第63話 家を延命する化け物
《視聴者数:817,641》
〈コメント:始まった〉
〈コメント:今日は絶対やばい回だ〉
〈コメント:帳簿の話くるぞ〉
〈コメント:神、今日は静かだな〉
《フィクサル:静かにしているだけだ。こういう回は、喋りすぎると軽くなる》
《エモーシア:嫌な女が出る匂いがするわね》
《リュケオン:嫌な女って言い方、好きだぜ》
《エルディア:黒幕の名が出る確率、高》
四日目の夕方、ベルノアは朝から風が荒れていた。
青い布がいつもより強く鳴っている。
看板のない店は変わらず静かだったが、その静けさの奥に、昨日までとは別の硬さがあるようにゼノには思えた。
「今日は、かなり深いところまで行きます」
ゼノが言う。
「ええ」
ラウスが答える。
「そして多分、戻れないところまで行く」
それは脅しではない。
確認だった。
ゼノは扉を叩いた。
中で少し間があって、アオイが開ける。
今日は最初から疲れている顔ではなかった。
その代わり、何かを決めた顔をしていた。
「……また来た」
「考えてきました」
「で?」
「まだ、会わせるのが正しいかは分かりません」
アオイの眉が、わずかに動く。
「珍しく正直」
「でも、ここで帰るのも違うと思ってます」
「それも正直ね」
少しの沈黙。
アオイは扉をさらに開いた。
「入って」
《視聴者数:829,284》
〈コメント:お、入れた〉
〈コメント:今日は最初から空気が違う〉
〈コメント:アオイ、もう覚悟決めてる顔だ〉
《エモーシア:傷を開く時の顔ね》
《フィクサル:そうだ。泣く顔ではない。覚悟の顔だ》
部屋は昨日より片づいていた。
裁ち台の布は畳まれ、糸巻きも箱へ戻されている。
散らかしておく余裕を、自分で潰したみたいな部屋だった。
「今日は何」
アオイが聞く。
ゼノは一度だけ深く息を吸った。
「あなたが、何を知って逃げたのかを聞きたいです」
アオイの目から、ふっと色が抜けた。
そこだ。
やはりそこが一番深い。
「店主からどこまで」
アオイが低く聞く。
「逃がしたこと。王都にいたら死んでたこと。知ってはいけないことを知ったこと」
「そこまでか」
アオイは窓の外を見る。
青い布の影が床で揺れている。
「……グレイスとカイルは、ただの腐った男じゃない」
やがて言った。
「そうでしょうね」
「もっと上がいた」
その一言で、部屋の温度がまた変わる。
ラウスは外だ。
今この話を聞いているのはゼノだけだ。
それでも背筋に冷たいものが走る。
「誰です」
アオイはすぐには答えなかった。
答えたくないのではない。
名を口にするだけで、相手がまた力を持つみたいな嫌さがあるのだろう。
「エレオノーラ・ヴェルグランデ」
やがて、ぽつりと落とす。
その名は、やけに静かだった。
気品がある。
だから余計に冷たい。
《リュケオン:うわ、いい名前してやがる》
《エルディア:上流階級女性名として整合性高》
《エモーシア:嫌ねえ。上品そうで、中身が腐ってる女の名前だわ》
〈コメント:名前からもう強い〉
〈コメント:絶対やばいやつじゃん〉
「伯爵夫人ですか」
「未亡人」
アオイが言う。
「亡くなった伯爵の妻。今は、家を守った賢い夫人って顔で生きてる」
ゼノは黙って聞く。
「表では芸術保護の女主人だった」
アオイは続ける。
「若い歌い手、楽師、舞姫。才能ある子を支援して、夜会へ呼んで、王都の有力者に聞かせる。そういう綺麗な顔」
「本当は」
アオイの口元が、少しだけ歪む。
「歌い手を、家の延命に使ってた」
その言い方が、妙に腑に落ちた。
快楽のためだけなら、もっと単純だ。
でも王都はそうじゃない。
金と、口利きと、弱みと、忠誠。
そういうものが夜の裏で積み上がる。
「夫が死んで、家が傾いた」
アオイが言う。
「息子はまだ若い。親族は女の采配なんか認めたくない。軍とも商会とも太い縁はない。このままだと、“高貴だけどもう必要ない家”になる」
少し笑う。乾いた笑いだった。
「だから、芸術を使った」
歌い手を囲う。
夜会を開く。
男たちを招く。
慰める。酔わせる。特別だと思わせる。
そして、その代わりに金と便宜と秘密を積む。
家の延命。
その燃料として、若い才能と女の人生を使う。
理解できる。
でも、許せない。
《視聴者数:846,990》
〈コメント:うわあああ最悪〉
〈コメント:快楽じゃなく政治なのがえぐい〉
〈コメント:家を延命する燃料って表現きつい〉
《フィクサル:快楽の悪は浅い。延命の悪は深い》
《エモーシア:しかも自分を正しいと思ってやるのよ、こういう女は》
