第66話 会わないまま、前へ進む方法
翌朝、イグニスは歌舞殿にいなかった。
それを聞いた瞬間、ゼノは少しだけ足を止めた。
いなくなった、という言い方は嫌だった。
逃げた、みたいに聞こえるからだ。
「朝から温泉湖の方へ行ったぞ」
そう教えてくれたのはガルドだった。
薪を運ぶ手を止めもせず、いつもの調子で言う。
「なんか、顔は死んでたぞ」
ゼノはその言葉に、少しだけ息を吐いた。
消える顔じゃない。
それだけで、今は十分だった。
「ありがとうございます」
「おう。お前の方も、ひでえ顔してるぞ」
「知ってます」
「知ってるやつの返事だな」
ガルドはそこで笑った。
笑ったが、深くは聞かない。
この村のいいところは、そこで踏み込まない人間が何人かいることだと、ゼノは思う。
温泉湖へ向かう道は、朝の湯気で少し白んでいた。
果実酒広場ではまだ椅子を並べている最中で、旅人たちも半分眠そうな顔をしている。
何も知らない朝だ。
アオイが生きていることも。
イグニスが昨日、鍵盤の前で一度死んだことも。
それでも世界はちゃんと回っている。
そのことが、少しだけ残酷で、少しだけありがたかった。
《視聴者数:804,118》
〈コメント:次の日きた〉
〈コメント:イグニス大丈夫か……〉
〈コメント:ここからどう戻すんだ〉
〈コメント:会わないって決めた後が一番むずい〉
《フィクサル:慌てるな》
《エモーシア:昨日泣いた傷は、朝には閉じないわよ》
《リュケオン:でも止まってもいられねえ》
《エルディア:経過観察、継続》
温泉湖の端、まだ客が少ない時間の椅子に、イグニスは座っていた。
湯には入っていない。
ただ、湖面を見ている。
手には何も持っていない。
酒もない。
鍵盤もない。
それが逆に、少しだけ変だった。
イグニスは、ゼノが近づいてもすぐには振り向かなかった。
水面を見たまま、ぽつりと言う。
「来ると思った」
「行くと思ったので」
「失礼だな」
「お互い様です」
そこでようやく、イグニスが少しだけ口元を歪めた。
笑ったというほどではない。
でも、昨日よりは人間の顔に近かった。
「座れ」
隣を顎で示され、ゼノは素直に腰を下ろした。
湖面には朝の光が揺れている。
湯気の向こうで、誰かが桶を運ぶ音がした。
少しだけ間があってから、イグニスが言う。
「寝てない」
「でしょうね」
「お前もか」
「少しだけ」
「少しじゃねえ顔だぞ」
「イグニスほどじゃないです」
「言うようになったな」
「前からです」
それきり、また沈黙。
だが昨日の歌舞殿の沈黙とは違った。
あれは、鍵盤の前で人が壊れる音のしない時間だった。
今は、壊れたものがどうにか立ち上がろうとしている時間だ。
「……会わないまま、終わるのは違う気がするって言っただろ」
イグニスが湖面を見たまま言う。
「はい」
「今もそう思ってる」
「はい」
「でも、今すぐ会わせろとは思ってない」
ゼノはそこで、少しだけ肩の力を抜いた。
昨日の一夜で、そこまで整理したのか。
それとも、眠れないまま朝を迎えて、そこにしか落ち着けなかったのか。
どちらでもよかった。
その結論に今立ってくれているなら、それでいい。
「……どうすればいいと思う」
イグニスが聞いた。
その問いに、ゼノは少し驚いた。
この人は、人にやり方を聞く時、だいたいもう半分は自分の中で決めている。
それでも聞くのは、確認したいのだろう。
「前へ進むしかないと思います」
ゼノは言った。
「雑だな」
「今はそれくらいでいいです」
イグニスは低く息を吐いた。
「前、ね」
「はい」
「会えないのに?」
「会えないからです」
湖面の光が少し強くなる。
風が湯気を押し流した。
「今のイグニスが止まったら、ソフィアさんも止まったままになります」
イグニスの目が、そこで少しだけ動いた。
「何でそうなる」
「多分、あの人は“まだ弾いてるんだ”って聞いた時、痛いのに少しだけ救われてもいたからです」
それは、ベルノアでアオイの顔を見たゼノの感覚だった。
言葉にすれば雑だ。
でも、あの時確かにあった。
