第56話 鍵盤弾きが捨てた名前
酒は、温泉郷の夜を少しだけやわらかくする。
果実酒広場の端。
昼の賑わいが嘘みたいに引いたあとも、火だけは細く残っていた。
客はもういない。
片づけを終えた机と椅子が、静かな夜気の中で並んでいる。
ゼノはロイドに一言だけ伝えて、奥の小卓を借りた。
「話、長くなります」
そう言った時、ロイドは何も聞かなかった。
ただ、果実酒を二本と、温めた湯を置いていった。
「濃い方と、逃げ道の方だ」
「逃げ道?」
「酔いすぎた時の湯だよ」
そう言って去っていく。
イグニスは椅子に座るなり、まだ封も切っていない果実酒を見た。
「……優しいな、あの荷運び屋」
「気が利くんです」
「お前の周り、そういうの多いな」
「そうですね」
ゼノは向かいに座った。
急かさない。
だが、逃がしもしない。
イグニスはしばらく酒瓶を指先で転がしていた。
開けるでもない。
飲むでもない。
その沈黙が、今日いちばん重かった。
「どこから聞きます?」
ゼノが言うと、イグニスは少しだけ笑った。
「面接かよ」
「似たようなものです」
「教師募集の時みたいに切るなよ」
「内容によります」
「ひでえな」
そこで初めて、イグニスが封を切った。
果実酒の香りが、夜気に少しだけ広がる。
一口飲む。
すぐには喋らない。
それから、低く言った。
「俺の本名、イグニスじゃない」
ゼノは黙って頷いた。
予想はしていた。
あのカイルの反応で分かる。
“イグニス”は今の名だ。
昔の名で見つけられたんじゃない。
「昔は、ルシアンって名前だった」
そこで、ゼノはようやく小さく息を吐いた。
想像していたより、ずっと綺麗な名前だった。
「王都の音楽院にいた頃の名ですか」
「そう」
イグニス――いや、ルシアンだった男は、果実酒をもう一口飲んだ。
「別に、すげえ家の生まれじゃねえ。むしろ逆だ。親父は楽師崩れ、おふくろは歌い手崩れ。金はない。縁もない。あるのは“耳がいい子だな”って近所で言われるくらいのもんだった」
口調は淡い。
けれど、その中に自分を雑に扱う癖があった。
「それでも、運だけはあった。王都の巡回楽師が拾った。面白がって音楽院に入れて、“田舎の犬に鍵盤を覚えさせてみるか”ってな」
「感じ悪いですね」
「王都っぽいだろ」
イグニスが笑う。
でも、その笑いは乾いていた。
「最初は、何も分からなかった。譜面も、礼儀も、誰に頭を下げるべきかも。分かるのは音だけだった」
少し間を置く。
「で、そこにいたのがカイルだ」
ゼノは何も言わない。
ただ、続きを待つ。
「カイル・ヴェルナー。家柄よし、顔よし、喋りよし。作曲科の優等生。教師受けもいい。貴族受けはもっといい」
イグニスは言った。
「で、最初の頃は普通に親切だった」
「普通に?」
「譜面の読み方教えてくれたり、院の中の暗黙のルール教えてくれたり。俺みたいな田舎者、最初に潰されやすいから」
少しだけ目を伏せる。
「助かったのは本当だ」
ゼノはそこが一番嫌だった。
最初からただの悪人なら、話は簡単だ。
でも違う。
助けた。
支えた。
近づいた。
そこに恩があるから、人は簡単に切れなくなる。
「仲良かったんですか」
「……まあ、周りからはそう見えてたと思う」
イグニスは言う。
「実際、俺もそう思ってた時期がある」
夜風が吹いた。
果実酒の香りが少しだけ薄くなる。
「カイルは、俺の音を最初に分かったやつだった。少なくとも、そう見えた」
イグニスは卓を見たまま続ける。
「俺は作曲科じゃなくて、演奏寄りで拾われたけど、弾いてるうちに勝手に曲が溜まるタイプだった。鍵盤を触ると、勝手に頭に流れる。誰かに聞かせるつもりもなかったし、売る気もなかった。ただ、出るから出してただけだ」
「イグニスさんっぽいですね」
「だろ」
少し笑う。
「で、カイルはそれを聞いて、“お前、曲を書けるのか”ってなった」
そこからだった。
最初は、見せるだけだった。
夜の空き部屋で。
人のいない練習室で。
表に出すつもりのない断片を、ただ弾く。
カイルはそれを隣で聞いた。
聞いて、感想を言った。
“そこ、綺麗だな”
“今の進行、普通は出ない”
“お前、自覚ないだろうけど、それ武器だぞ”
