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追放された魔術師は、神に観測されながら暮らしている〜生活魔法しか使えないのに、加護が止まりません〜  作者: 灰音 澪


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第58話 歌い手は、消えたんじゃない

 王都の外れに、その酒場はあった。


外れ、と言っても寂れているわけじゃない。

むしろ人はいた。

ただ、表通りの華やかさが一枚剥がれた場所だった。


石壁は煤け、窓枠の塗装はところどころ剥げている。

看板は古い。

酒場の名も、もう半分くらい読めない。


だが、扉だけは毎日開け閉めされている色をしていた。


ゼノは、その前で足を止めた。


「……ここですか」


「ええ」

ラウスが答える。

「ミレナ殿の話なら」


扉の向こうから、低い笑い声が聞こえる。

杯がぶつかる音。

椅子を引く音。

人のいる店だ。


でも、妙だった。


中が生きている音なのに、闇がある。


ゼノはそういう場所を知っていた。

前世でも、そういう店はあった。


繁盛している。

客もいる。

笑い声もある。

なのに、店の奥のどこかに、影が潜んでいる店だ。


「行きます」


扉を押す。


 中は思ったより広かった。

昼を少し過ぎた時間だというのに、半分以上の席が埋まっている。


肉の焼ける匂い。

安酒の匂い。

汗。

湿った木。

人の熱。


だが、ゼノが二歩入ったところで、空気がほんの少しだけ変わった。


見慣れない客が入ってきた時の変化じゃない。

“ここへ来るはずのない種類の人間が入ってきた”時の変化だ。


ラウスのせいだろう。

王都の犬の匂いは、服を変えても抜けきらない。


奥のカウンターにいた男が、杯を拭く手を止めた。


五十を過ぎている。

肩は広い。

片目の下に古い傷。

腕は太いが、ただの酒場の親父って感じじゃない。


昔、殴り合いの近くにいた人間の腕だ。


「……何だ」

男が言う。

「昼間から面倒事なら帰れ」


ラウスが一歩前に出るより早く、ゼノが口を開いた。


「ソフィアの歌の話を聞きに来ました」


その瞬間だった。


 酒場のざわめきが、ほんの一瞬だけ死んだ。


完全に静かになったわけじゃない。

でも、確かに一拍、全員の耳がこっちを向いた。


店主の目が、鋭く細くなる。


「誰に聞いた」


「古い記録係です」


「女か」


「はい」


店主は、そこで黙った。

それから、杯を布の上に置く。


「奥へ来い」


周りの客が何事もなかった顔に戻る。

でも、戻りきってはいない。

何人かは、明らかに聞き耳を立てていた。


ゼノとラウスは、店の裏に通された。


樽と箱が積まれた狭い部屋。

薄暗い。

だが、話をするには十分だった。


店主は扉を閉めるなり、ラウスを見た。


「そっちの顔が気に食わねえ」


「よく言われます」

ラウスは淡々と答える。


「王都側だろ」


「そうです」


「帰れ」


「帰りません」


即答だった。


ゼノは、少しだけ場違いな感心をした。

こういう時のラウスは、妙に強い。


店主は舌打ちした。

だが追い出さない。


「……で」

男はゼノを見る。

「お前は何だ」


「ゼノです」


