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追放された魔術師は、神に観測されながら暮らしている〜生活魔法しか使えないのに、加護が止まりません〜  作者: 灰音 澪


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第55話 逃がしたはずの過去が、夜に来る

 売り場を閉じる頃には、温泉郷の夜はもう深くなっていた。


音舞殿の前に並んでいた机は片づけられ、最後の箱も工房へ戻された。

共鳴鈴を抱えて帰る客たちの背中は、もう闇に溶けている。


だが、熱だけは残っていた。


新曲を聞いた顔。

買えた者の顔。

買えなかった者の、次は絶対に、という顔。


全部、ちゃんと残っている。


ゼノは音舞殿の裏手へ回った。


表はまだ灯りが多い。

笑い声もある。

けれど裏は違う。


舞台の熱が終わったあと、いちばん最初に冷える場所だ。


木壁の影。

積まれた箱。

夜露を吸った土。

遠くから聞こえる温泉湖の湯の音。


その中に、もう一つだけ別の気配があった。


人だ。


待っている気配。


《視聴者数:711,204》


〈コメント:来た〉

〈コメント:夜の面倒ごとだ〉

〈コメント:ここで当たるのか〉


《ヴァルシオン:接触確定》

《エモーシア:嫌な熱ね》

《フィクサル:順番通りだ。行け》

 

