第64話 燃やすべき名は、もう決まっている
王都へ戻る道は、来た時よりずっと重かった。
荷が増えたからじゃない。
実際、布に包まれた帳簿二冊など、腕に抱えれば済む程度の重さしかない。
だが、あれは紙の重さじゃなかった。
八年前に消されたはずの女の人生。
名前を値札みたいに並べられ、それでも捨てきれずに隠し持っていた証拠。
それを今、ゼノは王都へ持ち帰っている。
馬車の中で、布包みはずっと膝の上にあった。
床に置く気になれなかった。
荷台へ回すのも嫌だった。
あれは物じゃない。
少なくとも今のゼノには、そうとしか思えなかった。
《視聴者数:823,745》
〈コメント:王都帰還きた〉
〈コメント:ここから処刑回だろ〉
〈コメント:頼む、全部燃やしてくれ〉
《フィクサル:燃やす相手は間違えるなよ》
《エモーシア:女の涙を燃料にした家なんて、残す価値ないわ》
《リュケオン:派手に頼むぜ》
《エルディア:帳簿証拠、極めて有効》
向かいに座るラウスは、いつもの顔をしていた。
平坦で、静かで、何も抱えていないように見える顔。
だが、それが嘘だと今のゼノは知っている。
この男も、今回ばかりはかなり怒っている。
怒っている人間ほど、王都では無表情になる。
そういう場所だ。
「眠れましたか」
ラウスが聞いた。
「途中で二回起きました」
「上等です」
「そっちは」
「一回です」
「何でです」
「やることが決まっている時は眠れます」
ゼノは、それを聞いて少しだけ笑った。
「怖いですね」
「今さらですか」
怖い。
だが、今はそのくらいでちょうどいい。
アオイは、会わないと言った。
イグニスの名前でまだ傷むとも言った。
それでも帳簿を渡した。
条件は一つ。
先に黒幕を潰せ。
その条件は、正しい。
グレイスを切っても、カイルを落としても、帳面の上で人を値踏みする手が生きているなら、また次が出る。
別の劇場で。
別の宴で。
別の女の歌で。
それを終わらせるために、今から王都へ戻る。
ゼノは布包みの上に手を置いた。
「ラウス」
「はい」
「王子、怒りますよね」
「ええ」
「かなり」
「かなりです」
それだけで少し安心した。
怒るべき場所で怒る人間が、今の王都に一人はいる。
それだけで、王都はまだ全部腐りきっていない。
――
王都へ着いたのは、日が沈みきる少し前だった。
相変わらず綺麗な街だった。
石畳は磨かれ、店先の灯りは整い、行き交う人間はそれぞれの“ちゃんとした顔”を貼りつけている。
胸が悪くなるほど変わらない。
ソフィアが消えようが。
リサが体を差し出させられようが。
アオイが南で一度地べたまで落ちようが。
エレオノーラが何人差し出していようが。
王都は、何も知らない顔をして光る。
「やっぱり嫌いだな」
ゼノが呟く。
「ええ」
ラウスが短く答える。
「私も今日は特に」
その“今日は特に”が妙に良かった。
城へは裏から入った。
王子が使う私的な導線だ。
目立たない。
だから余計に早い。
この件は、もう正面の手続きに乗せる段階じゃない。
帳簿を見せる相手はまず一人でいい。
レオニスだ。
通されたのは、前と同じ私的な執務室だった。
飾り気がない。
静かだ。
なのに、ここだけは王都の綺麗さと少し質が違う。
部屋に入ると、レオニスはもう座っていた。
その顔を見た瞬間、ゼノは思う。
ああ、この人は本当に待っていたのだ、と。
「戻ったか」
「はい」
ラウスが答える。
王子の視線が、まずラウスへ。
それからゼノへ。
最後に、布包みへ落ちた。
「持ち帰ったな」
それだけで部屋の空気が少し変わる。
ゼノは黙って頷いた。
布包みを机の上へ置く。
音は小さい。
でも、その小さな音がやけに重かった。
レオニスはすぐには手を伸ばさなかった。
「本人からか」
ゼノが答える。
「はい」
「生きていたか」
「はい」
王子の目が、そこでほんのわずかに動いた。
本当にわずかだ。
けれど、その一瞬だけで十分だった。
