第59話 綺麗な顔で、全部奪う
王都の夜は、灯りの数だけ嘘がある。
ゼノは、ラウスに案内されて石畳の坂を上りながら、そんなことを思っていた。
昼間に見た劇場街は華やかだった。
だが、夜のそれはもっと質が悪い。
馬車が止まる。
香油の匂いがする。
笑い声がする。
女の首筋が光る。
男たちは、やけに静かな声で値踏みをする。
全部、綺麗だ。
だから厄介だった。
「ここです」
ラウスが足を止めた。
目の前にあるのは、大劇場ではなかった。
貴族の私的な集まりや、夜会の前に“品定め”をするための、小さな演奏会場だった。
看板は上品だ。
灯りも柔らかい。
客を迎える扉の前には、花まで飾られている。
けれど、ゼノには分かる。
こういう場所は、人を褒めるためにあるんじゃない。
選ぶためにある。
使えるか。
売れるか。
気持ちよく飾れるか。
そういう目が、酒と音楽に薄められて漂っている場所だ。
「カイルは?」
「中です」
ラウスが答える。
「今夜、小さな披露があると聞きました。若い歌い手を連れて」
ゼノの眉が、わずかに動く。
「若い歌い手」
「ええ」
その言い方だけで、嫌なものが喉に落ちた。
酒場で聞いたばかりだ。
グレイスが歌い手を宴へ流し、カイルはそれを“通る形”へ整える。
だったら、今夜ここにいる若い歌い手は何なのか。
考えるまでもなかった。
ゼノとラウスは正面からは入らなかった。
客として入れば、余計な顔を覚えられる。
今夜は“見る側”でいい。
裏口。
荷の搬入口。
木箱の影。
油と汗の匂い。
舞台の表が綺麗なら、裏はちゃんと汚い。
そのことに、ゼノは妙な安心を覚えた。
人間は、やっぱりそういうものだ。
細い通路を抜けると、舞台袖のさらに外れに出た。
幕の隙間から、中が少し見える。
客席はそこまで大きくない。
三十か、四十。
その代わり、座っている人間の服が高い。
金持ちの小部屋だ。
王都はこういう場所で流行を先に決める。
舞台の上には、女が一人立っていた。
若い。
二十に届くか届かないか。
顔立ちは整っているが、まだ完成しきっていない。
育てれば変わる、と男たちが言いたがる年頃だった。
そして、その少し後ろ。
やや斜めの位置に、カイルがいた。
相変わらず綺麗な顔だった。
上品な上着。
柔らかい微笑。
少し下げた目線。
“自分は前へ出すぎません”という顔。
だがゼノは、酒場で聞いた話を思い出していた。
そういう顔で、全部持っていくのだ。
前に出ない顔で、いちばん前の実りだけを持っていく。
《視聴者数:761,084》
〈コメント:うわ、出た〉
〈コメント:綺麗な顔の加害者だ〉
〈コメント:嫌な予感しかしない〉
《エモーシア(感情の神):嫌ねえ、この空気》
《フィクサル:よく見ろ、ゼノ》
《エルディア(記録の神):反復構造、現行確認中》
歌が始まる。
最初の一声で、ゼノは思った。
綺麗だ。
だが、薄い。
いや、薄くさせられている。
本来なら、低いところで少し掠れて、人の胸の柔らかい場所に引っかかる種類の声だ。
なのに今は、その全部を削って、“王都で好かれる音”だけを残したみたいな歌い方になっている。
高く。
軽く。
澄んで。
滑らかに。
傷も熱も、全部薄く塗り潰されている。
ゼノは目を細めた。
「……殺してる」
小さく漏れた声に、ラウスが横でわずかに目を動かす。
「ええ」
小声で返す。
「本人の良さを」
歌い終わる。
拍手が起きる。
そこそこ温かい。
だが、胸を持っていかれた拍手じゃない。
品定めとして“悪くない”という拍手だ。
そこへカイルが一歩前へ出た。
「ありがとうございます」
その声は、舞台の女よりよく通った。
「彼女はまだ若いですが、音の芯は素晴らしい。
少し磨けば、もっと遠くへ届くでしょう」
女が、ほんの少しだけ安心した顔になる。
その顔を見た瞬間、ゼノは確信した。
ああ、これだ。
こうやって飼うのか、と思った。
今の言葉は褒め言葉じゃない。
首輪だ。
お前はまだ未完成だ。
だから俺が要る。
そう、やわらかく言っている。
客席の男が笑う。
「カイル殿の手にかかれば、でしょうな」
別の男も杯を回しながら続ける。
「元が良くても、正しい形を教える者がいなければ意味がない」
舞台の女が、また少し縮む。
褒められている。
立たせてもらっている。
そのはずなのに、今この場の中心は彼女じゃない。
カイルだ。
