第52話 開演前、王子は客席へ、厄介な男は舞台裏を見ていた
当日の朝。
温泉郷は静かだった。
けれど、いつもの朝の静けさじゃない。
誰もが少しだけ声を落として、始まる前の空気を壊さないようにしていた。
湖面には白い朝の光が散り、湯気は今日もやわらかく立ちのぼる。
果実酒広場の机はまだ半分しか埋まっていない。
商縁通りの店先も、ようやく開き始めたばかりだ。
それでも、そこを歩く人の顔は、いつもと違っていた。
温泉を楽しみに来た顔じゃない。
旅の疲れを癒しに来た顔でもない。
「今日だろ?」
「新曲の」
「共鳴鈴って何だろうな」
「歌が残るって、本当か?」
朝のうちから、そんな声があちこちで交わされている。
ゼノは、音舞殿の前に立っていた。
建物の正面。
客が集まり、入っていき、終われば出てくる場所。
今日はここが、ただの入口じゃない。
今日はここから全部が始まる。
《視聴者数:501,728》
〈コメント:待ってましたー〉
〈コメント:波乱も起きそうだな〉
《ラグゼル(商運の神):今日は金の匂いがするな》
《リュケオン(娯楽の神):開演前の空気、たまんねえ》
《エモーシア(感情の神):みんな期待を飲み込んでる顔してる》
《神フィクサル:始まる前から、もう勝負だ》
《エルディア(記録の神):本日、初回販売記録を確認》
「机はここで固定します」
ゼノが言うと、ロイドが置いたばかりの販売机を見て頷いた。
「看板はここでいいか?」
「はい。そこなら舞台終わりの流れを切りません」
音舞殿から見える。
果実酒広場へ抜ける導線ともぶつからない。
客の熱を殺さず、そのまま足を止めさせる位置だ。
売るための場所としては、悪くない。
共鳴鈴は、まだ工房に置いてある。
先に見せない。
先に触らせない。
先に欲しがらせすぎない。
今日の主役は、新曲だ。
そこを履き違えれば、全部が鈍る。
歌も、商品も、残るはずの熱も。
「販売は舞台の後。そこは変えません」
念を押すようにゼノが言うと、工房の六人が揃って頷いた。
マギウス。
ラナ。
ミアナ。
ベルク。
ハイン。
ルーク。
「マギウスさんは全体を見てください。補充が詰まりそうなら先に回してほしい」
「ああ」
「ラナさん、ミアナさん、ベルクさんは前で販売を。客に止まってもらうのはそこです」
「分かりました」
「ハインさんとルークさんは後ろ。品を切らさないでください。変な動きがあれば、そっちも見てほしい」
「はい」
初回だ。
何人来るかも分からない。どこで詰まるかもまだ読めない。
だから、流れだけは先に作っておく。
「販売の時は、共鳴鈴から歌を流してください」
ゼノは六人を見渡した。
「共鳴鈴が何なのか、客はまだ分かっていません。だから、ただ置くだけじゃ駄目です」
ベルクが真面目な顔で頷く。
「聞かせる、ってことですね」
「はい。帰る道中でも、宿でも、家に帰ってからでも、好きな時にこの歌を聞ける。そこまで伝えてください」
「まだ世にない物だ」
ロイドが、子供みたいな顔で笑った。
「驚かない奴はいないぞ」
その一言で、工房の空気が少しだけ明るくなる。
「僕たちは……すごい物を作ったんですね」
ルークが、半信半疑のまま口にした。
ゼノは即答した。
「そうです」
迷わない。
そこで曖昧にしたら、職人の手は鈍る。
「皆さんは、まだ世にない物を作りました。
銀貨五枚は高いかもしれません。
でも、それ以上の価値があります」
六人が、少しだけ上を向いた。
自分たちの手で作ったものが、
ただの土産でも、ただの記念品でもないと、
自分たちが何を作ったのか飲み込んだ顔だった。
マギウスが机の前に立ち、ぐるりと周囲を見回した。
「売る前から緊張してる奴が何人かいるな」
ラナがすぐに言い返す。
「してません」
「してる」
「してません」
「声が硬い」
ラナがむっとした顔になる。
その横で、ミアナが小さく吹き出した。
少しだけ空気が緩む。
ゼノは、そのやり取りを見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
まだ硬い。
けれど、崩れてはいない。
「慌てないでください」
六人に向かって、ゼノは言った。
「今日やるのは、売ることだけじゃない。
今日の“買った感じ”を作ることです」
ベルクが首を傾げる。
「買った感じ?」
「はい」
ゼノは頷く。