驚いたのではない。
重さを飲み込んだ顔だった。
「名は」
ゼノは少しだけ息を吸う。
「今は、アオイです」
「そうか」
短い。
だが、その短さの中に余計な詮索を入れない配慮があった。
王子はそこから先を急がなかった。
そのことに、ゼノは少しだけ助けられる。
「説明しろ」
レオニスが言う。
ラウスが整理した言葉で入る。
ベルノアでの接触。
青い布の店。
アオイの証言。
エレオノーラ・ヴェルグランデという名。
グレイスとカイルが現場であり、上に設計者がいたこと。
そして、帳簿。
レオニスは一言も挟まなかった。
だが、語られるたびに部屋の温度が落ちていくのが分かる。
ラウスの説明が終わると、王子はようやく布を解いた。
中から二冊の帳簿が出る。
小さい。
薄い。
だが、妙に生々しい。
王子は一冊目を開いた。
名前。
符号。
夜会。
継続。
同席。
個別相談。
再調整。
地方移送。
目が進むにつれて、その表情険しくなっていく。
次の一冊。
処理記録。
発声障害進行。
継続不可。
地方移送。
処理済。
王子の指が、そこで一度だけ止まった。
「……処理済」
低い声だった。
静かだ。
静かなのに、その二文字だけで部屋の空気が凍る。
「人間に使う言葉じゃありません」
ラウスが言う。
「知っている」
レオニスは即答した。
「だから、なおさら許せぬ」
次の頁。
ソフィア。
高価値。再説得要。次回候補。
王子の目が細くなる。
今度ははっきりと。
「高価値」
笑った。
ほんの少しだけ。
だが、それは楽しさとは正反対の笑いだった。
「なるほど」
紙を閉じる。
音が少しだけ強い。
「歌でもない」
レオニスが言う。
「女でもない。価値か」
ゼノは、その声の冷たさに少しだけ背筋を伸ばした。
今、王子は本気で怒っている。
「誰かに見せたか」
王子が問う。
「まだレオニス様だけです」
ラウスが答える。
「アオイ殿の条件もあります。先に黒幕を潰すこと」
レオニスは、そこで初めてゼノを見た。
「妥当だな」
「はい」
「お前はどう思う」
ゼノは少しも迷わなかった。
「先にエレオノーラです」
「理由は」
「グレイスとカイルを切っても、あの女が生きていればまた別の顔で始まる」
ゼノは言う。
「今回だって、そうでした。グレイスは近づく。カイルは整える。でも決めていたのは別です」
レオニスが頷く。
「同意だ」
その一言で、方向が決まる。
《視聴者数:831,082》
〈コメント:王子キレてる〉
〈コメント:処理済で空気変わったな〉
〈コメント:ここから制裁だ〉
《フィクサル:ようやく火種が見えた》
《エモーシア:いいわ。女の敵は女でもある。だからこそ潰す価値がある》
《リュケオン:さあどう焼く》
《エルディア:証拠十分。対象拡張可能》
レオニスは帳簿を机の上へ置いたまま、侍従長を呼んだ。
すぐに入ってくる。
無駄のない足音。
王子の顔と机の帳簿を見て、何も聞かずに空気だけ読む。
「見ろ」
短い命令だった。
侍従長は帳簿を開く。
頁を追う。
そして、数秒後には顔の色を変えずに言った。
「十分です」
「どこまで行ける」
「家ごと」
その返答があまりにも早くて、ゼノは一瞬だけ言葉を失いかけた。
家ごと。
つまり、エレオノーラ個人では終わらせないということだ。
レオニスは当然の顔で続ける。
「説明しろ」
侍従長は静かに整理を始めた。
「まず、伯爵夫人エレオノーラ・ヴェルグランデの私邸夜会を違法な斡旋・強要・秘密裏の金品授受・虚偽支援契約の疑いで押さえます」
淡々としている。
だが、内容は鋭い。
「次に、劇場側と私邸側を繋いでいた資金の流れを商会経由で追う。後援者名目の寄付、出演支援、医師・宿屋・輸送手配への不自然な支払い。ここは帳簿と照合が利きます」
頁をめくる。
「さらに、処理記録にある“地方移送”と“処理済”の対象を洗います。偽名、移送先、療養名目の宿、引き取り先。これも王都の中だけでは終わりません」
