第62話 青い布の町で、まだ死ねなかった歌
《視聴者数:802,367》
〈コメント:来た〉
〈コメント:ベルノア編きたあああ〉
〈コメント:ソフィア生きててくれ〉
〈コメント:今回は絶対重いやつ〉
王都を出る朝は、腹が立つほど静かだった。
人が一人消えようが、歌い手が何人潰れようが、城壁の外へ伸びる街道はいつも通りの顔をしている。荷馬車の車輪は同じ音で石を鳴らし、門番は眠そうに槍を持ち、商人は朝の値切りを始める。
何も変わらない。
その変わらなさが、ゼノは嫌いだった。
向かいに座るラウスは、窓の外を見ない。最初から真っ直ぐ前だけを見ている。
「嫌な顔してますね」
ゼノが言うと、ラウスはわずかに目を向けた。
「王都が、ですか」
「俺も含めてです」
「そうですね」
妙に素直な返しだった。
こういう時、この男は慰めを入れない。それが助かる。
《フィクサル:良い顔だ。これから何かを成し遂げる顔をしている》
《エモーシア:嫌悪は鈍らない方がいいわ》
《リュケオン:でも腹立つほど静かな朝って、掴みとしていいな》
〈コメント:神がメタい〉
〈コメント:ラウスほんとこういう時に優しくないのが良い〉
ベルノアへ向かう道は、王都から離れるほど装飾を失っていった。整えられた石畳は途中で途切れ、轍だらけの土道に変わる。刈り込まれた並木はただの木になり、宿場町の家々からも“見せるための顔”が消えていく。
王都は、全部が人に見せるための形をしていた。
遠ざかるほど、それがよく分かる。
「尾けられてる感じは」
ゼノが聞く。
ラウスは目を閉じたまま答えた。
「王都を抜けるまではありました。今は切れています」
「完全に?」
「相手がそんなに親切だとは思いません」
だろうな、とゼノは思った。
グレイスとカイルの真相に辿り着いた時に、小劇場連合の窓に石が飛んできた。紙には“それ以上探るな”とだけ書かれていた。雑な脅しだった。雑なくせに、そこへ触られるのを本気で嫌がる何かがあると分かる程度には、生々しかった。
ソフィアは八年前に逃がされた。
酒場の店主がそう言った。
逃がさなければ死んでいたとも。
その続きが、ベルノアにある。
ゼノは馬車の揺れに身を預けながら、あの店主の低い声を思い出していた。
――逃げたら負けだって顔してた。馬鹿だろ。でも、まだ歌い手だったんだよ。
その言葉がずっと、喉の奥に引っかかっている。
《視聴者数:816,902》
〈コメント:店主の台詞が重い〉
〈コメント:逃げたら負けだって顔してた、刺さる〉
〈コメント:もうこの時点でしんどい〉
《エルディア:追跡の反応速度が早すぎる。まだ終わっていない構造がある》
《フィクサル:だから行く価値がある》
――
ベルノアへ着いたのは三日目の昼前だった。
門をくぐった瞬間、ゼノは風の匂いが違うと思った。
王都みたいに香油も、水打ちの石の匂いもしない。土と、魚と、古い木と、乾いた布の匂いだ。生活がそのまま風に混じっている。
「少し、息がしやすいですね」
ゼノが言う。
「今のところは」
ラウスが答えた。
宿を取ったのは町の中央広場から少し外れた、小さな二階建ての宿だった。看板に描かれた鳥は擦り切れ、何の鳥かもよく分からない。だが窓から市場の流れが見える。人の出入りを見るには悪くない場所だった。
ゼノたちは最初から名前では探さなかった。
ソフィア。
きっと今はその名前ではないだろう。
数年前から住み着いた女。
今も歌を歌っているかも知れない。
年は三十前後。
市場の女の売り声。港裏の酒場の酔いどれの噂。洗濯場の井戸端話。そういうものを、ゼノは一つずつ拾っていった。
「西の外れにいるよ」
「歌い手みたいな喋り方するくせに、歌の話になると顔が固くなる」
「夜、窓閉めたあとにだけ聞こえる時があるんだ」
「青い布の店」
青い布。
三人目から同じ言葉を聞いた時、ゼノとラウスは目を合わせた。
《リュケオン:きたきた、こういう“断片が繋がる”のは強い》
〈コメント:青い布、もう怖い〉
〈コメント:上手いと言われるのを嫌がる、効くなあ〉
《エモーシア:褒め言葉が痛みに変わる女って、もうかなり深いわよ》
――
西の外れは、町の他の場所より少しだけ静かだった。人はいる。だが、みんな余計なことを喋らない空気がある。王都みたいに隠す静けさじゃない。触れたら壊れるものがあると知っている静けさだ。
