第65話 生きていたと知った日、鍵盤が一度死んだ
ラウスは王都に残った。
だから、持ち帰るのはゼノ一人だった。
ソフィアは生きていた。
今はベルノアで、アオイという名で生きている。
だが、会わない。
イグニスの名前で、まだ傷むから。
その事実を胸に入れたまま温泉郷へ戻る道は、王都へ向かった時よりずっと重かった。
黒幕は落とした。
グレイスも、カイルも、ヴェルグランデ家も沈めた。 王都の腐った流れには、確かに穴を開けた。
それでも、軽くはならない。
誰にでも分かる悪党を落とすより、
もう終わったと思っていた相手が、まだどこかで生きていると伝える方が、人を深く壊す。
馬車の窓の外で、山道が揺れていた。
王都の石畳と違って、少し荒い。
風も素直で、木の匂いがする。
湯気の混じる空気が近づくたび、帰ってきたのだと思う。
思うのに、胸の底は少しも静まらなかった。
《視聴者数:821,904》
〈コメント:きた……〉
〈コメント:これ一人で持って帰るの重すぎる〉
〈コメント:ラウスいないの余計きつい〉
〈コメント:絶対しんどい回だろこれ〉
《フィクサル:逃げるなよ、ゼノ》
《エモーシア:優しさで濁すと一番駄目になるわよ》
《リュケオン:うわぁ……胃が痛ぇ》
《エルディア:感情負荷、上昇中》
温泉郷は、いつも通りだった。
果実酒広場には昼の客がいて、湯上がりの旅人が笑っている。
新校舎の前では、子どもが走り回っていた。
ミラベルの札も、共鳴鈴工房の看板も、そのままだ。
何も変わらない。
それが今は、ありがたかった。
馬車を降りたところで、マギウスが気づいた。
「ゼノ?」
工房の前で木箱を運んでいた手を止め、目を丸くする。
「思ったより早かったな」
「王都に長居したくなかったので」
「それは分かる」
マギウスは苦笑してから、ゼノの顔を見て少しだけ眉を寄せた。
「……何かあったか」
「いろいろと」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
「早く休めよ」
「そうします」
休む前にやることがある。
それを口には出さず、ゼノは歌舞殿の方を見た。
途中、エレナとすれ違った。
「あ、ゼノ」
いつもの調子で声をかけかけて、顔を見て止まる。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
「王都、どうでしたか」
普通なら笑って返せたかもしれない。
だが今日は、少し無理だった。
「用事は全部片付きました」
それだけ言うと、エレナは小さく頷いた。
「良かったです。長旅、お疲れ様でした」
少し間を置いてから、静かに続ける。
「イグニスは歌舞殿にいます。昨日も、今日も」
「そうですか」
「……何か、あったんですか?」
ゼノはほんの少しだけ笑った。
「イグニスに次の歌の話をしてきます」
「新曲ですか?」
エレナの顔が少し明るくなる。
「はい。楽しみにしていてください」
「はい」
それ以上は聞かなかった。
その気遣いが、今はありがたかった。
――
歌舞殿の扉を開ける。
中は静かだった。
客はいない。
昼の練習が終わったあと特有の、音だけが薄く残った静けさだ。
高い天井。
木の匂い。
舞台の上に落ちる午後の光。
その中央に、イグニスがいた。
一人で、鍵盤の前に座っている。
まだ弾いていない。
譜面も見ずに、ただ鍵盤の上へ手を置いていた。
その背中を見た瞬間、ゼノは胸の奥が詰まった。
この人は今、本当に前へ進もうとしている。
だからこそ、きつい。
「帰ったか」
振り向かないまま、イグニスが言う。
「はい」
「ラウスは」
「王都に残ってます」
「そうか」
そこでようやく振り向く。
ゼノの顔を見た瞬間、目の奥の温度が変わった。
「……何だ」
短い。
でも、それだけで分かる。
悪い報告だと、もう察している声だった。
「話があります」