ゼノは、そこでようやくこの帳簿がどれだけ重いかを改めて理解した。
ただの暴露じゃない。
王都の中の点と点を、全部線に変える証拠だ。
「グレイスとカイルは」
レオニスが聞く。
侍従長は少しも躊躇わなかった。
「補助線として使えます」
ぞくりとするほど冷たい言い方だった。
「二人とも、すでに表向きの立場を失いかけています。そこへ帳簿をぶつければ、自分を守るために上を切る可能性が高い」
なるほど、とゼノは思う。
グレイスは現場だ。
カイルは仕上げ役だ。
どちらも、自分だけは綺麗な顔で残りたい人間だ。
なら、上が崩れる時に必ず自分を守る方へ動く。
そこを逆に使う。
「ですが」
侍従長が続ける。
「それだけでは足りません。エレオノーラ本人は、おそらく“私は保護していただけ”と切ってくる。夜会は文化支援。歌い手の同席は本人の自由。契約は劇場側。そういう顔をする」
「するだろうな」
レオニスが言う。
「そういう女だ」
「ですので、必要なのは三つです」
指を置く。
「帳簿。金。証言」
「証言は誰から取る」
王子が問う。
侍従長は即答した。
「まずグレイスです。次にセリナ。さらに劇場側の書記、夜会の給仕、輸送に関わった商会の手代」
少し間を置いて続ける。
「カイルは最後で十分です。あれは潰れかけてからの方が喋る」
ゼノは思わず小さく笑ってしまった。
「分かります」
王子がこちらを見る。
「何だ」
「カイル、自分が芸術家の顔で残れると思ってるので」
ゼノが言う。
「足場が全部消えたあとが一番惨めで、一番口が軽くなるタイプです」
レオニスの口元が、ほんの少しだけ上がる。
「嫌な見方をするな」
「褒めてます?」
「半分」
だが、そのやり取りのあとで王子の顔はすぐにまた険しくなった。
「今夜で終わらせる」
その一言は、静かなのに異様に重かった。
「猶予をやる理由がない。帳簿がある以上、向こうが先に気づけば焼く」
だから今夜だ。
「ラウス」
「はい」
「グレイスを押さえろ。今度は“相談役”の顔ではなく、被告の顔にしてやれ」
「承知しました」
「カイルは」
王子の視線がゼノへ向く。
「お前が見ろ」
「俺ですか」
「一番嫌な顔をさせられるだろう」
否定できなかった。
「分かりました」
「侍従長」
「は」
「ヴェルグランデ家を根から洗え。夜会、金、招待客、私兵、使用人、全部だ」
「承知しました」
「伯爵夫人本人には」
王子はそこで、一瞬だけ言葉を切った。
だが、その間の方が怖い。
「逃げる時間を与えるな」
部屋の温度が、また一段落ちた。
《視聴者数:839,411》
〈コメント:家ごといくの強すぎる〉
〈コメント:補助線として使う、痺れる〉
〈コメント:逃げる時間を与えるな、最高〉
《リュケオン:いいねえ、王子》
《エモーシア:優しい顔のまま喉を裂くタイプね》
《フィクサル:それでいい。こういう時は速さが正義だ》
《エルディア:同時制圧推奨》
王都の夜は、その晩ばかりは少し違う顔をしていた。
表通りは相変わらず華やかだ。
香油の匂い。
灯り。
笑い声。
馬車の音。
でもその裏で、見えないところの動きが妙に速い。
ラウスは人を割り振り、侍従長は文書を切り、レオニスは必要な名を押さえていく。
表立った逮捕状なんてまだ出ない。
だが、それより先に効くものが王都にはある。
扉が開かなくなる。
使いが戻ってこなくなる。
馬車が来なくなる。
招待状が失効する。
そうやって、立場のある人間は先に“死ぬ”。
ゼノが向かったのは、カイルが身を寄せている仮宿だった。
もう劇場の正式な控え室には入れない。
宴の待機室も消えた。
だから今は、王都の中流が使う上等でも下等でもない宿へ落ちている。
よく似合っていた。
「来ますかね」
宿の向かいでゼノが言う。
横にはラウスが手配してくれた城側の男が一人いる。
無駄口のない男だ。
「来ます」
短く答える。
「何で」
「そういう方は、こういう時ほど誰かに顔を見せたくなるので」
