第42話 『ミラベル』の次の歌
夕方。
温泉湖の二回目のステージが終わる頃には、空が少しだけ赤みを帯びていた。
湯気も昼とは違う色になる。
湖面に夕方の光が揺れ、客たちのざわめきもどこか柔らかい。
ミラベルの七人と音楽団は、そのまま歌舞殿へ向かった。
中へ入ると、イグニスはもう鍵盤の前にいた。
いつもの半眼。
紙が何枚か置かれている。
だが今日は、空気が少し違った。
ミュラが尻尾を大きく揺らす。
「出来たのにゃ!?」
「出来た」
イグニスはそれだけ言う。
ナディアが笑う。
「じゃあ、聞かせろ」
イグニスはすぐには弾かなかった。
代わりに、全員の顔を一度見た。
半眼が開く。
くっきりした二重が現れた瞬間、顔つきが変わる。
リィナがわずかに息を止めた。
セレスも静かに目を瞬く。
ゼノは、内心で少し笑う。
やっぱりこの男は、その気になれば顔が強い。
「これは『ミラベル』とは違う」
イグニスが言った。
「始まりの歌じゃない」
「じゃあ、何の歌なんだ?」
ダリオが聞く。
イグニスは少しだけ考えるように鍵盤へ指を置いた。
「……残る熱の歌だ」
そのまま、弾いた。
――コロン。
最初の一音で、空気が変わる。
『ミラベル』みたいな、真っ直ぐ前へ開く音じゃない。
もっと近い。
もっと柔らかい。
けれど、甘いだけでもない。
夜に灯りが残るみたいな音だった。
次の音。
もう一音。
イグニスが歌う。
少し高めで、掠れを帯びた声。
「――まだ帰れない、胸の奥が熱いから」
ミルファが目を見開く。
「――消えない歌が、指先に残るから」
エレナの喉が、小さく動く。
『ミラベル』とは全然違った。
始まりを告げる歌じゃない。
舞台が終わったあと、帰り道でふと思い出す歌。
ひとりになった時に、もう一度聞きたくなる歌。
イグニスはそのまま歌い続ける。
「――灯りの名残を、ひとつ胸に抱いて」
「――あなたの明日へ、そっと連れてゆく」
「――会えない夜でも、声はここにある」
「――遠く離れても、まだ消えはしない」
リーシャが、思わず胸の前で手を握った。
リィナは無言のまま、ただ聞いている。
ナディアの笑みが消えている。
セレスは紙を見ることすら忘れていた。
歌い終わる。
静かだった。
最初に声を出したのは、ミュラだった。
「……好きにゃ」
それは、妙に力のある一言だった。
ナディアが遅れて笑う。
「分かる」
ミルファは両手を胸の前で握っていた。
「全然違います……! でも、すごくいいです!」
セレスがゆっくり息を吐く。
「近いですね」
リィナも頷く。
「ええ。客席じゃなくて、その先に残る歌です」
エレナは、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「……これ、持ち帰りたくなる歌です」
その一言に、ゼノは目を細めた。
それだ。
まさに、そこだった。
イグニスは平然としている。
「そう作った」
ダリオが吹き出す。
「自信あるな、お前」
「ある」
カイルスが笑う。
「嫌いじゃねえ」
ボルグも短く頷いた。
「強い」
ゼノは全員を見た。
「これでいく」
場の空気が締まる。
「二週間後、音舞殿でこの曲を発表する」
七人が息を呑んだ。
「同時に、共鳴鈴を販売する」
今度は、音楽団の面々も目を上げた。
ゼノは続ける。
「録音用の曲は五曲。
『ミラベル』。今まで歌ってきた三曲。
そして、この新曲」
ミルファが、ぱっと顔を上げる。
「録音、するんですね!」
「ああ」
ゼノは頷く。
「五日後です」
さすがに、その言葉には何人かが固まった。
「五日後!?」
ミュラが大きな声を出す。
ナディアも笑った。
「急だな、おい」
「急ぎます」
ゼノは容赦なく言う。
「五日後に録る。
それまでに、完璧に仕上げる」
セレスが紙を見下ろす。
「かなり詰めますね」
「詰める」
イグニスが、ゼノより先に答えた。
「五日あるなら十分」
