第60話 優しい声で、逃げ道を消す
王都の契約書は、血の匂いがしない。
そこがいちばん気持ち悪い、とゼノは思った。
宿の机に並んだ紙は、どれも綺麗だった。
紙質も、字の揃い方も、条文の並びも、いかにも“ちゃんとしている”顔をしている。
報酬。
出演日。
稽古日程。
衣装協議。
後援者との礼節。
非公開の相談機会。
劇場運営上必要とされる柔軟な対応。
綺麗だ。
綺麗すぎて、逆に吐き気がした。
「表だけ見れば、問題ありません」
ラウスが言う。
ゼノは紙を一枚めくった。
その音だけが、やけに乾いて響く。
「問題がないように作ってるんでしょう」
「ええ」
ラウスは机の端に手を置いたまま続ける。
「露骨な文言は一つもありません。
無茶な違約金もない。
身体を差し出せなどと書くはずもない」
「でも、やる」
「やります」
短い返答だった。
その短さの方が、むしろ重い。
ゼノは、条文の途中を指で叩いた。
後援者との円滑な関係維持。
劇場の品位を損なわない協力。
非公開の場での相談対応。
「便利ですね」
「王都では、こういう曖昧な言葉の中で大抵のことが起きます」
ゼノは小さく笑って、すぐにやめた。
笑える話じゃない。
ソフィアはこれを拒んだ。
拒んで、その中身まで知った。
だから命を狙われ、店主に逃がされた。
そして今、リサが同じ流れの途中にいる。
リサ以外にも何人もいるだろう。
紙の上では何も起きていない。
だが、現実ではもう十分すぎるほど起きていた。
「セリナは?」
ゼノが聞くと、ラウスは別の紙を差し出した。
「付き人の女です。
報酬記録の一部が取れました」
ゼノは目を落とす。
通常の付き人手当。
衣装管理手当。
夜間同行手当。
そこで指が止まった。
「……これか」
「ええ」
「夜間同行」
「便利な言葉です」
「本当に」
ゼノは紙から目を離した。
誰が見ても“付き人の仕事”に見える。
けれど、その手当が何の時間に対して払われているか考えれば、気分が悪くなる。
「セリナ本人は?」
「半分、分かっていて、半分、分かっていない顔でした」
ラウスの言い方は、相変わらず妙に正確だった。
「どういう意味です」
「悪いことだと知っている。
だが、“王都ではよくあること”の側へ自分を逃がしている」
ゼノは小さく息を吐いた。
それもまた、王都らしい。
人を食う仕組みは一人では回らない。
見張る者。
黙る者。
見て見ぬふりをする者。
“そこまでではない”と自分に言い聞かせる者。
そういう小さな人間が何人も噛んで、ようやく一人の人間が売られる。
「グレイスは今夜も動きますか」
「可能性は高いです」
「じゃあ、先にリサを取ります」
ラウスが少しだけ目を細める。
「話せると思いますか」
「話せないかもしれません」
ゼノは言った。
「でも、あの子の中で何が起きてるかは聞かないと駄目です」
「ええ」
「王子を動かすためにも」
「それだけですか」
ラウスの問いは、責めていない。
ただ、観察しているだけだ。
ゼノは紙を伏せた。
「……それだけじゃないです」
正直に言うしかなかった。
「あの子、このままだとソフィアより先に壊れる」
ソフィアは拒めた。
強かった。
だからこそ命を狙われた。
でもリサは、まだそこまで行っていない。
歌を持ちきれていない。
だから、もっと静かに、もっと綺麗に飼われる。
「行きましょう」
ゼノが言う。
「今のうちに」
――
劇場の裏手は、昼を過ぎると少しだけ人が緩む。
表では客を迎える支度が始まっている。
だが裏では、衣装と帳面と疲れた声が行き来するだけだ。
ゼノとラウスは、渡り廊下の脇で待った。
荷箱が積まれ、幕が丸めて置かれている。
人は通るが、立ち止まらない。
話すにはちょうどいい。
先に現れたのはセリナだった。
衣装袋を抱え、いつものように無駄なく歩いてくる。
その後ろに、リサが続く。
昨日より顔色が悪い。
化粧が薄いからではない。
眠れていない顔だ。
「リサさん」
ゼノが声をかけた。
リサがびくりと止まる。
セリナが即座に振り返り、顔をしかめた。
「またあなた」
「少しだけ話を」
「お断りします」
「でしょうね」
ゼノがそう返す前に、ラウスが口を開いた。
「セリナ殿」
その一言で、セリナの顔つきが少し変わる。
「何でしょう」
「昨夜の同行について、お聞きしたい」
セリナの目が、一瞬だけ揺れた。
「……何のことですか」
「夜間同行手当の件です」
その言葉は静かだった。
だが、逃げ道を塞ぐには十分だった。