舞台の上で歌ったのは女なのに、拍手の行き先まで少しずつ奪われていく。
ゼノは、舌の奥が苦くなるのを感じた。
「最低だな」
ラウスがごく小さく言う。
「ええ」
ゼノは、目を離さずに答えた。
「本人の前で、本人の価値を“自分が育てたから”に変えてる」
歌い手の顔をしていない。
もう、“見てもらう側”の顔になりかけている。
それが気持ち悪かった。
舞台が終わり、若い歌い手は袖へ引いた。
カイルも一度下がる。
ゼノはラウスを見る。
「話せますか」
「少しなら」
ラウスは通路の先を見た。
「ただし、正面から行けば警戒されます」
「本人じゃなく、先にあの子でいいです」
ラウスの目が少しだけ細くなった。
「同じことを考えていました」
――
控えは狭かった。
若い歌い手は、水差しの前に立ったまま、まだ緊張を抜き切れていない顔をしていた。
近くに付き人らしい年上の女がいる。
その女が、ゼノたちを見るなり眉をひそめた。
「誰です」
ラウスが穏やかに一礼する。
「少し、お話を」
「お断りします」
早い。
しかも慣れている。
この断り方を何度もしてきたのだろう。
歌い手を近づけさせないために。
ゼノはその年上の女を見て、すぐに分かった。
この人は守っているんじゃない。
管理している。
「歌、よかったです」
ゼノは、若い歌い手へ向かって言った。
付き人ではなく、本人へ。
女が少しだけ目を上げる。
「……ありがとうございます」
「でも、本当はああいう歌い方じゃないですよね」
付き人の顔が変わった。
「何を――」
「こっちの話を聞く価値はあると思います」
ゼノは、若い歌い手から目を離さなかった。
「あなた、もっと低いところが鳴る」
女の喉が、そこで小さく動いた。
当たりだ。
「今の歌い方、あなたの良さを半分殺してる」
「やめなさい」
付き人が強く言う。
「余計なことを吹き込まないで」
だが、若い歌い手はもうゼノを見ていた。
「……分かるんですか」
「歌を売ってるので」
ゼノは静かに言った。
「だから、殺されてる部分は分かります」
付き人が前に出ようとした、その時だった。
「何の騒ぎです?」
カイルが来た。
足音も軽い。
顔も穏やか。
完璧に“揉め事を収めに来た善人”の顔だ。
この男は、ここまで含めて上手い。
カイルはまず若い歌い手を見る。
「大丈夫か、リサ」
名を呼ぶ。
優しい声で。
それだけで、女――リサの肩が少しだけ下がる。
その変化が、もう気持ち悪い。
リサ。
やはり、今の被害者はこの子だ。
「はい……」
それから、やっとゼノたちへ目を向ける。
「温泉郷の方ですね」
「覚えてもらえて光栄です」
「こちらこそ」
カイルは笑う。
「ただ、うちの歌い手に何かご用でも?」
うちの。
その二文字が、やけに気持ち悪かった。
「良い声だったので」
ゼノは答える。
「少し惜しいと思っただけです」
「惜しい?」
「ええ」
カイルの笑みは崩れない。
「どのあたりが?」
「良さを削ってます」
ぴたり、と空気が止まった。
ラウスは横で黙っている。
付き人は明らかに怒っている。
リサだけが、不安そうに二人を見ていた。
カイルは一拍置いてから、やさしく笑った。
「王都の歌は、地方と少し違うんです」
「でしょうね」
「粗い魅力をそのまま出せばいい場ばかりではない。
削ることで届く場所もある」
綺麗な言い方だ、とゼノは思う。
正しいようにも聞こえる。
実際、半分は正しいのだろう。
でも残り半分が腐っている。
「削った先で、誰に届かせるんです?」
ゼノが聞く。
「もちろん、客に」
「違うでしょう」
ゼノは笑わなかった。
「あなたに都合のいい客に、ですよね」
付き人が息を呑む。
リサも目を見開く。
カイルの目が、そこで初めて少しだけ切れた。
「……面白いことを言う」
「あなたは、昔からそうなんですか?」
「何の話だ」
「歌い手を“整える”役」
その言葉に、カイルの顔の端がわずかに強張る。
「誰から聞いた」
「いろいろと」
「王都は口が軽いな」
「重いですよ」
ゼノは言う。
「だから腐る」
カイルは数秒、黙っていた。
それから、また笑った。
でももう、前ほど綺麗には見えない。
「君は、ずいぶん熱心だな」
「うちの仲間に、ちょっかいかけられたので」
「まだ怒ってるのか。あれは勧誘だ」
「脅し混じりでしたけど」
カイルの目が細くなる。
「言葉の受け取り方が鋭い」
「そういう育ちなので」
リサが、小さく言った。