ゼノは足を止めなかった。


その前に、もう一人いた。


音舞殿の壁にもたれ、腕を組んでいる男。

イグニスだ。


半眼。

眠そうな顔。

だが今日は、その眠たさの奥が少しだけ硬い。


「いるんですよね」

ゼノが言う。


「いる」

イグニスは短く返した。


「知り合いですか」


「知ってる顔だ」


それは、知り合い、より少し冷たい言い方だった。


「話せますか」


「話すしかないだろ」


そこで、闇の奥から靴音がした。


土を踏む音は一人分。

だが、後ろにもう一つ、重い気配がある。

護衛か、付き添いか。

どちらにせよ前に出るのは一人だけだ。


やがて、男が灯りの端に姿を見せた。


昼間、客席にいた男だった。


年は三十を少し越えたくらい。

上着は上等だが、派手ではない。

顔立ちは整っている。

だが今のその目は、整っているというより、削れていた。


「……久しぶりだな」

男が言った。


イグニスは答えない。


男が、ほんの少しだけ口元を歪める。


「十年ぶりか? いや、そこまでは経ってないか」


「八年だ」

イグニスが言った。


声は低い。

そして、驚くほど平らだった。


ゼノはその声を聞いて、逆に少しだけ警戒した。

怒っている時ほど静かになる種類の声だ。


「覚えてたか」

男は笑った。

「安心したよ。綺麗に忘れられてたら腹が立つ」


「用件は」

イグニスが言う。


男の笑いが、少しだけ薄くなる。


「相変わらずだな。挨拶もない」


「お前と世間話するつもりはない」


そこで、男は初めてゼノに目を向けた。


「……君がゼノか」


「はい」


「なるほど。湯楽郷を回してる男ってのは、もっと胡散臭い顔をしてると思ってた」


「よく言われます」

ゼノは答えた。

「だいたい初対面で」


男はそこで少しだけ笑った。

たぶん、本来はこういう笑い方が出来る男なのだろう。

だが、今日ここに来た理由はそれじゃない。


「名前を聞いても?」

ゼノが言う。


「カイル・ヴェルナー」


名乗り方が自然すぎて、少しだけ腹が立つ。

自分を綺麗に見せる癖が、まだ抜けていない。


イグニスが吐き捨てるみたいに言う。


「今は“王都音楽院付き作曲家”様、だろ」


カイルの目が、そこで少しだけ細くなった。


「耳が早いな」


「お前の名前を聞きたくなくても、勝手に入ってくる」


「そりゃ光栄だ」


空気が冷える。


ゼノは、その二人の間に流れているものを見ていた。


ただの昔馴染みじゃない。

ただの不仲でもない。


ちゃんと、壊れている。


《視聴者数:724,980》


〈コメント:空気えぐ〉

〈コメント:ただの知り合いじゃない〉

〈コメント:王都音楽院付きとか、強そうで腹立つ〉


《エルディア:過去記録、濁り大》

《ノクティア:音の道が一度絡んでいる》

《リュケオン:うわ、面倒なやつだこれ》


「今日は祝ってやりに来たんだ」

カイルが言う。

「見事だった。あの新曲も、客の掴み方も。……驚いたよ。お前が、あそこまでやるとはな」


「祝いなら帰れ」

イグニスが即答した。

「顔見せた時点で台無しだ」


「辛辣だな」


「用件は」

イグニスがもう一度言う。


カイルは一瞬だけ黙った。

そして、やっと笑うのをやめた。


「戻ってこい」


ゼノは、思わず瞬きをした。


怒鳴り込みじゃない。

喧嘩でもない。

第一声がそれか。


イグニスは、まったく表情を動かさなかった。


「嫌だな」

短く言う。


「最後まで聞け」

カイルの声が、少しだけ低くなる。

「王都でやれって言ってるんだ。お前の鍵盤は、こんな辺境で埋めるには惜しい」


「辺境だろうが王都だろうが、俺の勝手だ」


「勝手で済む話か」

カイルは一歩だけ前へ出た。

「お前、自分が何を弾いたか分かってるのか? 今日の新曲、あれは王都で流せばもっと跳ねる。今の七人も、王都で磨けばもっと売れる。温泉郷で客を泣かせて終わる器じゃない」