なるほど、と思った。
自分がまだ終わっていないと確認したいのだろう。
惨めだ。
しばらくして、本当にカイルは出てきた。
顔色は悪い。
だが、服だけは整えている。
髪も乱していない。
その必死さがもう、かなり痛かった。
ゼノは石壁から身を起こす。
「こんばんは」
カイルの足が止まる。
その顔を見た瞬間、ゼノは少しだけ満足した。
もう綺麗じゃない。
綺麗な顔のまま疲れているんじゃない。
根から青ざめて、仮面の裏側まで滲んでいる。
「……お前か」
「ええ」
「何の用だ」
「終わりを見に来ました」
カイルの目が、そこで鋭くなる。
だが鋭さに力がない。
「調子に乗るな」
「乗りますよ、今日は」
ゼノは言う。
「だって、あなた今、本当に何も残ってないでしょう」
綺麗に刺さった。
カイルの喉が動く。
「舞台は飛んだ」
ゼノは一つずつ置く。
「宴も消えた。劇場も切った。グレイスももう自分どころじゃない」
少し笑う。
「それで、今からどこへ行くつもりです?」
カイルは答えない。
答えられないのだ。
「伯爵夫人のところですか」
ゼノがさらに言うと、カイルの顔が本当に変わった。
色が引く。
目が揺れる。
その反応だけで、全部十分だった。
「……何を知ってる」
「かなり」
「誰から」
「いろいろと」
カイルはそこで、一瞬だけ周囲を見た。
逃げ道を探したのだろう。
遅い。
「あなた、さっきまでまだ思ってたでしょう」
ゼノが言う。
「エレオノーラのところへ行けば、どこか一つは残るかもしれないって」
また刺さる。
カイルは、その図星に耐えきれず、少しだけ声を荒げた。
「私は関係ない!」
「関係ない?」
ゼノは笑った。
今度は隠さずに。
「歌い手を宴向けに作っておいて?」
「私は整えていただけだ!」
「それ、今聞くと本当に最低ですね」
カイルは息を荒くする。
もう余裕はない。
「王都では必要なことだった」
吐き捨てるみたいに言う。
「通る形にしなければ残れない。私はそれを教えていた」
「その先に何があるか知りながら?」
カイルが黙る。
「リサがどこへ呼ばれてたか知ってたでしょう」
「……」
「ソフィアが何を拒んだかも」
「……」
「知ってて、整えてた」
ゼノの声も、そこで低くなる。
「あなた、自分は手を汚してない顔してますけどね。泥の中へ押し込む前に、息がしやすい形へ整えてただけですよ」
カイルの顔はもう、惨めなほど歪んでいた。
怒りではない。
恐怖だ。
自分がどこまで加害者か、言葉にされてしまった人間の顔だ。
「伯爵夫人はもう終わりです」
ゼノが言う。
そこで、カイルは本当に膝から力が抜けそうな顔をした。
「……終わるわけがない」
「終わりますよ」
「証拠はない」
ゼノは静かに答えた。
「あります」
カイルの目が止まる。
「帳簿があります」
その一言で、完全に終わった。
ゼノは見た。
人間が本当に立ち上がれなくなる瞬間の顔を。
目が死ぬ。
喉が閉じる。
足に力がなくなる。
それでも倒れたくないから、見苦しく立ったまま固まる。
「……誰が」
カイルの声はもう、ほとんど掠れていた。
「あなたが一番、聞きたくない人です」
答えた瞬間、カイルは壁に手をついた。
倒れないためだ。
それだけでもう十分だった。
「ソフィアは死んでない」
ゼノは、はっきり言った。
今度こそ、カイルの顔から本当に色が消えた。
「……は」
「生きてる」
ゼノは続ける。
「そして帳簿を持ってた」
カイルは何か言おうとした。
だが言葉にならない。
多分、今この男の頭の中では八年前が全部戻っている。
取りこぼした夜。
綺麗な顔で距離を取った自分。
そして、その相手が生きていて、帳簿まで持っていた。
こんなに気持ちのいい崩れ方も珍しい。
《視聴者数:841,238》
〈コメント:うわああああ気持ちいい〉
〈コメント:帳簿あります、強すぎる〉
〈コメント:カイル完全に終わった〉
《リュケオン:最高だなその顔》