「名前じゃなくて、中身を聞いてんだよ」


ゼノは少しだけ考えた。


「ルシアンの、今の仲間です」


 店主の顔から、色が消えた。


 本当に、一瞬だった。


「……ルシアン」


 低く繰り返す。

 それから、吐き出すみたいに続けた。


「あの鍵盤馬鹿か」


「はい」


「生きてんのか」


「生きてます」


「どこで」


「今は言えません」


「じゃあ信用できねえな」


「そうですね」

 ゼノは頷いた。

「でも、名前を聞いてその顔をするなら、何か知ってるはずです」


店主は黙った。


そして、荒く鼻を鳴らす。


「知ってるよ」

低い声だった。

「忘れようとしても、忘れられねえ夜がある」


部屋の空気が、また少しだけ冷えた。


《視聴者数:731,084》


〈コメント:来た〉

〈コメント:この店主、絶対濃い〉

〈コメント:空気がもう重い〉


《エルディア:接触成功》

《エモーシア:嫌な夜の匂いがするわね》

《フィクサル:聞け》


「ソフィアは、ここで歌ってた」

店主が言う。

「毎晩じゃねえ。気が向いた時だけだ。金のためだけでもなかった。歌いたい時に立って、歌いたくねえ日は歌わなかった」


「自由だったんですね」

ゼノが言う。


「自由に見えたかもな」

店主は笑った。

「でも、あの女はずっと追われてた。契約、噂、男、劇場、全部から」


ゼノは何も言わない。

先を促さない。

こういう時、急かすと本当に大事なところが落ちる。


「ルシアンも来てた」

店主は続ける。

「最初は客みてえに隅っこで飲んでた。で、ソフィアが勝手に舞台へ引っ張り上げた」


「らしいですね」


「らしいじゃなく、本当だよ」

店主の口元が少し歪む。

「あの夜のソフィアは、馬鹿みたいに綺麗だった」


その言い方に、少しだけ熱が残っていた。

今でも見えるのだろう。


「歌う前に、あいつ言ったんだ」

店主は遠くを見る。

「“今日は借り物じゃない歌を歌う”ってな」


ゼノの指先が、わずかに動く。


借り物じゃない歌。


「ルシアンが弾いて、ソフィアが歌った」

店主の声が低くなる。

「客は静かになったよ。最初の一音で分かった。あれは、いつものこの店の夜じゃねえって」


「どんな歌だったんです」


店主はすぐには答えなかった。


「……痛かった」

やがて、そう言った。

「綺麗とか上手いとかじゃねえ。痛かった。自分で触りたくねえところを、勝手に撫でられる感じだ」


ゼノは、少しだけ目を伏せた。


分かる。

そういう歌はある。


「終わった後、拍手が起きた」

店主は続ける。

「でも、すぐに変な空気になった。奥にいた連中が立ったんだ」


「グレイス」

ゼノが言う。


「そうだ」

店主は頷く。

「あいつ一人じゃねえ。劇場の下働きと、どっかの家の坊ちゃん崩れみてえなのが二、三人いた。酒を飲んでる顔して、最初から見張ってた」


ラウスが低く聞く。

「カイルは」


店主の目が、少しだけ濁る。


「いたよ」


その一言で、部屋の空気はさらに悪くなった。


「すぐ後ろだ」

店主は吐き捨てる。

「笑っても止めねえ。怒っても止めねえ。困った顔だけして立ってた」


最低だ、とゼノはまた思った。

何度でも最低になれる男だ。


「グレイスは言った」

店主が続ける。

「“勝手に舞台へ上がるな”

“未許可の曲を流すな”