その言葉に、ゼノはほんの少しだけ目を細めた。


売れる。

跳ねる。

磨けばもっと。


全部、間違ってはいない。

だからこそ面倒だ。


「お断りします」

ゼノが口を開いた。


カイルの視線が、すっとこちらへ向く。


「君には聞いてない」


「でも、今の舞台はうちの舞台なので」

ゼノは言った。

「関係あります」


「関係あるのは分かる。だから、話が早いと思ったんだ」

カイルはゼノを見る。

「君は商売人だろ。今日の売り方を見ていれば分かる。なら理解できるはずだ。王都へ出れば、規模が違う。金も人も、名も動く」


「そうでしょうね」


「だったら――」


「でも、あなたに任せる理由がない」


ぴたり、と空気が止まった。


カイルの顔から、綺麗な営業の薄皮が少しだけ剥がれた。


「……任せる?」


「はい」


ゼノは穏やかに続ける。


「王都へ出れば大きくなる。そこまでは分かります。でも、その先で何を削るかが見えない相手に、こっちの歌と人は預けられません」


カイルが笑う。

だが、今度は目が笑っていない。


「たった一度会っただけで、そこまで言うのか」


「十分です」

ゼノは答えた。

「あなた、最初からミラベルを見てませんよね」


その一言で、カイルの視線が止まる。


「ずっとイグニスだけ見てた。新曲がどうだったかじゃなくて、鍵盤の癖しか見てない」

ゼノは言う。

「それで“預けろ”は、ちょっと無理です」


イグニスが、そこでほんの少しだけ口元を動かした。

笑った、というほどじゃない。

でも、少しだけ空気が変わる。


カイルは、今度こそ笑うのをやめた。


「……随分守られてるんだな、お前」

イグニスに向かって言う。


「違う」

イグニスは壁から背を離した。

「こいつは、気に入らねえもんを通さないだけだ」


「同じことだろ」


「全然違う」


イグニスが、一歩だけ前へ出る。


その瞬間、空気が変わった。


眠たげな男は、もうどこにもいない。

鍵盤の前でだけ起きるはずの目が、今ここで起きている。


「お前が俺に何を言うかなんて、最初から分かってた」


「そうか」


「王都へ戻れ。もっと売れる。もっと上に行け。そういう話だろ」


「間違ってない」


「間違ってる」


イグニスは、はっきり言った。


「お前が欲しいのは、俺じゃない。俺の鍵盤で、お前の名前をもう一段上へ押し上げたいだけだ」


カイルの眉がぴくりと動く。


「……まだそんなふうに思ってるのか」


「まだ?」

イグニスの声が低くなる。

「お前、俺の曲に自分の名を載せたの、一回や二回じゃねえだろ」


ゼノは、そこでやっと核心に触れたと悟った。


盗った。

盗られた。

そういう話だ。


《視聴者数:739,118》


〈コメント:うわ、そっちか〉

〈コメント:やっぱり過去重い〉

〈コメント:曲パクったのかよ〉


《エルディア:権利改竄の痕跡あり》

《エモーシア:うわぁ、嫌い》

《フィクサル:続けろ》


カイルは、そこで初めて少し強く言い返した。


「違う。あれは院の判断だ」


「出たな、それ」


「事実だ。お前はあの時、表に立つ気がなかった。名を出されるのも嫌がった。だったら、作品を死なせないために通る形にしただけだ」


「俺の曲を、お前の曲としてか」


「王都で通る形にしたんだ!」


声が強くなる。


裏手の空気に、その声だけが硬く響いた。


「分からないか? あの場所は才能だけじゃ残れない。名前、後ろ盾、立ち位置、全部要るんだよ! お前みたいに弾けるだけの奴を、そのまま出して守れる場所じゃなかった!」