セリナの喉が動く。
断れば怪しい。
応じればリサから離れる。
王都の人間は、こういう時にたいてい“傷の浅い方”を選ぶ。
「少しなら」
セリナが言う。
「ええ」
ラウスは穏やかに頷いた。
「少しで結構です」
二人が少し離れる。
大した距離ではない。
だが、それで十分だった。
リサはその場に立ったまま、強張っていた。
逃げたいのか、逃げてはいけないと思っているのか、自分でも分かっていない顔だ。
「怖がらなくていいです」
ゼノが言う。
「……怖がってません」
「じゃあ、無理してますね」
リサの目が少しだけ上がる。
そこを見て、ゼノはあまり急がない方がいいと悟った。
「昨日の一音、覚えてますか」
リサの喉が、小さく動く。
「……覚えてます」
「よかった」
ゼノは言う。
「あなた、自分の声をまだ忘れてない」
その一言で、リサの顔が少し歪んだ。
「忘れたい時も、あるんです」
その返しが、思っていたより深かった。
「どうして」
「王都で歌うなら、綺麗じゃないと駄目だって言われるから」
「誰に」
リサはすぐに答えなかった。
でも、その沈黙だけで十分だった。
「綺麗って、何ですか」
ゼノが聞く。
「……高くて、軽くて、澄んでて」
「直す事は悪い事ではない。でもあなたの場合は別の洗脳がある」
リサの目が震える。
まだ強くは言えない。
ゼノは静かに言った。
「昨日の一音、そこが、あなたの声なんでしょう」
リサの肩が、小さく震えた。
「でも、それを出すと嫌がられる」
「誰に」
また同じ問い。
でも今度は逃がさない。
「……グレイス様に」
やっと出た名は、小さかった。
小さいのに、場を変えるには十分だった。
「嫌がられる、だけですか」
リサはゼノを見る。
その目に、初めてはっきりした怯えが見えた。
「……違う」
「じゃあ、何ですか」
「がっかり、される」
ゼノは、そこで胸の奥が冷めたくなった。
殴られる。
脅される。
怒鳴られる。
そうじゃない。
がっかりされる。
それが一番汚い支配だった。
「がっかりされたくないから、喉を変えるんですか」
「……はい」
「夜も?」
リサの目が大きく見開かれた。
当てられた顔だった。
「……何を」
「その声で、“はい”って言わされてる」
リサが一歩だけ後ろへ下がる。
でも逃げない。
逃げきれない。
「違います」
言葉は早かった。
だが、その早さ自体がもう違う。
「違う?」
「……わたしが」
そこで声が切れた。
わたしが。
その先を、本人がまだうまく言えない。
「自分で、そうしてる?」
リサは答えない。
答えられない。
ゼノは、少しだけ目を伏せてから言った。
「そう思わないと、生きられないだけでしょう」
リサの顔から、音が消えるみたいに表情が落ちた。
まずい、と一瞬思う。
強すぎたかもしれない。
でも次の瞬間。
「……そうです」
その声は小さかった。
小さくて、でも、はっきりしていた。
「そう思わないと、わたし、立っていられない」
その一言で、ゼノは動けなかった。
刺さった。
リサにも。
自分にも。
これは恋でも依存でもない。
生存だ。
嫌だと認めたら、自分が何をしてきたか全部崩れる。
だから、“自分で選んだ”と思うしかない。
怖いくらいによく出来ている。
「最初は」
リサが言う。
「本当に、相談だけだったんです」
ゼノは黙って聞く。
「歌のことを見てくれて。
どこが弱いか、どこが足りないか、教えてくれて。
みんなの前では言わないことも、二人の時には言ってくれて」
その喋り方が、もう駄目だった。
まだグレイスを庇っているわけではない。
でも、自分が騙されていたと全部は憎めていない声だ。
「優しかったんです」
優しい。
その言葉に、ゼノは心底うんざりした。
優しいから厄介なのだ。
「それで、ある日」
リサの声が少し震える。
「舞台の後、部屋に呼ばれて……」
言葉が止まる。
そこから先は、本人の口で出すにはまだ汚すぎる。
「嫌でしたか」
ゼノが静かに聞いた。
リサはすぐに答えなかった。
長い沈黙のあと、やっと絞る。
「……最初は、分からなかった」
ゼノは息を浅く吐く。
「嫌なのか、嬉しいのか、怖いのか」
それが一番きつい。
「でも」
リサが続ける。
「次の日、歌う時に、ちゃんと見てもらえてる気がして」
最悪だった。
身体を差し出したことが、舞台の評価に繋がる気がする。
そう思わせた時点で、終わっている。
「それで応じた?」
リサは目を閉じる。
「……はい」
「今も?」