リーシャが、おそるおそる口を開く。
「……頑張れば、間に合いますか」
「頑張るだけじゃ駄目だ」
イグニスが言う。
「噛み合わせる」
その言い方に、リィナが静かに頷く。
「ええ。量より精度ですね」
エレナは、皆を見回した。
七人の顔には、不安より先に熱があった。
いける。
難しい。
でも、やる。
「……やろう」
エレナが言った。
「五日で仕上げる」
ミルファが勢いよく手を上げる。
「やります!」
ミュラの尻尾が大きく揺れる。
「売るなら、絶対きれいに歌いたいにゃ!」
ナディアが口元を上げる。
「面白くなってきた」
セレスも静かに頷いた。
「ええ。やりましょう」
リィナの目が、深く細くなる。
「ここで決めたいですね」
リーシャも、小さく、でもはっきり言った。
「……私も、頑張ります」
ゼノはそれを見て、短く頷いた。
「よし」
そしてイグニスを見る。
「歌詞、みんなに渡して」
イグニスは紙を差し出した。
題は、まだ書かれていない。
「題は?」
ゼノが聞く。
「まだ」
「今回も決めないのか」
「歌ってから決める」
前と同じ返しだった。
だが今回も、それでいいと思えた。
この歌は、五日で仕上げる。
録音する。
そして二週間後、音舞殿で人前に出る。
題は、それまでに決まればいい。
ゼノは紙を受け取った。
そこに書かれた歌詞を、もう一度目で追う。
――まだ帰れない、胸の奥が熱いから
――消えない歌が、指先に残るから
――灯りの名残を、ひとつ胸に抱いて
――あなたの明日へ、そっと連れてゆく
――会えない夜でも、声はここにある
――遠く離れても、まだ消えはしない
悪くない。
いや、かなり強い。
『ミラベル』が始まりなら、こっちは残響だ。
舞台のあとに、胸に残る熱だ。
共鳴鈴で持ち帰らせるには、むしろこちらの方が向いているかもしれない。
ゼノは小さく笑った。
「忙しくなるな」
ダリオが楽しそうに笑う。
「今さらだろ」
リュシエルも静かに口元を緩める。
「ええ。ですが、悪くありません」
ボルグが短く言った。
「やることは決まった」
カイルスがばちを軽く回す。
「五日。分かりやすくていい」
歌舞殿の中には、もう新しい熱が満ち始めていた。
始まりの歌がある。
その次の歌も来た。
録音も、販売も、初披露も、もう全部先に見えている。
なら、あとは間に合わせるだけだ。
ゼノは舞台を見上げた。
『五日で仕上げる。二週間後に売る』
神々が、それを聞いている気がした。
外では、夜の温泉郷が少しずつ灯りを増していく。
湖面に光が揺れる。
その光みたいに、歌もまた増えていく。
《視聴者数:368,417》
〈コメント:二曲目きたあああ〉
〈コメント:ミラベルと全然違うの強い〉
〈コメント:五日後録音、二週間後販売は熱い〉
〈コメント:イグニスが昼飯誘う時点で勝ち回〉
《神コメント:良い》
《神コメント:急げ》
《神コメント:売れ》
ゼノは、少しだけ笑った。
『言われなくても、そのつもりだ』
その時だった。
視界の端に、透明な文字が静かに滲む。
《投げ加護:微細祝福(累積)》
《影響範囲:歌声/場の安定/安心感》
《残響定着補正:微増》
ゼノは、わずかに目を細めた。
来た。
派手な光はない。
誰かの身体が光るわけでもない。
だが、こういう加護ほど効く。
声の角が取れる。
場が落ち着く。
聞いたあとの熱が、少し長く残る。
今のミラベルに、これ以上なく噛み合う補正だった。
当然、誰も気づいていない。
神が見ていることも、加護が降ることも、ここにいる誰も知らない。
知っているのはゼノだけだ。
それでいい。
下手に意識させるより、その方が歌はいい。
ゼノは手の中の歌詞へ、もう一度目を落とした。
――まだ帰れない、胸の奥が熱いから
――消えない歌が、指先に残るから
――灯りの名残を、ひとつ胸に抱いて
――あなたの明日へ、そっと連れてゆく
――会えない夜でも、声はここにある