「同じ物でも、雑に渡されたら軽くなる。
でも、ちゃんと受け取ったと思えた物は残ります」
ルークが、はっとした顔をした。
「じゃあ、急いで回すより、ちゃんと流す方が大事ですね」
「そうです」
ゼノは短く答える。
「並ばせるなら、並ばせた意味を作る。
待たせるなら、待った価値を作る。
今日は最初だから、それを覚えて帰ってもらう」
マギウスが笑った。
「相変わらず、そういうの好きだな」
「好きというか、それが残るので」
ロイドが口を挟む。
「値段を見て帰る奴もいるぞ」
「います」
「銀貨五枚は、やっぱり高い」
「高いです」
ゼノはあっさり認めた。
「でも、それでいい」
宿五泊分。
安い買い物じゃない。
だからこそ、舞台の熱が残っていないと客は手を出さない。
逆に言えば――刺されば、買う。
その線だ。
《視聴者数:516,882》
〈コメント:販売の話なのにおもろい〉
〈コメント:買った感じを作る、つよい〉
〈コメント:職人側の熱が上がってくの好き〉
《ラグゼル:値で売るな。熱で動かせ》
《エモーシア:迷って、それでも欲しくなる時が一番深いのよ》
《リュケオン:今日は面白くなりそうだ》
《フィクサル:ぶれるな、ゼノ》
ゼノは心の中だけで笑った。
『分かってる』
その時だった。
机の上に置かれた共鳴鈴の試作品が、ちり、とかすかに震えた。
誰も触っていない。
六人が一斉にそちらを見る。
次の瞬間、ゼノの視界にだけ、淡い文字が浮かび上がった。
《システム通知》
《工房従事者の功績を確認》
《初回販売および歌響定着への貢献を評価》
《投げ加護の分配を開始します》
ゼノはわずかに目を細める。
来た。
細い光の筋が、六人それぞれへ落ちていく。
《投げ加護:フィクサル → マギウス》
《統制補助:流導把握》
《効果:全体の流れ・停滞・不足箇所の把握精度 上昇》
《投げ加護:エモーシア → ラナ》
《対面補助:安心笑顔》
《効果:客の緊張緩和・購買時の安心感 微上昇》
《投げ加護:エルディア → ミアナ》
《販売補助:説明定着》
《効果:商品説明の抜け漏れ軽減・案内精度 上昇》
《投げ加護:ラグゼル → ベルク》
《販売補助:価値伝達》
《効果:価格に見合う価値の伝達力 微上昇》
《投げ加護:ヴァルシオン(推命の神) → ハイン》
《警備補助:異変察知》
《効果:列の乱れ・不穏行動・詰まりの早期察知》
《投げ加護:リュケオン → ルーク》
《補充補助:軽快巡回》
《効果:補充移動効率 上昇・場の回転補正 微増》
《追加補正》
《工房連携補正:初回販売陣形》
《効果:受け渡し・補充・誘導の噛み合い向上》
〈コメント:加護きたー〉
〈コメント:裏方に投げるの好き〉
〈コメント:これは熱い〉
《フィクサル:現場指揮はお前だ、マギウス》
《エモーシア:ラナ、いい顔で売りなさい。客はそれで安心するわ》
《エルディア:ミアナ、言葉を落とすな。初回説明は大事だ》
《ラグゼル:ベルク、値札ではなく価値を通せ》
《ヴァルシオン:ハイン、乱れは先に摘め》
《リュケオン:ルーク、止まるな。場を転がせ》
ゼノは、何も言わない。
ここで表情を変えると、余計な緊張を呼ぶ。
代わりに六人を見る。
まずラナが頬に手を当てた。
「……あれ?」
さっきまでの硬さが、少し抜けている。
ミアナも喉元を押さえている。
ベルクは黙ったまま手を握り直した。
その横で、ハインの目だけがもう外を走っていた。
「……見やすい」
低く呟いたのはマギウスだった。
「流れが、頭に入ってくる」
ゼノは、小さく頷いた。
全員、ちゃんと乗った。
文字は見えていない。
それでも、何かが乗ったのは全員分かっていた。
「どうしました?」
ミアナが不思議そうに聞く。
ゼノは短く答えた。
「いえ。回せそうだと思っただけです」
ラナが眉を寄せる。
「回せそうって……何がです?」
「今日の売り場です」
ゼノは六人を順番に見た。
「いけます。今日は回せます」
マギウスが少しだけ笑う。
「……なんだそれ。急に確信ありげだな」
「あります」
ゼノは迷わず言った。
「マギウスさんは全体を見てください。止まりそうな場所があれば、先に動かす。補充の指示もそのままお願いします」
「ああ」
「ラナさんは前に立ってください。最初に客が安心する顔を作ってください」
ラナが少しだけ戸惑いながらも頷く。
