鋭い。
セレスは落ち着いているようで、指先だけが少し動いていた。
リーシャは胸の前で手を重ね、でも顔はちゃんと前を向いている。
イグニスが、いつもの半眼で七人を見る。
「確認」
短く言った。
全員の視線が向く。
「一曲目から持ってく」
七人が小さく頷く。
「前半で空気作る。『笑って奪え』は最後に入れる。そこで全部持ってけ」
「はい」
エレナが代表して答える。
「ミルファ」
「はい!」
「今日は早いのなし」
「……はい!」
「ミュラ」
「にゃ!」
「浮かれすぎるな」
「無理にゃ!」
舞台袖に笑いが落ちた。
その笑い方が、ちょうどよかった。
緊張を抜き切らないまま、でも固まりすぎない。
ゼノは一人ずつ見る。
大丈夫だ。
今日は行ける。
《視聴者数:867,940》
〈コメント:ミュラw〉
〈コメント:もうこの時点でかわいい〉
〈コメント:イグニスの確認、短いのに強い〉
〈コメント:最後に笑って奪えか、勝ち確だろ〉
《ルヴェリア:精神状態、良好》
《ノクティア(音律の神):配置問題なし》
《フィクサル:なら、見せろ》
灯りが落ちた。
客席のざわめきが静まる。
最初の一音は、イグニスの鍵盤だった。
――コロン。
柔らかい。
だが、眠くない。
客席を起こす音だ。
一曲目は『ミラベル』。
名前を持った七人が、今日もそこから始める。
エレナが前に立つ。
セレスがその上に光を重ねる。
リィナが深くし、ミルファが抜け、ナディアが押し、リーシャが感情を置き、ミュラが最後にほどく。
もう、揺れない。
前よりもずっと、ミラベルがミラベルとして立っている。
客席の空気が、最初の一曲で綺麗に揃った。
拍手。
歓声。
名前を呼ぶ声。
そこから三曲。
温泉湖で育った歌たちが、今日も音舞殿の中で別の顔を見せる。
だが、前回のような圧ではない。
今日はどこか軽やかだった。
イグニスの弾き方もそうだ。
傷を押し出すより、前へ転がす音になっている。
ゼノは舞台袖からそれを見て、少しだけ安堵した。
無理に明るくしているわけじゃない。
ちゃんと前を向いてる音だ。
曲の合間、ミルファが客席へ向かって手を振った。
「今日は最後に、新しい歌をやります!」
ざわっ、と客席が揺れる。
「すっごく明るいです!」
「自分で言うな」
ナディアがすぐ突っ込む。
「だって明るいもん!」
笑いが起きる。
ミュラが前へ出る。
「でも、かわいいだけじゃないにゃ!」
そこで、客席の期待がさらに上がる。
ゼノは、ここでちゃんと引きつけられているのを確認した。
いい。
煽りすぎではない。
でも、待たせ方としては十分だ。
イグニスが、鍵盤の前で少しだけ指を止めた。
客席が静まる。
全員、待っている。
新曲を。
その瞬間、ゼノの視界の端で光が弾けた。
《システム通知》
《新曲初披露に伴う神域観測集中を確認》
《舞台加護 臨時付与》
《本公演に限り、歌姫団ミラベルへ微細加護を分散します》
ゼノの目がわずかに細くなる。
来た。
次々と文字が落ちる。
《リュケオン → ミルファ》
《加護:場跳躍》
《効果:高揚時の場牽引力 微上昇》
《エモーシア → リーシャ》
《加護:余韻残留》
《効果:感情の残り香 微上昇》
《ルヴェリア → エレナ》
《加護:芯定着》
《効果:中心軸の安定 微上昇》
《ノクティア → リィナ》
《加護:旋律補正》
《効果:空気の馴染み向上》
《ラグゼル → セレス》
《加護:視線収束》
《効果:視線吸着 微上昇》
《ヴァルシオン(推命の神) → ナディア》
《加護:間圧制御》
《効果:押し引きの判断精度 微上昇》
《フィクサル → ミュラ》
《加護:場柔軟》
《効果:全体熱量の崩れ防止》
《追加補正》
《歌姫団ミラベル:七色同調》
《効果:一曲中の役割交代精度 上昇》
《視聴者数:881,603》
〈コメント:加護きたあああ〉
〈コメント:初披露ブースト!〉
〈コメント:七人全員に乗った!〉
〈コメント:これは勝つ〉
《リュケオン:跳ねろ、ミルファ》
《エモーシア:残しなさい、リーシャ》
《ルヴェリア:立て、エレナ》
《ラグゼル:セレス、視線を奪え》
《フィクサル:崩すなよ、ミュラ》
ゼノは、表情を変えないまま舞台を見る。
七人は、文字なんて見えていない。
だが、確かに何かが乗ったのは分かっていた。
エレナが、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。
セレスの目が静かに光る。
ミルファは、わけもなく笑いそうな顔になり、ナディアは逆に落ち着いた。
リーシャの呼吸が深くなり、リィナは空気そのものに溶けるみたいに立つ。
ミュラは、いつもの跳ね方の中に柔らかい芯が入った。
イグニスが鍵盤を鳴らす。
――コロン。
次は二音、三音。
今までのどの曲とも違う入りだった。