その通りの先に、看板のない小さな縫い物屋があった。
軒先に青い布が一本だけ下がっている。
「……これですね」
ゼノが小さく言う。
「そのようです」
店は閉まっていた。まだ夕方前なのに扉は内側から閉められている。窓も半分だけ布が引かれていた。
ゼノが店の前で足を止めた、その時だった。
中から、ほんの短い音が漏れた。
歌とも言えないくらい短い。鼻歌よりも細い。たった一音。
けれど、その一音だけでゼノの足は止まった。
上手いとか綺麗だとか、そういう手前のところで分かる音がある。
喉の奥に消えなかった傷がそのまま残っている音だ。
「……いた」
ゼノが呟く。
ラウスは何も言わなかった。だが、その沈黙だけで十分だった。
青い布が風に鳴る。
看板のない店は、何も知らない顔でそこにある。
それでももう分かっていた。あの扉の向こうに、消えたはずの歌い手の続きを知る女がいる。
《視聴者数:834,115》
〈コメント:うわああああいた〉
〈コメント:一音で分かるの良すぎる〉
〈コメント:ここで叩かないの偉い〉
《フィクサル:焦るな。扉は一度閉じたら重い》
《エルディア:ここで踏み込むと失敗率が上がる》
《リュケオン:でも叩きたくなるよなあ》
その日は叩かなかった。
今、扉を叩けば閉じる。そういう確信があった。
「明日、昼に来ます」
ゼノが言うと、ラウスは短く頷いた。
――
翌日の昼、青い布は朝から風に鳴っていた。
ゼノは少しだけ指を握ったり開いたりしてから、扉を三度叩く。
中で布の擦れる音。椅子を引く音。足音。
「……誰」
声がした瞬間、やはりと思った。
低い。少し掠れている。けれど芯がある。
「ゼノといいます」
少し間があった。
「帰って」
即答だった。
「縫い物じゃなくて、歌の話を」
ゼノが言うと、
「なおさら帰って」
扉越しの声は冷たかった。だが、その冷たさには疲れが混じっていた。
「王都から来ました」
足音が止まる。
沈黙。息を潜めた気配。
「だから帰って」
女は言った。
「王都の人間がここに来る理由なんか、一つしかない」
追っ手。
連れ戻し。
昔の汚れの続き。
「違います」
ゼノははっきり言う。
「王都から逃がしたいものがあって来ました」
「……何」
「歌です」
扉がほんの少しだけ開いた。最初に見えたのは目だった。
三十前後。髪は後ろで束ねられ、化粧の気配はない。昔はかなり整った顔だったのだろうと思う。だが今は、綺麗という言葉より先に、静かだと思った。
そして、目だけが消えていない。
〈コメント:歌です、強い〉
〈コメント:ここ、かなり好き〉
《エモーシア:自分を連れ戻しに来たと思う女に、その言葉は効く》
《フィクサル:良い切り返しだ》
「その連れ」
女がラウスを見る。
「王都の匂いがする」
「します」
ラウスが答えた。
「だから中には入りません」
女は少しだけ眉を動かした。意外だったのかもしれない。
「何しに来たの」
今度はゼノへ向けて問う。
「確かめに」
「何を」
「消えた歌い手が、本当に消えたままかどうか」
女の目が細くなる。
「嫌な言い方」
「自覚はあります」
「最悪」
「よく言われます」
そのあと、女はしばらくゼノを見ていた。
値踏みというより、どこまで嘘を吐く顔かを見ている感じだった。
「……今の名前を聞いていいですか」
ゼノが静かに聞く。
少しの沈黙。
「アオイ」
短かった。
だが、それで十分だった。
《視聴者数:851,443》
〈コメント:アオイ……〉
〈コメント:ここで名前出るのたまらん〉
〈コメント:ソフィアじゃなくアオイなのが重い〉
《エルディア:旧名と現名の切断を確認》
《リュケオン:青い布、アオイ。綺麗だけど痛いな》
「いい名前ですね」
「嫌味?」
「本音です」
アオイはそれには返さなかった。
「王都で、何があったの」
今度は彼女の方が聞く。
ゼノは必要なことだけを話した。
若い歌い手が一人いたこと。
グレイスとカイルの流れの中に、すでに飲まれかけていたこと。
そこから切り離そうとして動いた結果、ここまで辿ったこと。
グレイスの名が出た時、アオイの顔が少しだけ変わった。
嫌悪だった。隠しきれていない。
「グレイスは切られました」
ゼノが言う。
「……本当に?」
「はい。カイルも落ち始めてます」
その瞬間、アオイの喉が小さく動いた。
「何者なの、あんた」
「昔、似たような場所を見てきた人間です」