イグニスは数秒だけ黙った。
それから舞台脇の椅子を顎で示す。
「座れ」
ゼノは舞台へ上がった。
だが、座らない。立ったままだった。
イグニスも、鍵盤の前から動かない。
「王都、どうだった」
「まず、王都の件はある程度片付きました」
「……ああ」
「グレイスは落ちました」
イグニスの指先が、鍵盤の縁で止まる。
「カイルもです。もう王都では今までみたいな顔で立てないと思います」
「そうか」
声は平坦だった。
でも、その平坦さは無関心じゃない。
「王子が動いたか」
「はい」
「そうか」
そこで一度、沈黙。
ここまでは報告だ。
悪人が落ちた話。
問題は、この先だった。
《視聴者数:827,268》
〈コメント:きつい、まだ前置きだ〉
〈コメント:ここから本題か……〉
〈コメント:イグニスもう察してる顔してる〉
〈コメント:無理、こっちが息止まる〉
《エモーシア:逃げないで、ゼノ》
《フィクサル:刺せ。今はそれが慈悲だ》
《リュケオン:うわぁ、怖ぇ》
《エルディア:主要事実、未伝達》
「それと」
イグニスは何も言わない。
待っている。
「ソフィアの件も、かなり分かりました」
その名が落ちた瞬間、空気が変わる。
顔は動かない。
だが、目の奥だけが止まる。
「……何が」
平坦な声だった。
聞きたくないものを聞く時の声だ。
ゼノは真正面からイグニスを見た。
「生きてました」
一瞬だった。
イグニスの顔から、何かが抜けた。
「……は」
ほとんど音にならない。
「ソフィアは、生きてました」
もう一度、はっきり言う。
「今は別の名前で生きてます」
鍵盤の上に置かれた手が、わずかに震えた。
「どこで」
「北東です。ベルノアという町で」
イグニスは、何も言わない。
視線だけが少しずつ落ちていく。
鍵盤へ。
自分の手へ。
その先の、見えないところへ。
「……本当に」
「はい」
「見たのか」
「会いました」
そこで、イグニスの肩が揺れた。
「会った」
「はい」
「お前が」
「はい」
深く息を吸う。
吸ったというより、詰まった呼吸を無理やり押し込んだみたいだった。
「どんな顔してた」
その問いに、ゼノは一瞬だけ意外さを覚えた。
どこで何をしていた、より先に顔。
でも考えれば当然だった。
人は、消えた相手の“今”を知る時、まず顔を想像する。
笑っていたか。
怒っていたか。
痩せていたか。
壊れていたか。
「ちゃんと生きてる顔でした」
イグニスの喉が動く。
「ただ、楽ではないです」
そこで空気がまた沈む。
「……名前は」
「今は伏せます」
イグニスが顔を上げる。
目が少しだけ鋭くなる。
「何でだ」
「必要だからです」
「必要?」
「はい」
ゼノは声を落とした。
「今の名前は、必要な時まで出さない方がいい」
イグニスはしばらく黙った。
怒るかと思った。だが違った。
少しだけ目を伏せる。
「……そうか」
その返しの方が、きつかった。
察したのだろう。
名前を変えなければ生きられなかったところまで行ったのだと。
「まだ歌ってました」
その一言で、イグニスの肩がまた揺れた。
「歌ってた?」
「はい」
「……」
「舞台ではないですが、癖だと言ってました」
イグニスはそこで完全に黙った。
「縫い物で食ってました。看板のない、小さな店で」
「何で、お前……」
そこで初めて、声が切れた。
「何でそこまで知ってる」
「話したからです。会って、少しずつ」
「……会わせろ」
とても小さい声だった。
けれど、一番重かった。
やはり来た。
来ると思っていた。
でも、来てほしくなかった言葉でもある。
ゼノは一拍だけ黙ってから、言った。
「まだ駄目です」
その瞬間、イグニスが初めてゼノを睨んだ。
「何でだ」
「会いたがってないからです」
その一言で、イグニスの目から一気に力が抜けた。
「……嫌われてるのか」
その問いは、惨めで、痛かった。
「そういう簡単な形じゃないです」