「グレイスは現場」
アオイが言う。
「劇場から女を選んで、相談役の顔で近づいて、断る子を干し、従う子を上へ流す」
「カイルは」
アオイの目が少しだけ濁る。
「仕上げ役」
低く答える。
「宴向けに整える。才能を削る。自分を消させる。本人が“これでいいんだ”と思い込むように、優しい顔で自己否定を植え付ける」
リサだ、とゼノは思った。
今も王都で繰り返されていたこと、そのままだ。
「ソフィア……あなたは」
ゼノが聞く。
「断った」
アオイは即答した。
「断ったし、知った」
そこから少しずつ、話はさらに深くなった。
ある夜、ソフィアはエレオノーラの私邸の一角で、帳簿を見てしまったのだという。
最初はただの出演予定表に見えた。
だが違った。
歌い手の名の横に、夜会の名。
同席あり、個別相談、継続可、再調整要、地方移送候補。
冷たい符号が並んでいた。
リサのような若い歌い手には、声質調整中。
従順。継続可。
別の女には、情緒不安定。地方移送。
さらに別冊には、“処理済”とだけ書かれた名もあった。
ゼノは息を浅くする。
処理済。
人間に付ける言葉じゃない。
「それ、写したんですか」
ゼノが聞く。
アオイは少しだけ笑った。
笑いではない。昔の自分を嘲る顔だ。
「全部は無理」
言う。
「でも、覚えた。あと、少しだけ写した」
見た名前と、符号と、消えた女たちの扱いを、断片的に。
「自分の名前もあった」
アオイは静かに言った。
「高価値。次回候補。再説得要」
ゼノの喉が詰まる。
人としてではない。
商品として棚に並んだ自分の名。
それを見た時、ソフィアは自分が次だと理解したのだろう。
《エルディア:帳簿記録、存在確認》
《フィクサル:高価値、か。胸糞が悪い》
《リュケオン:人の名前の横に“再説得要”って、よくそこまで腐れたな》
〈コメント:高価値で鳥肌立った〉
〈コメント:処理済がほんと無理〉
〈コメント:これは命狙われるわ〉
「だから逃げた」
ゼノが言う。
「逃げたんじゃない」
アオイが返す。
「逃がされた」
酒場の店主。
マリア。
荷を流した女。
御者。
王都の底で、まだ人間だった側が少しずつ手を貸して、ようやく外へ出した。
「でも、向こうはどこまで見られたか分からない」
アオイは言う。
「だから消したかった。私が、帳簿を全部持ち出したかもしれない。誰かに渡したかもしれない。そう思ってた」
「実際は」
アオイはそこで、立ち上がった。
裁ち台の下へ屈みこみ、板の裏に指をかける。
ぎ、と小さな音がして、薄い隠し箱が外れた。
ゼノの呼吸が一瞬止まる。
そこから出てきたのは、布に包まれた薄い冊子だった。
焼けも少なく、だが古い。
八年という時間の重さだけが、紙の端に残っている。
「……まさか」
ゼノが呟く。
「全部じゃない」
アオイが言う。
「でも、本物」
布を解く。
中には小さな帳簿が二冊。
一冊は夜会の割り当て。
もう一冊は処理記録。
ゼノは手を伸ばしかけて、少し止めた。
「見てもいいですか」
「今さら」
《視聴者数:868,503》
〈コメント:出たあああああ〉
〈コメント:うわ本当に持ってた〉
〈コメント:ここ熱すぎる〉
《エモーシア:捨てられなかったのね》
《フィクサル:当然だ。捨てたら、全部なかったことになる》
《リュケオン:物証の重さ、いいな》
紙を開いた瞬間、嫌な冷たさが手に移る気がした。
名前。符号。夜会。継続。再教育。地方移送。
処理済。
高価値。
全部、人の人生の形じゃない。
物の流れだ。
そして、端の方にあった。
ソフィア。
高価値。再説得要。次回候補。
リサではない。
だが、今王都で見た構造と、まったく同じ匂いがした。
「これを、今まで」
ゼノが低く言う。
「持ってた」
アオイが答える。
「捨てたら、本当に何もなかったことにされる気がしたから」
それは執着だ。
でも、正しい執着でもある。
この帳簿がなければ、全部は“そういう噂もあった”で終わる。
「渡してくれるんですか」
ゼノが聞くと、アオイはしばらく黙った。
長い沈黙。
青い布が風に鳴る音だけがある。
「条件がある」
アオイが言った。
「何です」
「これを持って王都へ戻るなら、あの人に全部ぶつける前に、先に黒幕を潰して」
ゼノは顔を上げる。
「イグニスじゃなく」
「先にエレオノーラ」
アオイははっきり言う。
「グレイスが落ちても、カイルが潰れても、あの女が生きてるならまた次が出る。次のグレイス、次のカイル、次のリサが出るだけ」
その通りだった。