「は、はい」
「ミアナさんは説明役です。どのような物なのかを教えてあげてください」
ミアナが目を瞬かせる。
「……やってみます」
「ベルクさんは値段を怖がらなくていいです。価値を通してください」
ベルクが鼻で笑う。
「はい。自信が出ました」
「ハインさんは列と周りを見てください。変な詰まりや、不自然な動きがあれば先に潰してください」
ハインはすぐに頷いた。
「分かりました」
「ルークさんは止まらないでください。補充と警備、両方を軽く回せます」
「はい!」
ルークの返事が、一番強かった。
六人の顔つきが変わる。
何が起きたのかは分からない。
けれど、体だけはもう動ける気でいた。
それで十分だった。
《視聴者数:528,114》
〈コメント:裏方が覚醒してく〉
〈コメント:この回すごい好き〉
〈コメント:販売始まる前なのに熱い〉
《エモーシア:見えてないのに効いてるの、好き》
《ラグゼル:作り手に自覚が乗ると、品はさらに伸びる》
《フィクサル:指揮を切れ、ゼノ》
《リュケオン:いいじゃん、裏まで熱くなってきた》
ルークが、ゆっくり顔を上げる。
「……売れますか、じゃなくて」
その声に、皆が振り向く。
「売らなきゃ、ですね」
一番若いその一言で、空気が決まった。
「……みんなの表情かなり良くなってないか?」
マギウスが低く言う。
ゼノは、心の中だけで笑った。
『そりゃそうだ。お前たちに直接、乗ってるからな』
「気のせいじゃないと思います」
そうだけ言った。
六人の顔つきが変わる。
もう手伝いの顔じゃない。
今日の売り場を背負う顔だった。
――
昼を少し過ぎた頃には、音舞殿の周りに人が増え始めていた。
まだ開場には早い。
それでも今日は、早く来る。
温泉湖の方を歩いていた旅人。
商縁通りで時間を潰していた客。
何度か顔を見ている常連。
そして、ミラベルを見に来たのだと一目で分かる女たち。
音舞殿の前には、まだきっちりした列は出来ていない。
だが、なんとなく人が集まり始める、あの感じがある。
ゼノは少し離れた位置から、その流れを見ていた。
誰が早く来たか。
誰が落ち着かないか。
誰が何を見ているか。
誰が、客の顔をしていないか。
その時だった。
ロイドが、少し早足で近づいてくる。
「来たぞ」
ゼノは目線を動かさないまま聞く。
「どっちです?」
「たぶん、両方だ」
ゼノはそこで、ようやく人の流れへ視線を滑らせた。
すぐに分かった。
まず一人。
地味な上着。旅人としては不自然じゃない。
だが、歩き方に無駄がない。
視線は落ち着き、周囲を見ているのに、少しも泳がない。
その少し後ろに、護衛に見えなくもない男が一人。
さらに、目立たない服を着た女が一人。
隠している。
だが、隠し方が慣れている側のそれだ。
「ラウスか」
ゼノが小さく言う。
ロイドが眉を上げた。
「分かるか」
「分かります」
その一団の中心にいる男。
髪も服も目立たない。
なのに、立っているだけで妙に目が引かれる。
客の顔をしている。
だが、客席に入る前からもう、その場に似合いすぎていない。
第一王子レオニスだった。
正体を隠す気はある。
だが、あれで隠れ切ると思っているなら少し甘い。
「本当に来たな」
ロイドが小声で言う。
「来ると思ってました」
「どうする」
「どうもしません」
ゼノは言った。
「客として来るなら、客のままでいい」
そこで終わっていれば、予定通りだった。
だが今日は、もう一人いる。
ゼノの視線が、通りの反対側へ滑る。
男がいた。
年は三十を少し越えたくらい。
整った上着。
指先に薄く残ったインクの汚れ。
楽団か作曲家か、そちら側の人間に見える。
だが気になったのは、目線だった。
客席じゃない。
舞台の奥を見る目だ。
歌姫団でもない。
楽器でもない。
鍵盤の置かれる位置と、そこへ出入りする裏の動線を見ている。
「……あっちも来たか」
ロイドがその視線を追う。
「あれか?」
「多分」
男は音舞殿を見ているようでいて、実際には別の何かを探していた。
そして、その目が一瞬だけ歌舞殿の舞台の方角へ流れる。
ゼノはそこで、確信を一段深めた。
あれはミラベルを見に来た目じゃない。
イグニスを探している目だ。
《視聴者数:544,902》
〈コメント:王子きた〉
〈コメント:もう一人誰だよ〉
〈コメント:イグニス関係者っぽいな〉
