第53話 新曲披露――そして、イグニスの過去が客席にいた
音舞殿の灯りが、ゆっくり落ちた。
ざわめきが薄くなる。
息を呑む音まで、今日はよく聞こえた。
《視聴者数:574,903》
〈コメント:始まる〉
〈コメント:今日だ〉
〈コメント:完全体ミラベルきた〉
〈コメント:王都勢も混ざってるの熱い〉
《リュケオン(娯楽の神 ):この一瞬の張り、たまらねえ》
《エモーシア(感情の神):期待で喉が乾いてる顔ばかりね》
《神フィクサル:見せろ》
《ノクティア(音律の神):最初の一音で決まる》
舞台の中央へ、最初にエレナが出た。
その後ろに、リィナ、ミュラ、セレス、ミルファ、ナディア、リーシャ。
七人が横一列に並ぶ。
立っただけで、空気が変わった。
温泉湖の三人舞台とは違う。
人数の問題じゃない。
場そのものが、最初から一段深い。
客席の中ほど。
地味な上着に身を包んだレオニスが、わずかに目を細めた。
前に湯楽郷で見たのは、三人だけの舞台だった。
あれでも十分に良かった。
だが、今日こうして七人が同時に立つと、印象がまるで違う。
隣ではラウスも、自然に背筋を伸ばしていた。
そのさらに少し離れた席では、あの男が無言で舞台を見ている。
いや――舞台全体ではない。
まだ出てきていない男の位置を、正確に見ていた。
エレナが、一歩前へ出る。
「本日は、お越しいただきありがとうございます」
声が、音舞殿をまっすぐ抜けた。
「今日は最初に、皆さんへお伝えしたいことがあります」
客席が静まる。
エレナは小さく息を吸って、言った。
「これまで、私たちは“歌姫団”として歌ってきました」
そこで少しだけ間を置く。
「でも、今日からは違います」
視線が集まる。
誰もが、その次の言葉を待っていた。
「私たちの名は――『歌姫団ミラベル』です」
一瞬、場が止まる。
次の瞬間、拍手が起きた。
「ミラベル!」
「いい名前だな!」
「やっと正式に来た!」
「待ってたぞ!」
前から話題にはなっていた。
だが、本人たちの口から、舞台の上で名乗るのは初めてだ。
エレナが小さく笑う。
「今日は、その『歌姫団ミラベル』として初めての舞台です」
その一言で、今日の意味が立つ。
ただの公演じゃない。
名を持って立つ、最初の舞台だ。
《視聴者数:581,442》
〈コメント:うわ、これは強い〉
〈コメント:名前つく瞬間好き〉
〈コメント:正式ユニット化きた〉
《ルヴェリア(育成の神):ここまで来たのね》
《エモーシア:名乗りは大事よ。心が立つから》
《フィクサル:土台は出来た。あとは叩き込め》
エレナが下がる。
そして、舞台の脇へ灯りが伸びた。
鍵盤の前に、イグニスが座る。
客席の空気が、そこでまた変わった。
温泉湖では見ない男。
初めて見る鍵盤。
楽団まで含めて、全員が揃うのも今日が初めてだ。
ラウスが、思わず小さく言った。
「……これが、全員揃った形ですか」
レオニスも目を離さないまま答える。
「前は、まだ途中だったんだな」
イグニスが、何の前置きもなく一音鳴らした。
――コロン。
柔らかい。
だが、弱くない。
そこへ弦。
笛。
太鼓。
一曲目は、『ミラベル』。
名を持った七人のための、新しい始まりの歌だった。
エレナの声が前へ出る。
セレスがその上に重なる。
リィナが奥行きを作り、ミルファの高音が細く抜けた。
ナディアが下を支え、リーシャが感情を滲ませ、ミュラが最後に柔らかくほどく。
そして、その全部を、イグニスの鍵盤が一つに束ねて前へ押し出す。
客席の何人かが、最初の数節で息を呑んだ。
これまでの温泉湖の舞台は、歌が先に立っていた。
今日は違う。
歌の後ろに、ちゃんと景色がある。
ラウスは無意識に指を握っていた。
前に見た三人の歌は綺麗だった。
だが、これは綺麗だけでは終わらない。
七人の声に、楽団の音が噛み合った瞬間、歌そのものの重さが変わる。
『ミラベル』が終わる。
拍手。
だが、今日はここで終わらない。
二曲目。
三曲目。
四曲目。
既存曲が続く。
温泉湖で育ててきた歌たちが、今日は別の顔を見せていた。
弦が入るだけで輪郭が変わる。
笛が入るだけで空気が抜ける。
太鼓が入るだけで腹へ落ちる。
そこへ鍵盤が加わると、歌の行き先がはっきりする。
曲の合間には短い話も入った。
ミルファが笑わせ、
ナディアが客席を煽り、
ミュラが空気をほどき、
エレナが締める。
ただ歌を並べているんじゃない。
ちゃんと“ライブ”になっている。
客席も、もうすっかり持っていかれていた。
笑うところで笑い、
静まるところで静まり、
拍手の間も揃い始めている。
《視聴者数:592,418》
〈コメント:つよい〉
〈コメント:もう別物じゃん〉
〈コメント:鍵盤入るだけで景色変わりすぎる〉