“ソフィア、お前は契約を断ったくせに、人前へ出る時だけ都合よく舞台の型を使うのか”」


「ただの言いがかりですね」


「ただの言いがかりだよ」

店主は言う。

「でも、ああいうのは人が多い場所で言った方が勝つ。言われた側は、違うと返すだけで見苦しく見えるからな」


ゼノは、口の中が少しだけ苦くなるのを感じた。


前世でも見た。

客席の前で、女を悪者にするやり方。

“訂正させる”ことで、もう負けさせるやり方。


「ソフィアは何て?」


「笑ったよ」

店主の声に、わずかに震えが混じった。

「“自分の声で歌っただけ”って」


強い女だ、とゼノは思う。


「で?」

ラウスが問う。


「で、そこで終わりゃまだよかった」

店主は言った。

「ルシアンが前へ出た」


ゼノは目を上げた。


「何を」


「庇った」

店主は即答した。

「でも、庇い方が最悪だった」


その言葉の重さに、ゼノは黙る。


「“その曲は元々カイルと作ってた”とか、“誤解がある”とか、“ソフィアは悪くない”とか、いろいろ言ってたよ」

店主は吐き捨てるように笑う。

「でもな、女を守る時に、男同士の話に引きずり込んだら終わりなんだよ」


ゼノの背筋が、じわりと冷えた。


それは痛いほど分かる。


ソフィアに必要だったのは、“その曲の権利は誰のものか”という整理ではなかった。

“お前はそこで歌っていい”という、ただそれだけだったのだ。


「ソフィアの顔、今でも覚えてる」

店主の声が低く沈む。

「あの時、完全に冷えた」


それは、怒鳴った顔でも泣いた顔でもなかったのだろう。

もっと怖い顔だ。


ゼノは、なぜかその場面がはっきり見えた。


男たちが勝手に話を進めて、

女だけがそこで、“自分の歌”を置き去りにされる。


冷める。

そりゃ冷める。


「その夜のあと、ソフィアはここへ来なくなった」

 店主は言う。

「ルシアンは二回来た。二回とも酔ってた。二回ともソフィアは来なかった」


「何を言ってました」


「一回目は、“話せば分かると思った”」

店主は指を折る。

「二回目は、“遅かった”」


ゼノは、目を閉じたくなった。


きつい。

思った以上に。


「三回目は?」


「来てねえ」

店主は言う。

「その前に、ソフィアが消えた」


部屋の中が、しんとした。


外では笑い声もしているのに、ここだけ時間の流れが悪い。


「最後にソフィアを見たのは」

ゼノが静かに聞く。

「誰です」


店主は少しだけ考えた。


「うちの給仕の娘だ」

そう言って、すぐに顔をしかめる。

「……いや、もう娘じゃねえな」


奥の扉の方へ目を向ける。


「マリア!」


少し間があった。

やがて、別の扉が開く。


出てきた女を見た瞬間、ゼノは言葉を失いかけた。


三十前後。

背は高い。

黒髪を雑に後ろで束ねている。

左頬に薄く切れた跡。

そして、目が死んでいない。


死んでいないのに、何かを見すぎた目だった。


「何」

女は店主を見る。

「昼間からうるさい」


「ソフィアの話だ」


その一言で、女の顔から表情が消えた。


「誰が聞いてるの」


「俺です」

ゼノが言う。


マリアは、ゼノより先にラウスを見た。

それから、吐き捨てる。


「王都の匂いがする」


「鼻がいいですね」


「嫌な匂いには敏感なの」


そう言って、女は壁にもたれた。


「で、ソフィアの何」


「最後に見た時のことを聞きたいです」


マリアはしばらく黙った。

断るかと思った。

でも、違った。


「あの日、ソフィアは一人で来た」

女は言った。

「歌いにじゃない。荷物を取りに」


ゼノの呼吸が、少しだけ浅くなる。


「荷物?」


「置きっぱなしにしてた靴と譜面」

マリアは言う。

「あと、青いリボン」


そんな細部だけが、やけにはっきり残っている。


「泣いてましたか」


「泣いてない」

マリアは即答した。

「逆。びっくりするくらい静かだった。だから怖かった」


「何か言っていました?」


マリアの目が、少し遠くを見る。


「“もう歌わないかもしれない”って」


その場の空気が、一段深く沈んだ。


「でも、そのあと」

マリアは続ける。

「“それでも、あの夜だけは嘘じゃなかった”って言った」


ゼノは、拳を握った。


それだけが救いみたいで、余計にきつい。


「誰のことを言ってるか、分かりましたか」

ラウスが聞く。


「分かるよ」

マリアは言った。

「ルシアンでしょ」


少しの沈黙。


「ソフィア、あいつのこと好きだったんですかね」

ゼノが、半分独り言みたいに漏らす。


マリアは、そこで初めてゼノをまっすぐ見た。


「違う」


即答だった。


「好きとか、そういう綺麗な話じゃない」


その目が怖かった。


「ソフィアはね、自分の歌をちゃんと聞いた男が、やっと一人だけいたと思ったの」

女の声は静かだった。

「なのに、その男がソフィアじゃなく、自分の立場ばかりを守ろうとしたから冷めたの」


ゼノの喉が詰まる。


それは本当に、もうどうしようもなく終わっている。


「……その後は」

ゼノがやっと聞く。


マリアは少しだけ顔を歪めた。

そこで初めて、感情が露わになる。


「その後?」

乾いた声だった。

「その後なんか、もっと最悪よ」


店主が黙ったまま、低く息を吐く。

 