〈コメント:急に不穏〉
《ヴァルシオン:不確定要素、増加》
《リュケオン:きたきたきた》
《エルディア:過去接続の気配あり》
《フィクサル:面白くなってきたな》
「知り合いか?」
ロイドが聞く。
「いいえ。でも、向こうはイグニスを知ってるかもしれない」
その一言で、ロイドの顔つきが変わる。
「面倒か?」
「まだ分かりません」
ゼノは男を見たまま言う。
「ただ、今日ここへ来た時点で、偶然ではない」
男は客の流れに混ざるように歩き、音舞殿の入口近くで足を止めた。
声はかけない。
だが、ただ待つ客の顔でもない。
何かを確かめに来ている。
ゼノは小さく息を吐いた。
『今日は本当に、混ぜてくるな』
――
開場が近づく。
音舞殿の前には、今度こそきちんとした列が出来始めていた。
押し合いはない。
ざわめきはある。
期待がある。
中に入れば、新曲。
終われば、共鳴鈴。
それを客たちも知っている。
それでも、客が一番見たいのは舞台だ。
そこがまだ崩れていないことに、ゼノは少しだけ安心した。
そこへ、歌舞殿の控え室の方からエレナたちが来た。
まだ衣装の上に軽い外套を重ねている。
本番前だ。
エレナがゼノを見る。
「お客、増えてきましたね」
「増えました」
ミルファが少しだけ声を潜めた。
「なんか……今日はいつもより変な緊張します」
「いつもより大きい日なので」
ナディアが列を見る。
「へえ。もうあれだけいるのか」
リィナは視線を滑らせ、ラウスたちの辺りを一瞬だけ見た。
そして小さく言う。
「普通のお客ではない方が、何人かいますね」
さすがに鋭い。
「います」
ゼノは小さく頷く。
「危険?」
リーシャが聞く。
「今のところは違います」
ゼノは答えた。
「ただ、今日は舞台の外にも、いろいろ混ざってます。
だからこそ、中では歌だけ見てください」
セレスが静かに目を伏せる。
「分かりました」
ミュラが少しだけ尻尾を揺らした。
「新曲、ちゃんと刺さるにゃ?」
ゼノは短く言った。
「刺さる」
迷いなく。
断言で。
「だから、余計なことは気にしなくていい」
その一言で、七人の顔つきが変わる。
エレナが頷く。
「はい」
大丈夫だ。
今日の舞台は、歌だけでは終わらない。
だが、最初に立つべきものは、やはり歌だ。
そこさえずれなければ、崩れない。
《視聴者数:558,003》
〈コメント:刺さる、きた〉
〈コメント:ゼノの断言好き〉
〈コメント:歌で黙らせろ〉
《リュケオン:それでいい》
《エモーシア:先に心を取ってしまいなさい》
《フィクサル:舞台が先だ》
――
開場の時刻が来た。
係が声を上げる。
列がゆっくりと動き始める。
客たちが、順番に音舞殿へ吸い込まれていく。
ラウスたちも、何事もない顔で流れに乗った。
レオニスも同じだ。
変に目立とうとはしていない。
ちゃんと客として来ている。
それなら、問題ない。
そして、あの怪しい男もまた、少し遅れて入っていく。
客席に入る前、ほんの一瞬だけ舞台の横側を見た。
その視線は、やはり舞台ではなく、舞台裏の誰かを探す目だった。
ゼノは、それを見逃さなかった。
「……来るな」
小さく呟く。
ロイドが聞く。
「何が」
「終わった後です」
ゼノは答えた。
「舞台が終わった後、たぶん動く」
ロイドが顔をしかめる。
「王子の方か、あの男か」
「両方」
ゼノはそう言って、最後の客が入るのを見届けた。
やがて、音舞殿の入口が閉まる。
外のざわめきが、すっと薄くなる。
中ではもう、開演前の空気が張り詰めているはずだ。
ゼノは、閉じられた扉を見た。
客席には、ただの客ではない者たちが混ざっている。
第一王子。
王都の使者。
そして、イグニスの過去を知っているかもしれない男。
それでも、舞台は始まる。
新曲は今日、ここで初めて世に出る。
工房も、歌姫団も、もう引けない。
《視聴者数:571,220》
〈コメント:うわ始まる〉
〈コメント:客席濃すぎるだろ〉
〈コメント:舞台外も気になるのずるい〉
《リュケオン:いいな、この開く前の張り》
《エモーシア:誰の胸にも、まだ同じだけ期待がある》
《フィクサル:見せろ、ゼノ》
《ラグゼル:ここからだ》
ゼノは、小さく息を吐いた。
『ああ。ここからだ』
そして、音舞殿の灯りが落ちた。
⸻
次回
第53話 新曲披露――そして、イグニスの過去が客席にいた