軽い。
跳ねる。
けれど、その下にちゃんと熱がある。
ミルファの肩が自然に揺れる。
客席も、最初の数拍で空気が変わった。
来る、と分かる。
エレナが歌い出す。
「――おはようの次は、もう会いたいね」
「――昨日よりちょっと、可愛く笑えたら勝ち」
その瞬間、客席が一気に笑った。
驚きじゃない。
掴まれた笑いだ。
明るい。
だが、軽すぎない。
続いてミルファが前へ出る。
「――ふわり、くるり、風のまま」
「――でも好きだけは、ちゃんと奪うよ!」
そこで一気に拍手が起きた。
早い。
でも止まらない。
ミルファの足が自然に跳ねる。
その動きにミュラが重なり、場の温度が一段上がる。
ナディアが二番で前へ出る。
「――甘いだけなら、すぐに消える」
「――だから笑って、刺してやる」
客席の男たちが「うおっ」と声を漏らした。
女たちも笑う。
強い。
可愛いだけじゃない。
まさにそこだ。
セレスが視線を流す。
リィナが空気を柔らかく回し、リーシャが後半で胸の奥へ引っかける。
そしてサビ。
七人が揃う。
「――笑って、笑って、先に奪うの」
「――好きって言う前に、もう離さない」
「――きらり、きらり、今日の私が」
「――昨日の涙まで塗り替える」
音舞殿が、そこで完全に持っていかれた。
客席の手拍子が自然に揃う。
笑っている。
でも、ただ楽しいだけじゃない。
昨日の涙まで塗り替える。
その一節が、明るい曲のはずなのに妙に深く入る。
ゼノは、そこでこの曲が勝ったと分かった。
ただ可愛い歌じゃない。
昨日までを知ってる歌だ。
だから強い。
《視聴者数:894,550》
〈コメント:うわああああ好き!!!〉
〈コメント:サビ強すぎる〉
〈コメント:明るいのに泣きそうになるの何でだよ〉
〈コメント:昨日の涙まで塗り替える、反則だろ〉
《エモーシア:そう、それよ》
《リュケオン:盛り上がれ盛り上がれ!》
《ルヴェリア:前進確認》
《フィクサル:掴んだな》
舞台の上で、ミュラが笑う。
ミルファが跳ねる。
エレナはちゃんと真ん中で立ち、セレスがその横で静かに視線を奪う。
リィナは流れを繋ぎ、ナディアが押し、リーシャが最後に余韻を残す。
順に奪う。
本当に、その曲だった。
客席は完全に飲まれていた。
口ずさみたくなる。
手拍子したくなる。
もう一回聞きたいと思う。
歌が終わる。
一拍。
そして、爆発した。
歓声。
拍手。
足踏み。
名前を呼ぶ声。
「ミラベル!」
「もう一回!」
「今のやばい!」
「笑って奪え、好き!」
タイトルが、もう客席に残っている。
早い。
だが、その早さこそ勝ちだ。
ミルファが目を丸くしたまま笑い、ミュラは尻尾をぶんぶん振っている。
リーシャが泣きそうなのを堪え、ナディアは笑いながら客席を見下ろした。
セレスの頬も少しだけ紅潮していて、リィナの目は柔らかく細められている。
エレナは胸を上下させながらも、真ん中でしっかり立っていた。
イグニスだけが、鍵盤の前でわずかに目を伏せる。
それで十分だった。
ゼノは見た。
この男は、ちゃんと前に進んだ。
笑って奪う歌を、ミラベルへ渡せるところまで来た。
エレナが一歩前へ出る。
「ありがとうございます!」
その声も弾んでいた。
「新曲、『笑って奪え』でした!」
また歓声。
名前が立つ。
曲が立つ。
ミラベルが立つ。
全部ちゃんと、前を向いて立っている。
ゼノは舞台袖で小さく息を吐いた。
よかった、と思った。
本当に。
重いものは消えない。
でも、それだけで終わらない。
今日みたいな日があるなら、まだ行ける。
そこへロイドが、少し離れた位置から笑い混じりに言う。
「……売り場、死ぬぞこれ」
ゼノも少しだけ笑った。
「でしょうね」
「嬉しそうだな」
「嬉しいです」
「珍しい」
「今日は珍しくていい日なので」
その返しに、ロイドが肩を揺らした。
音舞殿の中では、拍手がまだ鳴っている。
ミラベルは新しい歌を手に入れた。
イグニスは前へ進むための音を出した。
客は、もう次も来る顔をしている。
なら、次は売り場だ。
この熱を、そのまま鈴へ流す。
ゼノは販売所の方へ視線を向けた。
『行くぞ』
《視聴者数:907,288》
〈コメント:最高すぎた〉
〈コメント:これ現地で浴びたいやつ〉
〈コメント:売り場が戦場になるw〉
〈コメント:ミラベル、完全に来てる〉
《ラグゼル:今だ、流せ》
《リュケオン:うおおお、もう一回聞かせろ!》
《エモーシア:笑って奪ったわね》
《フィクサル:次も取れ、ゼノ》
扉の向こうでは、もう客が立ち上がり始めていた。
笑いながら。
興奮した顔のまま。
さっきまでの歌を胸に残したまま。
その顔を見て、ゼノは思う。
勝った。
今回は、ちゃんと笑って勝った。
――――
次回
第69話 新曲入りの鈴が、会えなかった客を連れてくる