マリアは壁から背を離した。


「ソフィアは、あの夜のあと完全に目をつけられた」

言葉が落ちる。

「断ったからじゃない。知ったから」


ゼノとラウスの視線が揃う。


「何を」


マリアは笑わなかった。

ただ、吐き捨てるように言った。


「歌い手が、宴で何をさせられてるかを」


部屋の空気が、一気に悪くなる。


ゼノは息を止めた。


ミレナが言っていた“もっと汚い話”の輪郭が、ここで初めて現実の形になる。


「グレイスは、劇場の立場で歌い手を流してた」

マリアが続ける。

「後援者への挨拶。私的な宴。舞台の延長。そういう綺麗な言葉で包んで」


「でも、実際は」

ゼノが言う。


マリアの目が伏せる。


「身体まで差し出させてた」


短く、はっきりした言葉だった。


「断れば舞台を外される。噂を流される。歌えなくさせられる」

マリアは言う。

「従えば、“目をかけられてる”って顔をさせられる。いい衣装が回る。いい席に立てる。歌の相談をしてもらえる。優しくされる」


その“優しく”が、この部屋の中で一番汚かった。


「カイルも知ってましたか?」


店主が、そこで低く口を開いた。

「知らねえわけがねえ。あいつは、宴で通る歌い手に整える側だったからな」


ゼノはゆっくりとそちらを見る。


「整える」


「そうだ」

店主は吐き捨てる。

「客が気にいるような形に寄せる。あいつはずっとその役だった」


気持ち悪い。

喉の奥に泥が詰まるみたいに、気持ち悪い。


「ソフィアはそれを断った」

マリアが言う。

「最初から嫌ってた。でも、それだけじゃ済まなくなった。あの子、見ちゃったのよ」


「何を」


「宴の帰り」

マリアの声が一段低くなる。

「泣いてる歌い手を」


ゼノは言葉を失う。


「まだ若い子だった」

マリアは続ける。

「化粧が崩れて、口を押さえて、でも“私が選んだ”って言ってた。そう言わないと立っていられなかったんでしょうね」


同じだ。

同じことが、八年前から続いている。


「ソフィアはそこで全部察した」

マリアが言う。

「自分も次はそうなるって」


店主が口を開いた。


「違う」

低い声だった。

「次、じゃねえ。もう順番は来てた」


ゼノがそちらを見る。


店主の顔から、さっきまでのぶっきらぼうさが落ちていた。

残っているのは、長く抱えた怒りだけだ。


「グレイスの下の連中が、この店の周りを嗅ぎ回り始めた」

店主が言う。

「ソフィアが誰と会ってるか。どこで歌ったか。何を知ってるか。何を喋ったか」


マリアが歯を食いしばる。


「あれはもう、脅しじゃなかった」


「そうだ」

店主は頷く。

「ただ舞台を断った女じゃねえ。“知ってはいけねえことを知った女”になってた」


部屋の空気が、そこで本当に凍る。


《視聴者数:742,317》


〈コメント:うわ……〉

〈コメント:恋愛の話じゃなくなった〉

〈コメント:これもう王都の仕組みごと腐ってる〉


《エモーシア:最低ね》

《フィクサル:ようやく芯に触れた》

《エルディア:構造被害、確認》


ゼノは、喉の奥が急に乾くのを感じた。


「それで、ソフィアは……」


最後まで言い切る前に、店主がゼノを見た。


真っ直ぐだった。

逃げも飾りもない目だ。


「ソフィアは消えたんじゃねえ」


部屋の中の空気が止まる。


マリアも、ラウスも、誰も動かない。


店主が続ける。


「俺が逃がした」


その一言は、怒鳴り声なんかよりずっと重かった。


ゼノは、一瞬だけ理解が遅れた。


「……あなたが?」


「そうだ」


「どうして」


店主は、その問いに少しだけ口元を歪めた。


「どうしても何もねえよ」

低い声だった。

「王都にいたら、あの女はそのうち本当に死んでた」


マリアが目を伏せる。


「歌じゃねえ」

 店主は言った。

「ソフィア自身がだよ」


余計な事を知った口封じか。


「ソフィアは最初、逃げるのを嫌がった」

店主が続ける。

「逃げたら負けだって顔してた。馬鹿だろ。でも、まだ歌い手だったんだよ」


その言い方に、ゼノは胸の奥が痛くなる。


逃げたら負け。