現場を切っても、設計図が生きていれば構造は残る。
家を守るために人を食う女がいる限り、夜会は別の顔で続く。
「だから、先に元を焼いて」
アオイは低く言う。
「そうじゃないなら、これは渡せない」
ゼノは帳簿を見た。
その紙の重さが、手のひらだけじゃなく胸にまで乗ってくる。
帰ればイグニスがいる。
何も知らない顔で弾いている。
王都で何が起きていたか、どこまで腐っていたか、ソフィアがどこまで落ちたか、何も知らずに。
そこへこの帳簿を持って帰る。
持って帰れば、全部が動く。
でも順番を間違えたら、また誰かが潰れる。
リサかもしれない。
アオイかもしれない。
イグニスかもしれない。
ゼノはそこでようやく、自分が今までどこかで“会わせれば何か変わる”と甘く思っていたことを、はっきりと嫌った。
「……分かりました」
やっと言う。
「本当に?」
「はい。先に黒幕を落とします」
アオイは少しだけ目を細めた。
まだ完全には信じていない。
でも、それでいい。
《視聴者数:889,112》
〈コメント:ここで約束するの熱い〉
〈コメント:会わせる前に元を焼け、正論すぎる〉
〈コメント:次のグレイス、次のカイル、次のリサ……えぐい〉
《フィクサル:ようやく順番を覚えたか》
《エモーシア:遅いけど、悪くない》
《リュケオン:元を焼いてからだよな、そりゃ》
「もう一つ」
アオイが言う。
「何です」
「私の今の名前は、必要な時まで出さないで」
「アオイも?」
「ええ」
アオイは頷く。
「ソフィアで死んだのは王都だけで十分」
その言葉を、ゼノは正面から受け取った。
帳簿を布に戻す。
それを両手で受け取った瞬間、ずしりとした重みが来た。
紙の重さじゃない。
八年前から腐らず残っていた証拠の重さだ。
「王都に戻ります」
ゼノが言う。
「ええ」
「でも、すぐにはイグニスへ返しません」
アオイの目が少しだけ揺れる。
「そう」
「先に黒幕を潰す。そこまでやってから考えます」
アオイはそこで、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
安心ではない。
でも、諦めとも違う。
「……勝手にしなよ」
「します」
「最悪」
「よく言われます」
今度の“最悪”は、少しだけ柔らかかった。
店を出ると、ラウスが壁際から身体を起こした。
ゼノの手の布包みを見て、目が細くなる。
「取れましたか」
「本物です」
ラウスはすぐに何も言わなかった。
ただ、その布の重さを見ていた。
「中身は」
「夜会の割り当て帳簿と、処理記録」
ゼノが答える。
「黒幕はエレオノーラ・ヴェルグランデ。未亡人の伯爵夫人」
ラウスの目の温度が、一気に下がる。
「……そこまで来ましたか」
「はい。グレイスとカイルは駒です」
ゼノは低く言う。
「こいつを潰さないと、また次が出る」
ラウスは短く頷いた。
「戻りましょう」
「王都に」
「ええ。今夜のうちに出ます」
《エルディア:行動方針、確定》
《フィクサル:遅いが、刃は届く》
《リュケオン:王都、燃えそうだな》
〈コメント:ここから帰還編か〉
〈コメント:黒幕戦きた〉
〈コメント:絶対面白くなるやつ〉
ベルノアの風が強く吹き、青い布が大きく鳴った。
その音を背中で聞きながら、ゼノは思う。
アオイはまだ会わない。
イグニスの名でまだ傷む。
でも、それとは別に、ようやく切るべき喉笛が見えた。
黒幕を潰さなければ、物語はまた同じ場所へ戻る。
次のリサが出て、次のソフィアが逃げて、次のイグニスが壊れる。
それだけは、もう嫌だった。
馬車に乗る前、ゼノは一度だけ振り返った。
看板のない店。
青い布。
その向こうで、まだ死ねなかった歌い手が生きている。
「……必ず落とします」
小さく呟く。
誰に聞かせるでもない。
それでも、言わずにはいられなかった。
《視聴者数:913,744》
〈コメント:うわ、締め強い〉
〈コメント:必ず落とします、最高〉
〈コメント:青い布が背中で鳴るの良すぎる〉
《エモーシア:ようやく誰を殺すべきか分かったのね》
《フィクサル:殺すのは人ではない。構造だ》
《リュケオン:でもその構造、かなり血の匂いするぞ》
《エルディア:次話、王都帰還。高衝突確率》
王都へ戻る道は、来た時よりずっと重い。
だが、今度は向かう先がはっきりしていた。
グレイスでもない。
カイルでもない。
その上で、人を家の延命の燃料にしてきた化け物の元へ、ようやく手が届く。
――――
次回
第64話 燃やすべき名は、もう決まっている