「……その人、歌い手なんですか」
カイルが即座にそちらを見る。
「気にしなくていい」
優しい声だった。
優しい。
でも、蓋をする声だ。
リサは少しだけ口を閉じた。
その閉じ方に、ゼノは既視感を覚えた。
カイルはゼノへ向き直る。
「忠告しておこう」
「どうぞ」
「王都には、掘らない方がいい事がある」
「でしょうね」
「足を取られるぞ」
ゼノはそこで、少しだけ口元を上げた。
「でも、あなたはもう泥の中に立ってるじゃないですか」
その一言だけは、綺麗に刺さった。
カイルの笑みが消える。
怖いほど、すっと消えた。
リサが思わず息を止める。
付き人も固まる。
ほんの数秒。
だが、その顔にははっきりと何かが出ていた。
怒り。
焦り。
そして、底の浅い軽蔑。
ゼノは、その顔をちゃんと見た。
これだ。
こいつは、こういう顔を隠して生きている。
綺麗な顔で全部奪い、最後にその本音だけを絶対に見せないようにしてきた男だ。
「……帰れ」
カイルが言った。
低い声だった。
「今はまだ、こちらも穏便に済ませている」
「立場のある人間の言い方ですね」
ゼノは一歩も引かなかった。
「でも、その子の喉は、あなたのものじゃない」
その一言で、リサの肩が小さく揺れた。
カイルは目を細める。
「未熟な才能は、削らなければ通らない」
声が、わずかに低くなる。
「本人の好きなように歌わせて残れるほど、王都は甘くない」
「私は、通る形を教えているだけだ」
その台詞は、酒場で聞いた汚れをそのまま磨いて口にしたような言葉だった。
ゼノは、そこで本当に笑った。
「育ててる顔して、売りやすい形にしてるだけでしょう」
カイルの目が、さらに上がる。
ゼノは止まらなかった。
「その喉、誰のものですか」
その一言は、リサに向けても、カイルに向けても落ちた。
リサが息を呑む。
付き人が怒った顔で前へ出ようとする。
だが、カイルが片手で制した。
「帰れ」
今度は、穏やかさを剥がした声だった。
「今すぐに」
ゼノは、その声を聞いて逆に確信した。
当たりだ。
こいつは今も同じことをやっている。
「行きましょう」
ラウスが静かに言う。
ゼノは一歩だけ下がった。
そこで終わりでよかった。
今ここでこれ以上やると、リサの前で全部が早すぎる。
だが、去る前にリサへ一言だけ残した。
「あなた、さっき二番の終わりで一瞬だけ本当の声に戻りました」
リサの目が大きく開く。
「あれだけは、ちゃんとあなただった」
付き人が何か言いかけたが、もう聞かない。
ゼノは踵を返した。
ラウスも続く。
通路へ戻ったところで、ようやく息を吐く。
「見えましたね」
ラウスが言う。
「ええ」
「どう見ました」
ゼノは歩きながら答える。
「カイルは昔だけじゃない」
「ええ」
「今も加害者側です」
ラウスが短く頷く。
「同意します」
ゼノは、まだ喉の奥に残る嫌なものを吐き出すみたいに続けた。
「しかも、自分を悪人だと思ってない。
必要なことをしてる顔で、人の歌を削ってる」
「だから質が悪い」
「はい」
ゼノはそこで、舞台の上のリサを思い出す。
若い。
まだ自分の歌を掴みきれていない。
だから、余計に危うい。
ソフィアは拒んだ。
自分をちゃんと持っていたから。
でもリサは、まだそこまで行っていない。
もっと早く、もっと静かに飲み込まれる。
「今助けないと、二度と歌えなくなる」
ゼノが低く言うと、ラウスも同じ温度で返した。
「ええ」
《視聴者数:778,443》
〈コメント:うわ、今もやってる〉
〈コメント:カイル、完全に現役の加害者だ〉
〈コメント:リサがやばい……〉
〈コメント:「その喉、誰のものですか」刺さる〉
《エモーシア:嫌な構図がそのまま残ってるわね》
《フィクサル:確定だ》
《エルディア:過去事案と現行事案の一致を確認》
《リュケオン:いいねえ。ようやく“今”になった》
ゼノは、小さく息を吐いた。
ソフィアの過去を掘るだけの話じゃなくなった。
もう、今まさに起きている被害の話だ。
昔話を暴いて満足する段階は終わった。
次は、リサだ。
グレイスだ。
夜の呼び出しだ。
綺麗な言葉で身体まで差し出させる構造を、今の形で掴まないといけない。
ゼノは、通路の先の暗がりを見た。
王都の夜は綺麗だ。
綺麗な顔で、全部奪うにはちょうどいいくらいに。
だからこそ、ここから先はもっと汚くやるしかない。
――――
次回
第60話 契約書は、血より冷たい