「だから盗ったのか」


「生かしたんだ!」


その言葉に、イグニスが笑った。


冷たい笑いだった。


「そうやって、ずっと言い聞かせてきたんだろうな」


カイルの喉が、わずかに詰まる。


「お前、自分で言ってて苦しくないのか」

イグニスは続けた。

「俺の曲を、お前の名で出して。“これは必要なやり方だった”って、八年も自分に言ってきたのか」


「……っ」


「だったら今日、俺を見つけた時の顔は何だった」


イグニスが、一歩詰める。


「祝いじゃねえ。懐かしさでもねえ。焦ってただろ」


カイルの目が、そこで初めてぶれた。


「ここで俺が、ちゃんと名前のある場所で、ちゃんと拍手を受けて、ちゃんと欲しがられてるのを見て」

イグニスの声は静かだった。

「お前、焦ったんだよ」


ゼノは横で聞きながら、背筋が少しだけ粟立つのを感じた。


これは喧嘩じゃない。

もっと質が悪い。


ずっと時間をかけて腐ったものを、今ここで一気に切り開いてる。


「……黙れ」

カイルが言う。


「図星か」


「黙れ!」


今度は、はっきり怒鳴った。


後ろにいた護衛役の男が一歩出かける。

だがゼノが先に動いた。


「そこまでです」


声は大きくない。

でも、二人の間にすっと入る。


「今日は音舞殿の裏です。怒鳴る場所じゃない」


カイルが、荒い息のままゼノを見る。


「君は関係ないだろう!」


「あります」

ゼノは一歩も引かない。

「うちの鍵盤弾きなので」


その言い方に、イグニスが横で小さく鼻で笑った。


カイルは、しばらく何も言えなかった。


怒っている。

でも、ここでさらに押したら完全に負けると分かっている顔だった。


だから、今度は別の刃を出す。


「……お前、分かってないだろうな」

イグニスへ向けて言う。

「王都は、お前が消えたと思ってる。今さら出ていって、全部綺麗に戻ると思うなよ」


「戻る気ねえよ」


「なら、なおさらだ」

カイルの声が冷える。

「お前が出れば、昔の話を掘り返す奴も出る。俺だけじゃない。院も、一座も、楽師も、昔お前を笑った連中も。全部だ」


「だから?」


「だから、お前一人じゃ済まなくなるって言ってるんだ」


そこで、視線がゼノへ向いた。


「湯楽郷も巻き込まれる」


その一言だけは、少しだけ刺さるように言った。


イグニスの指先が、ほんのわずかに動く。


そこだ、とゼノは思った。

イグニスが気にするのは、自分のことじゃない。

今いる場所の方だ。


カイルもそれが分かっていて、そこを刺した。


「お前一人の意地で済むならいい。だが、今は違う」

カイルは畳みかける。

「温泉郷、歌姫団、売れ始めた商品。王都が本気で目を向ければ、綺麗には済まない」


「脅しですか」

ゼノが聞く。


「忠告だ」


「違いますね」


ゼノは笑わなかった。


「脅しのつもりで忠告って言ってる時の顔です」


カイルが、そこでほんの少しだけ黙る。


「今のを聞いて、俺たちが“じゃあお願いします”って言うと思いました?」

ゼノは言う。

「だとしたら、うちのことをまだ全然分かってない」


イグニスも、そこで低く続けた。


「聞いたか、カイル」


八年前の名前を呼ぶ声じゃない。

もう切り離した相手の名前の呼び方だった。


「今のが俺の居場所だ」

イグニスは言う。

「もう、お前らの土俵に戻る気はない」


夜風が、細く通り抜ける。


しばらく、誰も動かなかった。


やがてカイルが、静かに息を吐く。


「……分かった」


分かってない声だった。

だが、それ以上ここで押す気はないらしい。


「今日は帰る」


「そうしてください」


「ただし」

カイルの目が、最後にもう一度だけイグニスへ向く。

「終わったと思うな」


「お前が終わってないだけだろ」


それで、勝負はついた。


カイルは何も返せず、踵を返す。

付き添いの男も、そのまま後ろに続いた。


足音が遠ざかる。

夜の裏手に、ようやく本来の静けさが戻ってくる。


《視聴者数:752,460》


〈コメント:うわあああ濃い〉

〈コメント:イグニスつよ〉

〈コメント:でも終わってねえええ〉

〈コメント:ここから王都案件になるやつ〉


《フィクサル:切ったな》

《エモーシア:でも傷はまだ開いてる》

《ヴァルシオン:継続案件》

《リュケオン:面白ぇが、厄介だ》


ゼノは、しばらくカイルの去った方を見ていた。


「大丈夫ですか」

ようやく聞く。


イグニスはすぐに答えなかった。

壁に寄りかかる。

そのまま、目を閉じる。


「大丈夫じゃねえな」


「ですよね」


「でも、最悪でもない」


ゼノはそこで、少しだけ肩の力を抜いた。


強がりじゃない。

ちゃんと、自分の状態を見てる声だったからだ。


「話、聞きます」

ゼノが言う。


「今じゃなくていい」


「今がいい」


イグニスが目を開く。


「……面倒だぞ」


「知ってます」


「長い」


「覚悟してます」


そこで、イグニスはほんの少しだけ笑った。


「お前、そういう時だけ変にしつこいよな」


「大事なところなので」


「客の相手より面倒だ」


「それは多分そうです」


少しだけ、空気が緩む。


だが、緩んだからこそ、次に進める。


「じゃあ、場所変えましょう」

ゼノは言う。

「ここ、冷えるので」


「温泉か?」


「それはさすがに情報量が多いです」


「じゃあ酒」


「それもありですね」


イグニスは壁から背を離す。

足取りは重くない。

まだ、大丈夫だ。


ゼノはその横に並ぶ。


音舞殿の灯りは、もう半分以上落ちていた。

売り場の方では、マギウスたちが最後の片づけをしている。


歌が売れた日だった。

王子が買った日だった。

そして、逃がしたはずの過去が、夜に追いついた日でもあった。


全部、一日で来る。


面倒だ。

でも、順番にやればいい。


「……なあ」

歩きながら、イグニスが言った。


「はい」


「今日の新曲、よかったな」


ゼノは少しだけ笑った。


「はい。かなり」


「そうか」


「だから、なおさら面倒ですね」


「違いねえ」


夜の温泉郷は静かだった。

だが、その静けさの底で、次の波はもう動き始めている。


王都。

過去。

名前。

盗られた曲。


それでも、今ここには歌が残っている。


なら、まだ負けてない。


ゼノは小さく息を吐いた。


次は、話を聞く番だ。


――――

次回

 第56話 鍵盤弾きが捨てた名前

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