肯定だった。
理解だった。
少なくとも、その頃のルシアンにはそう思えた。
「嬉しかった?」
ゼノが聞く。
「そりゃな」
イグニスは即答した。
「王都で、初めて“お前の音、面白い”って真顔で言ったのがカイルだったから」
その一言に、ゼノは胸の奥が少しだけざらついた。
最初に認めた。
最初に褒めた。
最初に価値を言葉にした。
そういう相手は、たとえ後で腐っても、心の深いところに棘みたいに残る。
「でも、そこから狂った」
「ああ」
イグニスの声が低くなる。
「院の中で、小さな発表会があった。上の貴族や、劇場関係の奴も来る、若手の見本市みたいなやつだ」
果実酒を飲む。
「そこで、カイルが新作として曲を出した」
ゼノはもう分かっていた。
だが、聞かなければいけない。
「……あなたの曲ですか」
「半分」
イグニスは言った。
「全部じゃない。俺が弾いた断片を、カイルが組み直して、体裁を整えて、タイトルをつけて出した」
「無断で」
「最初は、な」
そこに、もっと嫌なものがあった。
「発表の前日に見せられた」
イグニスの目が細くなる。
「“お前の断片、埋もれるには惜しいから形にした。共同で出そう”って」
「共同」
「そう」
イグニスは笑った。
「で、紙を見たら、作曲カイル・ヴェルナー、補助ルシアンになってた」
補助。
その言葉の軽さに、ゼノの胃の奥がむかつく。
「怒った?」
ゼノが聞く。
「怒った」
イグニスは即答した。
「ぶん殴ろうかと思った。でも、あいつが言ったんだ。“お前の名前を前に出すと、曲そのものが潰される。田舎上がりの無名が作ったってだけで舐められる。俺の名で出した方が、音はちゃんと届く”って」
最低だった。
最低なのに、完全な嘘でもない。
そこがいちばん腐っている。
「信じたんですか」
「半分は」
イグニスは答える。
「半分は、そうかもしれねえと思った。俺、あの頃ほんとに王都の仕組み分かってなかったから」
少し間を置く。
「あと半分は、怖かった」
「何が」
「出して、笑われるのが」
その声は小さかった。
けれど、一番本音だった。
「カイルはそこを知ってた」
イグニスは続ける。
「だから、綺麗に刺した。“お前の音は面白い。でも、お前自身はまだ表に立つ器じゃない。今は俺の名で通して、いずれちゃんと返す”って」
返す。
便利な言葉だ、とゼノは思った。
今は借りるだけ。
今は預かるだけ。
今は通すためだけ。
そう言いながら、人は返さない。
「で、曲は当たった」
「ああ」
イグニスの笑いが、今度ははっきり苦かった。
「ちゃんと当たった。拍手ももらった。院の教師も褒めた。貴族も興味を持った」
低く続ける。
「で、そこからだよ」
「返さなかった」
「返すどころか、次を要求した」
イグニスは言う。
「“前の曲、評判良かった。次も一緒にやろう”ってな」
ゼノは額を押さえたくなった。
「そこで切れなかったんですか」
「切りたかった」
イグニスは答える。
「でも、一回目の曲が当たった時点で、もう周りの空気が出来てた。カイルは“新進気鋭の若手作曲家”、俺は“音が少し面白い鍵盤の補助”だ」
人は肩書きを先に信じる。
それが王都ならなおさらだ。
「それに、俺も馬鹿だった」
イグニスは自嘲みたいに笑う。
「一回目で完全に手を切れなかった。曲が届いたこと自体は、嬉しかったから」
ゼノは何も言えなかった。
届いてほしい。
でも、名前は奪われる。
それでも、届いたこと自体は嬉しい。
そんなの、一番人を縛る。
《視聴者数:769,118》
〈コメント:うわ……最悪〉
〈コメント:ただの盗作よりえぐい〉
〈コメント:恩と承認で縛ってるのキツい〉
《エモーシア:嫌ねえ……本当に嫌》
《フィクサル:腐ったやり方だ》
《エルディア:関係性の漸次侵食を確認》
「二曲目、三曲目って続くうちに、俺が書いた断片が、当たり前みたいにカイルの机にある状態になった」
イグニスは言う。
「“見せろよ”って言われて見せる。あいつが整える。名はあいつ。俺は補助か、ひどい時は名前すら消える」
「周りは?」
「気づいてた奴もいる」
即答だった。
「でも、見て見ぬふりだ。カイルに恩がある奴、家の力にぶら下がってる奴、面倒を避けたい教師。そういうのばっかだ」