そう思うのは、まだ舞台に立ちたい人間だけだ。


「でも、あの時点でもう無理だった」

マリアが言う。

「店の前に見慣れない男が増えた。劇場の下っ端じゃない。もっと露骨な連中。荷運びの顔して、ずっと見てた」


「だから動いた」

店主が言う。

「俺だけじゃねえ。マリア。荷を流す女。夜の御者。安宿の親父。ソフィアが好きだったやつらが手を貸した」


ゼノは、そこでやっと分かった。


ソフィアは一人で消えたんじゃない。


王都の下の、まだ腐りきらなかった人間たちが、少しずつ手を汚して外へ出したのだ。


「どこへ」

ラウスが静かに聞く。


店主は、少しだけ黙った。


言うか。

言わないか。


その沈黙の間に、この店の空気がまた少し重くなる。


マリアが先に言った。


「言っていいよ」


店主が、わずかに視線を動かす。


「ここまで来て隠しても、もう遅い」

マリアの声は乾いていた。

「ルシアンの名前まで出てる。だったら、中途半端が一番悪い」


店主は長く息を吐いた。


「……北東だ」


ゼノの指先がわずかに動く。


「町の名は、ベルノア」


その名が落ちた瞬間だった。


部屋の外。

酒場の方で、何かが倒れる音がした。


全員の視線が扉へ向く。


次の瞬間、表の方で誰かが怒鳴った。


「おい、今の誰だ!」


椅子が引かれる音。

走る足音。

外へ飛び出す客の気配。


ラウスが先に動いた。

扉を開ける。

だが、もう遅い。


表の窓の一枚が割れていた。

木の床に小さな石が転がり、その石に巻きつけられた紙切れが見える。


ゼノがそれを拾う。


短い文だった。


“それ以上探るな”


店主が、低く舌打ちした。


「……早えな」


ゼノは紙を握りしめる。


背中が冷える。

だが同時に、はっきりした。


向こうは焦っている。


「見られてたんですね」

ゼノが言う。


「最初からだろ」

店主は吐き捨てた。

「王都ってのはそういう街だ」


ラウスが割れた窓の向こうを見たまま戻る。


「撒かれました」


「でしょうね」

ゼノは言う。


気持ち悪い。

でも、もう戻れない。


ソフィアは消えたんじゃない。

逃がされた。

八年前に。

ベルノアへ。


そしてその線は、今も向こうにとって都合が悪い。


《視聴者数:756,904》


〈コメント:うわああああ〉

〈コメント:店主だったのか……!〉

〈コメント:ベルノアきた〉

〈コメント:石投げてくるの怖すぎる〉


《フィクサル:繋がったな》

《エモーシア:ようやく“消えた”が変わったわね》

《エルディア:北東ベルノア、接続確認》

《リュケオン:一気に本番だな》


ゼノは、紙を見たまま小さく息を吐いた。


恋愛のこじれじゃない。

過去のすれ違いでもない。


王都の腐った仕組みを知ってしまった女が、

命を狙われ、

まだ人間だった側の手で外へ逃がされた。


それが、ソフィアの消え方だった。


店主が低く言う。


「ゼノ」


「はい」


「もし会うなら、最初に昔の名前を呼ぶな」


ゼノは顔を上げる。


「……ソフィアって?」


「そうだ」

店主は言う。

「その名前で王都を捨てた。なら、まず今のあいつを見ろ」


マリアも壁にもたれたまま、低く続けた。


「ルシアンの名前も、最初から出すんじゃないよ」


「何でです」


マリアは笑わなかった。


「まだ傷ついているに決まってるでしょ」


その一言が、妙に胸に残った。


ゼノは、小さく頷く。


「……分かりました」


分かったつもりになるしかなかった。

でも、本当にはまだ分かっていない気もした。


ベルノアで生きている女は、

もう王都のソフィアじゃないのかもしれない。


それでも。

そこへ行くしかない。


イグニスの過去は、思っていたよりずっと汚かった。

そして、まだ終わっていない。


紙を握る手に、少しだけ力が入る。


ベルノア。


逃げた歌い手の続きが、そこにある。


――――

次回

 第59話 綺麗な顔で、全部奪う

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