――遠く離れても、まだ消えはしない
かなり強い。
『ミラベル』が始まりなら、こっちは残る歌だ。
共鳴鈴で持ち帰らせるなら、むしろこちらの方が向いている。
しかも、今は神が乗った。
なら、迷う理由はない。
録る価値がある。
売る意味がある。
「忙しくなるな」
ゼノは小さく言った。
ダリオが楽しそうに笑う。
「今さらだろ」
リュシエルも静かに口元を緩める。
「ええ。ですが、悪くありません」
ボルグが短く言った。
「やることは決まった」
カイルスがばちを軽く回す。
「五日。分かりやすくていい」
歌舞殿の中には、もう新しい熱が満ち始めていた。
始まりの歌がある。
その次の歌も来た。
録音も、販売も、初披露も、もう全部先に見えている。
なら、あとは間に合わせるだけだ。
ゼノは舞台を見上げた。
『五日で仕上げる。二週間後に売る』
その言葉に応えるみたいに、また文字が落ちる。
《神コメント:良い》
《神コメント:残せ》
《神コメント:広げろ》
次の瞬間。
手の中の歌詞用紙の下、ほんのわずかに空いていた余白へ、淡い金の線がすっと走った。
ゼノの呼吸が、一瞬だけ止まる。
光は細く、静かで、他の誰にも見えていない。
だが、見間違えるはずがない。
金の線はそのまま、流れるように文字を結んでいく。
題名だった。
まだ誰も決めていないはずの、新曲の題。
ゼノは目を離さず、その文字を読む。
――消えない想い
胸の奥に、すとんと落ちた。
長すぎない。
けれど短すぎもしない。
この歌に合っている。
『ミラベル』みたいに正面から掲げる名じゃない。
歌ったあとに意味が残る題だ。
「どうした?」
ナディアが聞く。
ゼノは顔を上げる。
「いや」
軽く肩をすくめた。
「題、決まりそうだと思ってな」
イグニスが半眼のまま返す。
「まだ決めてない」
「でも、見えてきただろ」
イグニスは少しだけ黙ったあと、
「……まあ」
とだけ言った。
ゼノは内心で笑う。
見えてきた、どころじゃない。
もう落ちてる。
しかも神直々に。
外では、夜の温泉郷が少しずつ灯りを増していた。
湖面に揺れる光が、歌舞殿の柱に淡く映る。
その揺れを見ながら、ゼノは思う。
この歌は伸びる。
舞台で終わらない。
帰り道まで残る。
寝る前にも、きっと思い出す。
そういう歌だ。
そして、そういう歌には、神が黙っていない。
《視聴者数:374,982》
〈コメント:二曲目の名前気になる〉
〈コメント:残る系の歌めっちゃ好き〉
〈コメント:録音前にもう熱い〉
〈コメント:これ共鳴鈴にしたら強いやつ〉
《神コメント:記せ》
《神コメント:忘れるな》
《神コメント:その名で行け》
ゼノは、そこで確信した。
曲名はもう決まりだ。
――消えない想い
悪くない。
いや、かなりいい。
なら次は、これを五日で録れる形まで持っていく。
その時だった。
歌舞殿の外、開け放した戸口の向こうから、温泉郷の風がふっと吹き込んでくる。
紙の端がわずかに揺れた。
同時に、舞台袖へ置いてあった試作品の共鳴鈴が、誰も触れていないのに、小さく鳴った。
――チリン。
歌舞殿の空気が、一瞬だけ止まる。
「……あ?」
カイルスがそちらを見る。
ミュラも尻尾を止めた。
「今、鳴ったにゃ?」
ダリオが眉を寄せる。
「誰か触ったか?」
「いや」
ボルグが短く言う。
「誰も動いてない」
イグニスも半眼のまま、舞台袖を見た。
ゼノは黙ってその鈴を見る。
試作品だ。
まだ売り物でもない。
ただ置いてあっただけの一個。
なのに、鳴った。
偶然じゃない。
たぶん、新曲だ。
この歌に、反応した。
神が乗った直後に。
題が落ちた直後に。
ゼノはゆっくり口元を上げる。
面白い。
五日後の録音まで、時間はほとんどない。
だが、どうやら間に合わせるだけでは終わらないらしい。
新しい歌の熱は、もう鈴にまで届き始めていた。
――――
次回
第43話 イグニスの「もう一回」