「なら何だ」
「まだ傷んでます」
「何が」
「あなたの名前で、まだ傷むそうです」
イグニスの顔から、音が消えた気がした。
ここが一番痛いと分かっていた。
分かっていたのに、落とすとやっぱりきつい。
「……それ、は」
「本人が言いました。まだ、あの人の名前で傷むって」
イグニスは、視線を完全に落とした。
鍵盤が目の前にある。
でも多分、もう見えていない。
ゼノは待った。
今は余計な言葉を足すと駄目だ。
しばらくして、イグニスがぽつりと聞いた。
「……俺のこと、何か言ってたか」
来ると思っていた問いだった。
全部は言えない。
まだ早い。
でも、何も話さないのも違う。
「まだ弾いてるんだ、って」
イグニスの手が、そこで完全に止まった。
「それを聞いた時の顔、かなりきつかったです」
「……そうか」
たったそれだけ。
でも、その中に八年分の後悔が沈んでいた。
《視聴者数:833,590》
〈コメント:うわああああ〉
〈コメント:「まだ弾いてるんだ」返したか……〉
〈コメント:無理、しんどい〉
〈コメント:これ神回だろ〉
《エモーシア:痛いわね》
《フィクサル:それでも聞け》
《リュケオン:きつすぎるだろこれ》
《エルディア:対象、深刻な動揺を確認》
イグニスは長く黙った。
歌舞殿は静かだ。
外から、遠くの笑い声が少しだけ聞こえる。
湯気の流れる音までしそうだった。
ここだけ、別の場所みたいだった。
やがてイグニスが低く言う。
「王都で、何があった」
ゼノは頷いた。
ここから先は、必要なところだけを置く。
グレイスがどういう男だったか。
歌い手をどう扱っていたか。
カイルが何をしていたか。
若い歌い手が一人、すでに同じ流れへ飲まれていたこと。
王子が動き、黒幕ごと大きく崩したこと。
アオイから預かった帳簿の細部は伏せた。
南で一度落ちたことも、まだ言わない。
そこは今、話す場所じゃない。
「ソフィアは、ただ消えたんじゃなかった」
ゼノが言う。
「王都の仕組みを知って、拒んで、それで危なくなった」
「危なく?」
「命を狙われる段階まで行ってました」
イグニスの顔が、初めてはっきり歪んだ。
「……知らなかった」
「でしょうね」
「俺は」
声が掠れる。
「何も、知らなかった」
ゼノは否定しなかった。
知らなかった。
多分、本当にそうだ。
でも、知らなかったで済まない場所があるのも事実だった。
「知るのが遅かったんだと思います」
イグニスは口元を歪めた。笑おうとして失敗したみたいな顔だった。
「遅い、か」
「はい」
「……あいつらしいな」
「誰がです」
「ソフィアが」
イグニスは目を伏せたまま言う。
「そういう言い方する」
やっぱりまだ、全部終わっていない。
終わった相手の口癖なんて、こんなふうには出てこない。
「会わせろとは、もう言わない」
しばらくして、イグニスが言った。
ゼノは黙って続きを待つ。
「今それを言うのが、ただの俺の都合だってのは分かる」
「はい」
「でも」
イグニスの手が、鍵盤の縁を掴む。
「どこかで会わないまま終わるのも、違う気がする」
その言葉に、ゼノは少しだけ息を吐いた。
「俺もそう思います」
「……そうか」
「ただし、順番は要ります」
「だろうな」
そこで、イグニスがようやく少しだけ顔を上げた。
死んだ顔ではない。
でも、かなり落ちている。
「ゼノ」
「はい」
「お前、あいつの歌を聞いたか」
「聞きました」
「……どうだった」
ゼノは少しだけ考えた。
綺麗、では足りない。
上手い、でも足りない。
痛い。
でも、それだけでもない。
「生きてる歌でした」
イグニスの睫毛が、わずかに震える。
「壊れてないわけじゃないです。でも、死んでもない」
「……そうか」
「かなり刺さる歌でした」
それを聞いたイグニスは、何も言わなかった。
ただ、右手を少しだけ鍵盤の上へ戻した。
ゼノは息を止める。
弾くのか。
今、ここで。