《エモーシア:自分だけ綺麗に残れると思ってた男の末路ね》
《フィクサル:まだ終わりではない。次だ》
次はグレイスだった。
そちらはもっと早かった。
城側の使いが二人、そしてラウス本人がいる部屋に通された時点で、もう終わりを悟っていたのだろう。
最初から顔が崩れている。
「何の権限で」
と一度は言った。
だが、その声に前みたいな滑らかさはない。
ラウスは机の上に帳簿を置いた。
グレイスの目がそこへ落ちる。
そして頁が開く。
夜会。
同席。
個別相談。
処理済。
高価値。
グレイスは、二頁目で口を閉じた。
「見覚えがありますか」
ラウスが聞く。
「……知らない」
「そうですか」
ラウスの声はあまりにも平坦だった。
「では、こちらが知っていることを申し上げます」
そこから先は、ある意味で暴力だった。
リサの証言。
セリナの夜間同行手当。
小部屋の使用記録。
後援者への案内状。
商会経由の金。
そして帳簿。
一つずつ、逃げ道を塞いでいく。
丁寧な言葉で。
綺麗な声で。
グレイスが今まで歌い手たちへ使ってきたのと同じように。
皮肉だった。
いや、皮肉で済ませるには気持ちよすぎた。
「あなたは歌い手を保護していたのではなく、選別と斡旋をしていた」
ラウスが言う。
「そうですね」
「違う」
「違いません」
「私は、必要な流れを整えていただけだ」
「それを、一般には斡旋と呼びます」
グレイスの喉が動く。
汗が浮く。
目が泳ぐ。
「リサは自分で応じた」
「そう思わされていただけです」
「ソフィアは気性が荒かった」
「だから消してもよかった、と」
グレイスが黙る。
「あなたが一番気持ち悪いのは」
ラウスが言った。
「自分が正しい仕事人の顔で喋るところです」
ゼノはそれを聞いて、思わず少しだけ息を吐いた。
ラウスもかなり怒っている。
それが分かって妙に良かった。
結局、グレイスは途中から何も言えなくなった。
帳簿の頁を見て、顔を真っ青にして、最後には椅子から立てなくなった。
「……伯爵夫人に会わせろ」
それが最後の悪あがきだった。
ラウスは即座に切る。
「その必要はありません」
「私はただ命じられて」
「だから何です」
そこで初めて、ラウスの声に明確な冷たさが乗った。
「歌を食わせ、身体を差し出させ、必要なくなれば、処理済と書いたあとで、命じられただけだと?」
グレイスの顔が崩れる。
「違う……私は……」
「遅いですね」
ラウスは言った。
「あなたも」
それだけで充分だった。
グレイスは俯いたまま、もう顔を上げられなかった。
――
その頃には、ヴェルグランデ家の邸でも動きが始まっていた。
いや、始まっていたどころではない。
ほぼ終わりかけていた。
夜会の主だった入口は封じられ、使用人は別室へ分けられ、書庫と私室は押さえられている。
帳簿と照合される物品、招待状、支払い記録も次々と出ていた。
エレオノーラは、自室ではなく応接間にいた。
さすがだった。
逃げようとはしなかったのだろう。
逃げても無駄だと分かっている人間の顔をしていた。
だからといって崩れてもいない。
背筋は伸び、服に皺もない。
未亡人の伯爵夫人として、完璧な顔だった。
その顔のまま、人を差し出してきたのだ。
レオニスは、その女の前に立った。
ゼノとラウスは少し後ろ。
侍従長は壁際。
使用人たちは外へ出されている。
静かだ。
その静けさが逆に怖い。
「遅いお越しですこと、殿下」
エレオノーラが言った。
声まで整っている。
ひどく美しい声だ。
だから余計に気持ち悪い。
「忙しかったもので」
レオニスが答える。
「わたくしもですわ。家を守るのは簡単ではありませんもの」
ゼノは、その一言だけで吐き気がした。
家を守る。
その言葉で何人潰した。
レオニスは机の上に帳簿を置く。
「見覚えは」
エレオノーラの視線が落ちる。
二冊。
頁を開く。
数行読む。
そして、ほんのわずかにだけ、目が止まった。
それだけだ。