そして、もっと厄介なのは。
「カイル自身も、途中から本気で“自分が育ててやってる”って思い始めてた」
イグニスが言う。
「俺の音を世に出したのは自分だ。形にしてやったのも自分だ。お前一人なら埋もれてた、ってな」
「……それ、今日も言ってましたね」
「ああ」
イグニスは笑う。
「八年経っても、根っこが一緒なんだよ」
ゼノは卓の上で指を組んだ。
「じゃあ、どうやって切れたんですか」
そこが知りたかった。
そんな関係は、簡単には切れない。
しかも相手は、助けた顔をしながら盗る男だ。
イグニスは、そこで初めて少しだけ長く黙った。
それから、言う。
「女だよ」
ゼノは瞬きをした。
「女」
「そう」
イグニスは果実酒を飲み干した。
「俺より先に、切れた女がいた」
嫌な予感がした。
イグニスの昔話に出てくる“女”は、多分、ろくな位置にいない。
「誰です」
「ソフィア」
その名を言う時だけ、イグニスの声が少しだけ変わった。
「歌い手だった。俺と同じで、別に家も後ろ盾もなくて、でも喉だけで王都へ上がってきた女」
そこで、ゼノはようやく見えた。
同じ匂いの人間だ。
何もないところから、腕一本で食い込んできた側。
「恋人?」
「……そうなりかけた」
イグニスは言った。
「ちゃんと好きだったし、向こうも多分そうだった。でも、そこまで行く前に全部ぐちゃぐちゃになった」
ゼノは、黙って頷く。
イグニスは続けた。
「ソフィアは頭が良かった。歌も上手かったけど、それ以上に、人の顔と空気を見るのがうまかった」
少し笑う。
「お前みたいにな」
「嫌な例えですね」
「褒めてる」
イグニスは言う。
「で、あいつ、最初のうちからカイルのこと嫌ってた」
「見抜いてた」
「多分な」
ソフィアは、ルシアンに言ったらしい。
“あの人、あなたの音を好きなんじゃない。あなたの音を使った時の自分が好きなのよ”
その時は、イグニスは笑って流した。
そんな言い方は意地悪だと思った。
カイルにも恩がある。
助けられたこともある。
でも、ソフィアは引かなかった。
“恩があるのと、食われていいのは別よ”
“あなた、あの人の前だと自分の曲を出す時だけ妙に小さくなる”
“好きなら好きでいい。でも、それならなおさら、自分の名で立ちなさい”
強い女だった。
「そのソフィアが、どうなったんですか」
ゼノは聞いた。
イグニスの目が、少しだけ暗くなった。
「歌を取られた」
短い言葉だった。
でも、十分すぎた。
「……誰に」
「カイルに、じゃない」
イグニスは言う。
「カイルが連れてきた劇場の連中にだ」
なるほど、とゼノは思った。
もっと汚い。
もっと王都らしい。
「ソフィアは、ある劇場の専属契約の話を蹴った」
イグニスが続ける。
「理由は簡単だ。歌う曲も衣装も客の前で作る顔も、全部向こうが決める契約だったから」
「断って正解ですね」
「俺もそう思った」
イグニスは言う。
「でも、断ったあとから妙な噂が回り始めた。“扱いにくい”“気位だけ高い”“勝手に声を壊した”ってな」
王都だ。
本人を潰す時、いちいち正面から殴らない。
噂で削る。
立ち位置を濁す。
使いにくい札にする。
「その噂、カイルが回した」
「証拠はない」
イグニスは言った。
「でも、あいつは知ってた。俺に“しばらく距離を置いた方がいい”って言った時の顔、今でも忘れてねえ」
ゼノは歯の奥が少し軋むのを感じた。
守るふり。
助言するふり。
その実、自分は安全な場所に立ったまま、相手だけを削る。
「ソフィアは、最後に俺に言った」
イグニスの声が低くなる。
「“あなたまであそこにいるなら、私、二重に負けるわ”って」
ゼノは、目を伏せた。
それは重い。
あまりにも重い。
「俺、何も言えなかった」
イグニスが笑う。
「引き留める資格もなかったし、カイルを切る決断もその時点ではまだ遅かった」
「それで?」
「ソフィアは王都を出た」
イグニスは言った。
「どこへ行ったかは知らない。探さなかった。……探せなかった」
卓の上に、沈黙が落ちる。
その沈黙の重さで、ゼノは全部の輪郭をだいたい掴んだ。
カイルはただ曲を盗っただけじゃない。