きつい。
でも、ゼロではない。
嫌なのに、終わってもいない。
そういうややこしい温度が。
「だから、こっちが止まるのは違う」
ゼノが続ける。
「会わないなら会わないまま、前へ行った方がいいです」
イグニスは黙った。
長い沈黙のあと、ぽつりと聞く。
「それ、あいつのためか」
「半分は」
「半分は?」
「俺が嫌だからです」
イグニスが、そこで初めてはっきりこっちを見た。
「何が」
「せっかくここまで来たのに、また鍵盤ごと沈まれたら腹立つんですよ」
少し乱暴なくらいではっきり言う。
「王都で人ぶっ潰して、ベルノアまで行って、生きてるって持って帰って、最後にイグニスが弾けませんで終わるの、最悪でしょう」
一瞬だけ、イグニスがぽかんとした顔をした。
それから、笑った。
本当に少しだけだったが、昨日よりずっとちゃんと笑った。
「お前、本当に可愛げねえな」
「今さらです」
「……そうだな」
その笑いのあと、イグニスは両手を顔に当てた。
泣いているわけじゃない。
ただ、一度顔を隠したかったのだろう。
「昨日な」
手で顔を覆ったまま言う。
「お前が帰ったあと、弾こうとした」
ゼノは黙って聞く。
「でも、駄目だった」
「はい」
「一曲も出ねえ」
声が低く沈む。
「頭の中にはある。あるのに、指先まで来る途中で全部死ぬ」
きついだろうな、と思った。
多分、昨日の一音は本当に限界だったのだ。
痛みも、後悔も、まだ生々しすぎる。
「でも今朝、ここでぼんやりしてたら」
イグニスが手を下ろす。
「一つだけ、思った」
「何です」
「会えねえなら、会えねえなりの音があるかもしれねえ」
その言葉に、ゼノはわずかに息を止めた。
そこへ行けるなら、大丈夫だと思った。
会えない。
傷んでいる。
終わっていない。
そのどうしようもなさを、ただ腐らせるんじゃなく、音へ向けようとしている。
それはもう、かなり前を向いている。
「ありますよ」
ゼノは言った。
「無責任に言うな」
「責任は取れないですけど、あります」
「何で分かる」
「昨日の一音が、もうその入口だったので」
イグニスが眉を寄せる。
「……あれ、そんな大層なもんか?」
「かなり」
「掠れてただけだろ」
「だからです」
ゼノは少しだけ笑った。
「綺麗に鳴ったら、逆に嫌でした」
イグニスは、そこで少しだけ目を細めた。
嫌そうな顔をしている。
でも否定はしなかった。
《視聴者数:820,447》
〈コメント:うわ、戻してる……〉
〈コメント:会えないなりの音、いい〉
〈コメント:昨日の一音が入口って言い方好きすぎる〉
〈コメント:ゼノ、こういう時だけめちゃくちゃいいこと言う〉
《エモーシア:傷がそのまま音になる時ってあるのよ》
《フィクサル:そこで逃がすな》
《リュケオン:いいな、これ》
《ルヴェリア:育つ痛みだ》
しばらくして、イグニスが言う。
「ミラベルにはまだ言うな」
「言いません」
「エレナは勘づいてるかもしれねえけど」
「勘づいてても、何も聞かないと思います」
「そうか」
また少し沈黙。
だが今度は、さっきよりずっと息がしやすかった。
「……ゼノ」
「はい」
「次の公演、いつだ」
その問いに、ゼノはほんの少しだけ口元を上げる。
「三日後です」
「近いな」
「逃がしません」
「うるせえよ」
イグニスはそう言ったが、声に昨日ほどの死がなかった。
「今のまま出したくねえ」
低く続ける。
「でも、止めたくもねえ」
「なら、曲順を変えましょう」
「は?」
「曲を一つ減らします」
イグニスの目が少し上がる。
「減らす?」
「はい。今ある曲で組み直す。その代わり、最後に一曲だけ、あなたが今の音を置ける場所を作る」
「無茶言うな」
「得意でしょう」
イグニスは、そこで舌打ちするふりをした。
ふりだけで、本気ではない。
「……お前、ほんと勝手だな」
「今さらです」
「そればっかりだな」
「便利なので」
イグニスは呆れたように息を吐いた。
でも、その吐き方は少しだけ生きていた。
「一回、歌舞殿戻るか」
その言葉に、ゼノは何も言わず立ち上がった。