だが、それで十分だった。
「存じませんわ」
「だろうな」
レオニスが言う。
「そう言うだろうと思っていた」
エレオノーラは笑みを崩さない。
「わたくしは芸術を支援していただけですのに」
「支援」
「才能ある娘たちに場を与え、縁を与え、未来を」
「身体もか」
その一言で、空気が変わった。
エレオノーラは、今度こそほんの少しだけ目を細めた。
「殿下ともあろう方が、随分と下卑た仰りよう」
「下卑ているのはそちらだ」
レオニスの声は低かった。
静かで、揺れない。
「歌い手を囲い、夜会へ流し、歌を利用し、身体ごと家の延命へ使った」
「誤解ですわ」
「誤解で処理済とは書かん」
エレオノーラの指先が、そこで初めてわずかに動く。
だが、崩れない。
たいした女だと、ゼノは少しだけ思う。
たいした化け物だ。
「わたくしは」
エレオノーラが言う。
「家を守っただけです」
その開き直りが、妙に美しかった。
美しいから腹が立つ。
「夫を失った女が、綺麗事だけで家を守れると?」
口元に少しだけ笑みを乗せる。
「男は家のために剣を取れば誉れ。女は家のために汚れれば化け物。なら、化け物で結構」
ゼノは、そこでようやく理解した。
この女は本気だ。
言い訳ではない。
本当にそう思っている。
だから強い。
だから最悪だ。
「一人の娘の人生と、一つの家の存続」
エレオノーラは静かに言った。
「秤にかけるまでもありませんでしょう?」
その瞬間、部屋の温度が完全に変わった。
レオニスの顔から、最後の温度が消える。
「そうか」
短い。
だが、そこから先は処刑宣告と変わらなかった。
「なら、その家ごと落ちろ」
エレオノーラの瞳が、初めてはっきり揺れた。
「……何ですって」
「歌が好きだと言ったな」
レオニスが一歩だけ前へ出て、続ける。
「なら、その好きな歌で何人絞めたかも知っているだろう」
エレオノーラは口を開く。
だが、その前に王子が切る。
「家を守った?」
冷たい声だった。
「違う。娘の人生を薪にして、延命の火を焚いていただけだ」
ゼノは、その言葉に胸の奥がすっとするのを感じた。
そうだ。
それだ。
その通りだ。
「ヴェルグランデ家の夜会権、後援権、資金流路、私兵使用、招待筋、すべて凍結する」
レオニスが言う。
「親族筋へも流す。お前が何で家を支えたか、王都中が知る形でな」
エレオノーラの顔色が変わる。
家ごと。
名ごと。
終わる。
その事実が、ようやく届いたのだろう。
「お待ちください」
初めて、声に揺れが入った。
「それでは息子まで」
「当然だ」
レオニスは一切迷わない。
「お前が若い女の人生を使って買った未来なら、消えて当然だ」
エレオノーラの指先が、きつく組まれる。
それでもまだ崩れない。
だが、崩れないまま痛んでいく顔は、逆に見ものだった。
「救いはないのですか」
女が問う。
レオニスは一瞬も考えなかった。
「お前が聞くな」
それで終わった。
エレオノーラの肩から、何かが抜けたのが分かった。
完全には崩れない。
でも、もう立ち直れない折れ方だ。
《視聴者数:848,673》
〈コメント:うわあああああ最高〉
〈コメント:家ごと落ちろ、強すぎる〉
〈コメント:薪にして延命の火を焚いた、刺さる〉
《エモーシア:女の敵が女だからこそ、ここまで効くのよ》
《フィクサル:よく言った》
《リュケオン:スカッとしたな》
《エルディア:根絶フェーズ完了見込み高》
その夜のうちに、ヴェルグランデ家は本当に終わった。
夜会の招待客には中止の通知ではなく、照会が飛んだ。
商会には支払い停止と監査。
劇場には内部調査の拡張。
関わった医師や宿にも、偽名の追跡が入る。
王都の上流は賢い。
だからこそ、一度腐れが見えた家から離れるのも早い。
翌朝にはもう、エレオノーラを庇う声は表では消えていた。
あれほど文化の庇護者だの、賢い夫人だの言っていた人間たちが、今度は最初から距離を置いていた顔をしている。