人の居場所も、呼吸も、名前も、少しずつ削る側の人間だ。
そしてイグニスは、盗られながら、切れないまま、横で誰かが潰れるのを見てしまった。
それなら、逃げるしかない。
「王都を出たのは、そのあとですか」
「ああ」
イグニスが答える。
「最後にもう一曲だけ、完全に俺の曲をあいつの名で出されかけた」
「かけた?」
「出る前に消した」
ゼノが顔を上げる。
イグニスは、そこで初めて少しだけ悪い顔で笑った。
「院の保管庫に忍び込んで、譜面も元の断片も、全部燃やした」
「……やりますね」
「人生で一番起きてた」
イグニスは言う。
「で、そのまま王都を捨てた。名前も捨てた。ルシアンって名で鍵盤弾いてる限り、あいつらが寄ってくると思ったから」
「それでイグニス」
「そう」
少し肩をすくめる。
「火みたいに消えない名がいいと思ってな。単純だろ」
「いい名前です」
イグニスは、そこで少しだけ笑った。
「……そうか」
夜は、もうだいぶ深い。
遠くで湯の音がする。
温泉郷は眠っていない。
でも、今この卓だけは別の時間の中にあるみたいだった。
「で」
イグニスが言う。
「ここまで聞いて、どうする」
「何をです」
「王都の第一王子と繋がりがある。相手の身元も掘れる。昔の曲のことも、多分調べれば出る」
イグニスはゼノを見る。
「でも、掘れば掘るほど、うちも汚れるぞ」
ゼノは、少しだけ考えた。
確かにそうだ。
暴けば綺麗じゃ済まない。
ミラベルにも、温泉郷にも、余計な泥は飛ぶ。
でも。
「掘ります」
ゼノは言った。
イグニスの目が、少しだけ動く。
「即答か」
「はい」
ゼノは頷く。
「ただし、順番に」
「順番」
「まず、ミラベルと温泉郷を表から守る」
指を一本立てる。
「次に、王子に借りるかどうか決める」
もう一本。
「そのあとで、カイルをどうするか考える」
「どうするか、ね」
「はい」
ゼノは笑わなかった。
「潰すのか、黙らせるのか、王都ごと巻き込むのか。そこはまだ決めません」
イグニスは、少し黙ってから、喉の奥で笑った。
「お前、怖えな」
「よく言われます」
「いや、前より今の方がちゃんと怖い」
ゼノは、そこで少しだけ口元を上げた。
「でも、一つだけ先に決めてます」
「何を」
「あなたの曲を、“あっちの論理で”回収する気はない」
イグニスが、黙る。
「王都に認められたから取り返しました、だと気に食わない」
ゼノは言う。
「取り返すなら、こっちの場所で、こっちの流れで、です」
しばらく、イグニスは何も言わなかった。
やがて、静かに果実酒を注ぎ足す。
「……ソフィアだったら、お前のこと気に入ったかもな」
ゼノは少しだけ困った顔をした。
「それ、褒めてます?」
「多分」
そこでようやく、今日初めてまともな笑いが落ちた。
《視聴者数:781,440》
〈コメント:重い……でも面白すぎる〉
〈コメント:ソフィア気になるうう〉
〈コメント:カイルほんと嫌なやつで逆に良い〉
〈コメント:順番に片づけるゼノつよい〉
《エモーシア:ぐちゃぐちゃね、でも嫌いじゃないわ》
《フィクサル:人間だな》
《ラグゼル:綺麗に勝つ気がないの、いい》
《ヴァルシオン:次手、分岐開始》
ゼノは立ち上がった。
「今日はもう休みましょう」
「寝られるかね」
「無理でも横になってください」
「雑だな」
「優しさです」
イグニスも、ゆっくり立つ。
夜気は少し冷える。
でも、さっきまでの重さとは違った。
全部解決したわけじゃない。
むしろ、面倒は増えた。
王都も絡む。
過去も腐っている。
ソフィアという名前まで残っている。
それでも、少なくとも今は見えた。
相手の顔が。
傷の形が。
そして、どこを守るべきかが。
「ゼノ」
歩き出す前に、イグニスが言う。
「はい」
「今日、お前がいてよかった」
ゼノは、少しだけ目を丸くした。
「珍しく素直ですね」
「今だけだ」
「録音しておけばよかったです」
「消すぞ」
そんなやり取りをしながら、二人は広場を後にする。
温泉郷の灯りが、遠くでやわらかく揺れていた。
過去は来た。
逃げた名も、盗られた曲も、消えた歌い手も、全部また息をし始めた。
なら、次はこっちの番だ。
――――
次回
第57話 歌い手の消えた街