指はすぐには落ちなかった。
落ちないまま、数秒。
長い沈黙。
それから、ようやく一音だけ鳴った。
掠れていた。
いつものイグニスの音じゃない。
迷いと痛みが、そのまま指先に乗ったみたいな一音だった。
でも、確かに前へ出ようとしている音でもあった。
ゼノは、その一音を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
何か言うと、全部安くなる。
だから何も言わない。
イグニスも、二音目は出さなかった。
ただ、その一音の余韻だけが歌舞殿の中に薄く残る。
《視聴者数:839,742》
〈コメント:うわあああ一音……〉
〈コメント:ここで一音だけ鳴らすの反則だろ〉
〈コメント:死んだ、でも生きてる〉
〈コメント:神回すぎる〉
《エモーシア:いい音じゃない。だからいいのよ》
《フィクサル:まだ終わるな》
《リュケオン:くぅ……これだよ》
《エルディア:再起兆候、微弱確認》
長い沈黙のあと、イグニスが小さく言った。
「……今日は、これ以上無理だ」
「分かってます」
「悪い」
「はい」
イグニスは少しだけ口元を歪めた。
笑おうとして失敗した顔だった。
「お前、王都帰りのくせに、生意気だな」
「かなり」
「ラウスは」
「残ってます」
「そうか」
目を伏せる。
「じゃあ、向こうの始末はまだ続くんだな」
「はい。でも大きいところはもう落ちてます」
イグニスはゆっくり頷いた。
「なら、いい」
何がいいのか。
多分、全部じゃない。
でも、王都で放っておかれたわけじゃないことだけでも、少し違うのだろう。
ゼノは、ここまでにした。
「また来ます」
イグニスは頷かなかった。
でも、止めもしなかった。
それで十分だった。
――
歌舞殿を出る。
夕方の湯気が少し濃くなっていた。
遠くで誰かが笑っている。
果実酒広場から客の声もする。
世界は普通に続いている。
でも、さっきまでいた舞台の上では、確かに何かが少しだけ壊れ、少しだけ生き返った。
ゼノは振り返らなかった。
振り返ったら、自分まで少し駄目になりそうだったからだ。
――
石段を下りたところで、ロイドが立っていた。
帳面袋を肩に提げている。荷の確認の帰りらしい。
「……戻ってたのか」
「はい」
ロイドはゼノの顔を見て、それから歌舞殿の方をちらりと見た。
「イグニスは中か」
「はい」
「そうか」
それだけ言って、少しだけ黙る。
聞かない。
でも、何かあったのは分かっている顔だった。
前に果実酒広場で、ゼノとイグニスが酒を飲みながら長く話していた夜を、ロイドは知っている。
内容までは知らない。
だが、簡単じゃないものが二人の間にあることくらいは、もう察していたのだろう。
「……どうだった」
問い方が良かった。
何の話かは言わない。
でも、軽くもない。
ゼノは少しだけ考えてから答えた。
「きっと大丈夫です」
ロイドの眉がわずかに動く。
「そうか」
短い。
でも、その短さがちょうどよかった。
「それなら、今日はそれで十分だな」
ゼノは少しだけ救われる。
「はい」
ロイドは歌舞殿の方をもう一度だけ見た。
「今夜は、誰も余計なこと聞かせないようにしとく」
「助かります」
「お前も飲むか」
ゼノは少しだけ笑った。
「今日はやめときます」
「そうか」
ロイドは頷く。
「じゃあ帰れ。そういう日は、無理に喋らん方がいい」
言い方が、いかにもロイドだった。
優しすぎない。
でも、ちゃんと分かっている。
ゼノは小さく頭を下げ、その場を離れた。
温泉郷の空は、王都よりずっと素直だった。
綺麗だが、腹は立たない。
アオイはまだ会わない。
イグニスも、まだ会いに行ける顔ではない。
でも、今日、一つだけ確かなことがある。
死んだままではなかった。
どちらも。
それだけで、今は十分だと思うしかなかった。
――――
次回
第66話 会わないまま、前へ進む方法