笑えるくらい王都だった。
「終わりましたね」
ゼノが城の回廊で言う。
ラウスが隣を歩く。
「ええ。少なくとも、表の根は焼けました」
「表の、ですか」
「裏はまだ残るでしょう」
ラウスが言う。
「ですが、しばらくは同じ形で回りません」
それで充分だった。
全部の悪を消せるとは思っていない。
でも、同じ構造で次のリサが出る流れは、一度断てた。
「グレイスは」
「もう立てません」
「カイルは」
「宴も舞台も消えました。王都では名前が使えないでしょう」
ゼノはそこで小さく息を吐く。
スッとした。
かなり。
あの二人を立ち上がれないほど潰すという意味なら、十分すぎる。
グレイスは顔を失った。
カイルは名を失った。
エレオノーラは家そのものを失った。
そして、その全部の上にあった構造が、一度王都の光に晒された。
それが大きい。
「王子は?」
ゼノが聞く。
「執務中です」
「珍しく元気そうでしたね」
「ええ」
ラウスが少しだけ口元を動かす。
「かなり機嫌がいいかと」
「それは良かった」
少しの沈黙のあと、ラウスが言う。
「で、どうしますか」
その問いに、ゼノは足を止めなかった。
だが、胸の奥は少しだけ重くなる。
どうするか。
帳簿は押さえた。
黒幕は潰した。
グレイスとカイルも落とした。
ここまでは条件だ。
アオイが帳簿を渡す条件。
そして、多分ゼノ自身が進むために必要だった条件。
だが、その先がある。
イグニスだ。
何を話すのか。
どこまで話すのか。
アオイの今の名前を伏せるとして、何から言うのか。
ゼノは、ゆっくり息を吐いた。
「……まだ、全部は話せないです」
ラウスが頷く。
「ええ」
「でも、何も話さないのも違う」
「同意します」
王都の空は今日も綺麗だった。
腹が立つほど。
でも昨日までと違うのは、ちゃんと一つ潰したあとだということだ。
ソフィアはアオイとして生きている。
まだ歌っている。
まだイグニスの名前で傷む。
帳簿を隠し持っていた。
そして、その帳簿で王都の化け物を一体潰した。
そこまではもう、動かない事実だ。
「まずは」
ゼノが言う。
「イグニスに、王都でケリをつけたことを返します」
「アオイのことは」
「まだ名前は出しません」
「ええ」
「でも、生きていたことは……」
そこでゼノは少しだけ言葉を切った。
重い。
その一言が、あまりにも重い。
でも、隠したままにするのも違う。
「話します」
やっとそう言った。
「そこだけは、もう話さない方が気持ち悪い」
ラウスは短く頷いた。
「妥当です」
ゼノは歩きながら、心の中でだけ青い布を思い出した。
ベルノアの風。
看板のない店。
まだ死ねなかった歌。
勝手にしろと言いながら、帳簿を渡した女。
全部、まだ終わっていない。
でも、今日だけは少しだけスッとした。
根を焼いた。
少なくとも一度は、ちゃんと。
《視聴者数:853,201》
〈コメント:めちゃくちゃスッキリした〉
〈コメント:これぞ制裁回〉
〈コメント:家ごと落ちろ、名台詞すぎる〉
〈コメント:でも次はイグニス回だよな……重い〉
《フィクサル:よし。次は話す番だ》
《エモーシア:綺麗に終わらなくていいのよ。ちゃんと焼ければ》
《リュケオン:最高の潰し方だったぜ》
《エルディア:次話、感情負荷上昇見込み大》
王都の回廊を抜け、ゼノは一度だけ空を見上げた。
綺麗だった。
綺麗で、やっぱり気持ち悪かった。
でも今は、その綺麗さの下に一つ、大きな穴が空いている。
歌い手を薪にして生き延びていた家は、もう燃え落ちた。
グレイスも、カイルも、立ち上がれないところまで落ちた。
なら次は、残ったものの番だ。
温泉郷で、何も知らずに鍵盤を叩いている男へ。
どこまで話すか。
何から話すか。
その答えはまだ、綺麗には決まっていない。
でも、少なくとも今日だけは前よりましだ。
焼くべき名は、もう焼いた。
――――
次回
第65話 生きていたと知った日、鍵盤が一度死んだ