立ち上がるという行為だけで、少しだけ救われる。
この人はまだ、鍵盤のところへ戻る気がある。
それだけで、今日は十分だった。
歌舞殿へ戻る途中、ロイドとすれ違った。
帳面を抱えたまま、二人の顔を見比べる。
「お、いたか」
「いました」
「顔、少し戻ったな」
ロイドがイグニスに向かって言う。
イグニスは眉を寄せる。
「そんな分かりやすいか」
「分かりやすい」
「最悪だな」
「最悪の顔は昨日だったぞ」
その返しに、イグニスが少しだけ笑った。
ロイドはそこで深くは突かない。
「昼の飯、後で持っていかせる」
それだけ言う。
「助かる」
イグニスが短く返す。
「無理して弾くなよ」
「する」
「するのかよ」
「しないともっと駄目だ」
ロイドは、そこで少しだけ目を細めた。
「なら、好きにしろ」
その言い方は、雑で、ちょうどよかった。
――
歌舞殿に戻る。
舞台の上にはまだ午前の光が残っていた。
イグニスは鍵盤の前に座る。
ゼノは昨日と同じように、少し離れた客席側へ立った。
「何だ、その距離」
イグニスが言う。
「近いとうるさいって言うので」
「言うな」
「じゃあ、ちょうどいいです」
イグニスはそれ以上返さず、鍵盤に手を置いた。
すぐには弾かない。
昨日と同じだ。
でも、昨日と違うのは、今日は二音目まで行こうとしていることだった。
最初の一音が鳴る。
昨日と同じく、掠れている。
でも、今日はそこで終わらなかった。
二音目。
三音目。
綺麗ではない。
整ってもいない。
けれど、死んではいない。
ゼノはその音を聞きながら、ベルノアでアオイが歌っていた姿を思い出していた。
壊れてないわけじゃない。
でも、死んでもいない。
似ていると思った。
音の傷み方が。
イグニスは途中で止まった。
「駄目だな」
「はい」
「否定しねえのか」
「今はまだ」
「……くそ」
でも、その“くそ”は昨日みたいな空っぽの音ではなかった。
悔しいと思えているだけ、まだ前にいる。
「もう一回」
ゼノが言う。
「お前が言うのかよ」
「言います」
「何様だ」
「運営です」
イグニスは、そこで本当に少しだけ吹き出した。
「最悪だな」
「今日二回目ですね」
「うるせえ」
それでも、もう一回弾いた。
次は少しだけ長かった。
途中で崩れる。
でも、崩れたまま投げない。
ゼノはその音を聞きながら、思った。
会わないまま、前へ進む方法なんて、多分きれいなものじゃない。
もっと格好悪くて、もっと遅くて、何度も止まる。
でも、それでいいのだろう。
会えない。
会わせられない。
それでも止まらない。
今必要なのは、多分それだけだ。
《視聴者数:837,003》
〈コメント:二音目いった……〉
〈コメント:うわ、少しずつ戻してる〉
〈コメント:綺麗じゃないのが逆にいい〉
〈コメント:会わないまま前へ進む、めちゃくちゃ好きだわ〉
《フィクサル:それでいい》
《エモーシア:無理に綺麗に戻さなくていいのよ》
《リュケオン:これ、静かな回なのに強いな》
《ルヴェリア:芽は死んでいない》
夕方になる頃にも、イグニスは完全には戻っていなかった。
当然だ。
でも、鍵盤の上で死んだままでもなかった。
それで十分だと、今日は思うことにした。
歌舞殿を出る時、イグニスが背中越しに言った。
「ゼノ」
「はい」
「次、ソフィアのこと話す時は」
そこで少しだけ間が空く。
「……もう少しだけ、容赦しろ」
ゼノは振り返らず、少しだけ笑った。
「努力します」
「信用できねえな」
「かなり」
後ろで、小さく舌打ちする音がした。
でも、それも少しだけ生きていた。
外へ出る。
温泉郷の夕方はやわらかい。
王都みたいに、綺麗な顔で人を食ったりしない。
アオイはまだ会わない。
イグニスも、まだ会いに行ける顔ではない。
それでも、今日分かった。
会わないまま、前へ進むことはできる。
少なくとも、一音くらいなら。
だったら次は、もう少し先まで行ける。
そう思ってもいい気がした。
――――
次回
第67話 泣いた夜の次は、笑って奪え