アオイはそれには答えなかった。
だが扉は閉めなかった。
「会ってほしい人がいます」
ゼノが言う。
アオイの顔から表情が消えた。
「……そう来ると思った」
「今すぐじゃなくてもいい」
「誰」
ここで濁す意味はない。もうそこへ来ている。
「イグニスです」
アオイの指先が扉の縁でぴくりと動く。
「今は、その名前で」
「……へえ」
低い声だった。
「まだ、弾いてるの」
「はい」
その答えに、アオイはしばらく何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を閉じる。
「会わない」
やがて、はっきり言った。
「何で」
アオイはゼノをまっすぐ見た。
「……まだ、あの人の名前で傷む」
その一言で、空気が全部変わった。
好きでもない。
会いたいでもない。
許したでもない。
傷む。
たったそれだけが、一番深かった。
《視聴者数:873,020》
〈コメント:うわあああああ〉
〈コメント:ここ刺さりすぎる〉
〈コメント:好きじゃなくて“傷む”なのが最悪に良い〉
《エモーシア:来たわね。本当の言葉》
《フィクサル:これだ》
《リュケオン:恋だの未練だのより、こっちの方がえぐい》
そこから先は少しずつだった。
まだイグニスの名で傷むこと。
まだ歌う時があること。
歌うのは癖で、でも多分それだけじゃないこと。
全部捨てたら、本当に何も残らない気がしたこと。
ゼノは何も急がなかった。
急いだら壊れる。そこだけはもう分かっていた。
そして三度目に訪ねた夕方、ようやくアオイは王都を出たあとの話を始めた。
扉の前に白い花が置かれていたこと。
部屋へ戻って、服を脱いだ瞬間に吐いたこと。
自分自身ではもうどうにもできなくなってしまっていたこと。
そこでマリアが来た。
そして、こう言った。
――ここにいたら死ぬよ。
アオイはその時まで、少しだけ迷っていたという。
ルシアンに会えば、何か変わるかもしれないと。
でも、会わなかった。
「会ったら、期待しちゃうから」
アオイは言った。
「期待しないなら、まだ自分で終わらせられるでしょ」
〈コメント:マリア……〉
〈コメント:ここにいたら死ぬよ、重い〉
《エルディア:分岐点の言葉だ》
《エモーシア:期待って、一番汚く人を壊す時があるのよ》
王都を出て最初に着いたのは南。
金がなくて、北へは行けなかった。
安宿に転がり込み、喉は腫れて、声もほとんど出なかった。
そこで宿の主人に買われかけた。
歌い手あがりの女は、喉が駄目でも身体は売れる。
そう言われた、とアオイは静かに話した。
最初は断った。
だが三日食べなかったら、人は数字で考えるようになる。
いくらで何日延びるか。
結局、一回だけ受けた。
その金で北へ来た。
そこまで聞いた時、ゼノは初めて本当に怖くなった。
再会が答えだと思い込むことの汚さに。
《視聴者数:894,771》
〈コメント:きつい……〉
〈コメント:一回だけでも重すぎる〉
〈コメント:再会が答えじゃないの、ここで分からされるのえぐい〉
《フィクサル:甘い救済の顔を捨てろ》
《リュケオン:これはもう“会わせれば解決”じゃねえな》
《エモーシア:ここで怖くなるゼノ、正しいわ》
「……まだ、会わせたいですか」
アオイが静かに聞いた時、ゼノはすぐには答えられなかった。
「……分かりません」
それが、ようやく出せた本当の答えだった。
アオイは少しだけ目を細めた。
「やっと本当の顔した」
会わせるのが正しいと、どこかで思い込みたかった。
でも今は、それを言うのがあまりにも気持ち悪い。
少しの沈黙のあと、アオイは言った。
「今日はもう終わり。次に来るなら、何のために、誰のために、どこまで壊していいと思ってるのか、ちゃんと考えてから来て」
ゼノは頷くしかなかった。
――
ゼノは青い布を見上げたまま、思った。
ここで止まるわけにはいかない。
だが、ここから先はもっと汚い。
アオイは、王都で何を知ったのか。
何を持って逃げたのか。
そこまで行かなければ、もう戻れない。
青い布は、夜風の中で静かに揺れていた。
まるで何も知らない顔で。
でも、その向こうには、まだ死ねなかった歌があった。
そしてゼノは、その歌の奥にあるものへ、次は手を入れなければならないと知っていた。
もう、きれいな話では終われない。
――――
次回
第63話 家を延命する化け物