リサは、ほんの少しだけ首を振った。
「今は……」
声が掠れる。
「今は、断ったら何もなくなる気がしてる」
そこまで言って、唇を噛んだ。
ようやく出た本音だった。
最初から好きで差し出していたわけじゃない。
今はもう、続けないと全部が消える気がしている。
歌も。
舞台も。
名前も。
グレイスは、そこまで持っていった。
ゼノは、そこで本当に腹の底から腹が立った。
「リサさん」
「……はい」
「それ、応じてるんじゃないです」
リサが泣きそうな顔で見る。
「追い込まれてる」
その言葉に、リサの目から初めて涙が落ちた。
静かだった。
声を上げるでもなく、崩れるでもなく、ただ落ちた。
「でも」
リサは、泣きながら言った。
「今さら、違うって言ったら……わたし……」
「壊れる?」
リサは頷く。
ゼノは、少しだけ息を吐いた。
壊れる。
そうだろう。
だから今まで誰もそこを言えなかった。
言った瞬間、その子は自分のやってきたことを全部見なければいけなくなる。
でも、もう言わせてしまった。
見せてしまった。
なら、ここで放り出すのが一番汚い。
「壊しません」
ゼノが言う。
リサが涙のまま、こちらを見る。
「……そんなの」
「壊しません」
もう一度言った。
「その代わり、次に“はい”って言う時は、自分のためかどうか考えてください」
リサは、すぐには頷けなかった。
でも、目は少しだけ強くなっていた。
その時、向こうからラウスとセリナが戻ってくる気配がした。
時間切れだ。
ゼノは最後に短く言う。
「昨日の一音、忘れないでください」
リサの目が揺れる。
「あれだけは、ちゃんとあなただった」
セリナが戻る。
顔色は悪い。
ラウスの方は何も変わらない。
「お待たせしました」
ラウスが言う。
「いえ」
ゼノは答える。
「ちょうど終わりました」
セリナはリサの涙の跡に気づいたはずだった。
だが、何も聞かなかった。
聞けないのだ。
「行くわよ」
それだけ言う。
リサは小さく頷いた。
でも去り際に一度だけゼノを見た。
その目はまだ濡れていたが、完全には死んでいなかった。
《視聴者数:863,109》
〈コメント:重すぎる……〉
〈コメント:「追い込まれてる」が刺さる〉
〈コメント:優しい声で逃げ道消してるの怖すぎる〉
〈コメント:リサ、まだ残ってる……!〉
《エモーシア:やっと、自分の痛みを出せたのね》
《フィクサル:いい。ここから切れる》
《エルディア:本人証言、取得》
《リュケオン:重いな……でも必要だ》
廊下を離れてから、ラウスが低く言った。
「取れましたね」
「はい」
「十分です」
「ええ」
ゼノは壁へ背を預けた。
足が少しだけ重い。
気分が悪い。
勝った、とは思えなかった。
必要なことをした。
でも、気持ちがいいわけじゃない。
「セリナは?」
ゼノが聞く。
「怯えました」
ラウスは簡潔に答える。
「夜間同行手当の意味は理解していました。
ただし、“そこまで悪いことではないと思っていた”側です」
「便利ですね。そういう人」
「ええ。グレイスにとっては」
ゼノは小さく笑って、すぐやめた。
「これ、王子に上げられますか」
「上げられます」
ラウスははっきり言った。
「リサ本人の言葉が取れた。
契約の曖昧さもある。
セリナの手当も押さえた。
これでグレイスは逃げにくい」
「カイルは」
「一緒に沈みます」
その言い方は静かで、妙に冷たかった。
たぶん、ラウスもかなり怒っている。
ゼノは顔を上げた。
王都の廊下は綺麗だった。
その綺麗さの中で、ようやく一つ、腐ったものの首根っこを掴めた気がした。
「……次は、王子ですね」
「ええ」
ラウスが頷く。
「そして、その次です」
「その次?」
「ベルノアです」
ソフィアは逃がされた。
知ってはいけないことを知ったから。
王都の腐った仕組みを拒んだから。
そして、その仕組みはずっと繰り返されている。
なら、ここで切る。
切ってから、ようやくベルノアへ行ける。
王都の泥を、ただ掘るだけじゃなく、一度叩き潰してから。
それが今の順番だった。
ゼノは、小さく息を吐いた。
王都の空気は今日も綺麗だ。
綺麗なだけで、少しも優しくない。
でも、もう見えた。
グレイスがどうやって女を食うのか。
カイルがどうやって歌い手を“宴向け”に仕立てるのか。
リサがどうやって、自分で選んだと思わされていたのか。
全部見えた。
だったら、次は切る番だ。
――――
次回
第61話 綺麗な顔が潰れた日