〈コメント:これ、王都に見つかるわ〉
《リュケオン:いいぞ、いいぞ》
《ノクティア:鍵盤が全部を通している》
《エルディア(記録の神 ):既存曲の更新幅、大》
《ルヴェリア:育ったわね》
舞台袖で、ゼノは静かに客席を見ていた。
いい。
ここまでは、ほとんど崩れていない。
王子もいる。
王都の使者もいる。
共鳴鈴の販売も控えている。
それでも、今日の主役はちゃんと歌のままだ。
そこへ、イグニスが鍵盤の前で少しだけ目を開いた。
舞台の灯りを受けて、その顔つきが変わる。
普段の半眼が消え、くっきりした二重が浮く。
そして、その横顔を見た瞬間、あの男の表情が変わった。
驚きではない。
確信だ。
「……こんなとこにいたのか」
声は拍手に沈んで、誰にも届かない。
だがその目には、はっきりとした熱があった。
懐かしさじゃない。
好意でもない。
もっと濁っている。
もっと古い。
恨みだ、とゼノは思った。
男はイグニスを知っている。
しかも、良い形ではない。
《視聴者数:598,771》
〈コメント:うわ〉
〈コメント:こいつ絶対ヤバい〉
〈コメント:イグニスの因縁きた〉
〈コメント:客席で火種置くのうまい〉
《ヴァルシオン:過去接続、確定》
《フィクサル:面倒なのが混ざったな》
《エモーシア:嫌な熱だわ》
《リュケオン:でも面白くなってきた》
舞台の上では、エレナが一歩前へ出る。
「次が、今日の最後の新曲です」
ざわめきが、すっと薄くなる。
最後。
新曲。
その二つだけで、客席の期待が一方向へ揃った。
イグニスが最初の一音を鳴らす。
――コロン。
やさしい。
だが、甘くない。
始まりの歌『ミラベル』とは違う。
もっと近い。
もっと一人に届く音だった。
エレナが歌い出す。
「――まだ帰れない、胸の奥が熱いから」
その一節だけで、場が止まった。
セレスが重なる。
「――消えない歌が、指先に残るから」
ミルファが細く抜け、
リィナが空気を深くし、
ナディアが押し、
リーシャが感情を置き、
ミュラが最後をやわらかくほどく。
歌は派手じゃない。
でも、逃がさない。
聞いているうちに、誰もが自分の中の何かを勝手に探し始める。
終わってほしくない夜。
会えなくなる人。
帰り道に一人で持ち帰る熱。
それでも消えてほしくないもの。
レオニスは、無意識に息を詰めていた。
ゼノが面白い男だということは、前から知っていた。
場を作る男。
客を読む男。
先を見る男。
だが、この歌はそういう面白さとは別のところで強い。
純粋に、残る。
「……これは」
レオニスが小さく呟く。
ラウスが、その続きを引き取るように言った。
「心に響きますね」
その言葉に、レオニスは薄く笑った。
「ああ」
客席の中で、あの男だけは笑っていなかった。
ただ、イグニスを見ている。
鍵盤の音を。
間の切り方を。
歌を押し出す癖を。
そして、その目はだんだん冷えていた。
忘れたことなど一度もない。
自分の曲を奪い、自分の居場所を壊した男の音を。
歌は、さらに深く入っていく。
「――灯りの名残を、ひとつ胸に抱いて」
「――あなたの明日へ、そっと連れてゆく」
「――会えない夜でも、声はここにある」
「――遠く離れても、まだ消えはしない」
最後は七人で重なる。
押しつけない。
叫ばない。
けれど、残る。
歌が終わった瞬間、音舞殿は静まり返った。
本当に、一瞬だけ。
誰もすぐには拍手できない。
余韻が、場を押さえていた。
それから。
拍手が爆ぜた。
前からでも後ろからでもない。
音舞殿全体が、遅れて一気に火がついたみたいに鳴る。
ミルファの目が大きくなる。
ナディアが笑う。
エレナは小さく肩の力を抜いた。
リィナが息を吐き、
ミュラの尻尾が揺れ、
リーシャは下唇を噛んでいた。
舞台袖で、ゼノは小さく笑った。
刺さった。
かなり深く。
《視聴者数:618,772》
〈コメント:うわああああ〉
〈コメント:勝った〉
〈コメント:これ売れるわ〉
〈コメント:消えない想い、強すぎる〉
〈コメント:もう欲しい〉
《フィクサル:勝ちだ》
《エモーシア:綺麗に残したわね》
《ラグゼル:ここから金になる》
《ルヴェリア:ちゃんと育った先の歌になってる》
ゼノは左の口角を上げて答えた。
『ああ。ここからだ』
拍手はまだ止まらない。
イグニスは、鍵盤から手を離したまま客席を見なかった。
褒められるために弾いていない顔だ。
その横顔を、あの男は見ていた。
そして、はっきり思っていた。
見つけた。
今度は逃がさない。
新曲は、確かに世に出た。
そして同時に、イグニスの過去もまた、今日この客席で目を開けていた。
次は――
この熱を、鈴へ変える番だった。
――――
次回
第54話 王子が買ったのは、紅の鈴だった




