第39話 無詠唱の魔法
午前の温泉湖は、今日もにぎわっていた。
湖面に光が跳ねる。
湯気が風に流れる。
果実酒広場では、朝から来た旅人たちが湯上がりの顔で笑っている。
ここに来る目的は人それぞれだが、ミラベル目当ての客も更に増えている。
「今日はミュラとナディアとリィナだろ。今日は昼と夕方の両方を見るんだ」
「俺も俺も」
「僕は昼の部だけしか見れないんです」
何度も顔を合わすうちに、いつしか客同士が仲良くなり、幾つかのグループも出来ていた。
朝から歌舞殿の中では、エレナ、セレス、ミルファ、リーシャの四人が楽譜を手にしていた。
後の三人は昼のステージが終わった後、合流する事になっている。
鍵盤の前では、イグニスが相変わらず眠そうな顔で座っていた。
「最初」
短く言う。
エレナが息を吸う。
セレスがその横で、静かに音を待つ。
ミルファはもう、体が先にリズムを取っていた。
イグニスの鍵盤が入る。
――コロン。
エレナが歌い出す。
まだ少し硬い。
だが昨日よりは、はっきり前へ出ていた。
セレスが重ねる。
ミルファの高音が、その上を抜ける。
「止めろ」
イグニスがすぐに言った。
ミルファがびくっと肩を揺らす。
「え、私ですか!?」
「抜けすぎ」
「ええっ」
「気持ちいいのは分かるけど、今はお前が前に出る場所じゃない」
ミルファがむっと頬を膨らませる。
「だって、気持ちいいんですもん……」
横でエレナが少し笑った。
「分かるけど、言われてることも分かるよ」
セレスも頷く。
「今はまだ、三人の声を揃えるところですから」
ミルファはむう、と唸ってから、素直に頷いた。
「……はい」
イグニスはまた鍵盤を鳴らす。
――コロン。
――トン。
「エレナが軸だ。
セレスはその上を光らせる。
ミルファは、その先を抜く。今は支えろ」
「はい」
今度は三人とも、さっきより噛み合った。
歌舞殿の端でそれを見ていたゼノは、小さく頷く。
いい。
一気に完成はしない。
だが、少しずつ歌になっている。
初披露の前に、まず録音したい。
そのためには、舞台の熱とは別に、形を整える時間が要る。
だからゼノは、歌をイグニスに任せた。
もう、任せられる。
ゼノは歌舞殿を出た。
――
村道は、以前より人の気配が増えていた。
子どもの笑い声。
新しく来た者たちの足音。
運ばれる荷車。
遠くから聞こえる木槌の音。
村は、確実に広がっている。
なら、学ぶ場所も広げなければならない。
長老の家へ着くと、ちょうどサラが外へ出てきたところだった。
「あら、ゼノ」
「ちょうど良かった。少し相談したいことがあるんです」
サラはすぐに察したように微笑んだ。
「学校のこと?」
「はい」
「中で話しましょう」
家に入ると、朝の光が障子越しにやわらかく落ちていた。
サラは慣れた手つきで茶を用意し、向かいに座る。
「それで? どこまで考えているの?」
ゼノは紙を一枚広げた。
「場所は前に話した通り、住居地帯の隣です。
問題は中身です」
「中身?」
「教室をどう分けるか。
年齢ごとにするか、読み書きと魔術で分けるか。
それと、今後人が増えた時にどう広げやすくするか」
サラの目が、少し真剣になる。
「……そこまで考えているのね」
「建てて終わりにはしたくないので」
サラは少しだけ笑った。
「あなたらしいわ」
ゼノは紙の上に簡単な区画線を引いた。
「今のところ考えているのは、最初から部屋を細かく切りすぎない形です。
大きめの教室を二つ。
あと、小さい部屋を一つ。
必要に応じて仕切れるようにする」
サラはすぐに頷かなかった。
代わりに少し考えてから言う。
「悪くないわ。でも、子どもって年齢だけじゃ分けにくいの」
「学力差ですか?」
「ええ。読み書きが全くできない子と、少しできる子を一緒にすると、どちらも苦しくなる」
ゼノはすぐに線を引き直した。
「なら、最初の大教室は読み書きの初歩用。
もう一つは、少し進んだ子向け」
「そうね」
サラは指先で紙の端を押さえた。
「それと、小さい部屋は魔術だけじゃなく、静かに話を聞きたい子にも使えるようにしたいわ。
子どもの中には、大勢の場が苦手な子もいるから」
ゼノはその言葉に、少しだけ目を細めた。
「……なるほど」
そこは、自分だけでは出てこない視点だった。
サラは続ける。
「机と椅子も、最初から固定しない方がいいわ。
人数で変えたいし、時には輪になって話す方がいいこともあるから」
「分かりました。
じゃあ中央を広く取って、壁際に収納を作ります」
サラが目を瞬く。
「……今ので、もう形が見えたの?」
「だいたいは」
ゼノはさらりと答えた。
サラはじっとゼノの顔を見る。
「前から思っていたけれど……あなた、設計の速さがおかしいわね」
ゼノは少しだけ肩をすくめる。
「慣れてるだけです」
「それだけじゃ説明がつかないわ」
サラの目が細くなる。
「建築の時も思っていたの。
あなた、魔法を使う時、詠唱していないでしょう?」
ゼノは一瞬だけ黙った。
それを見て、サラの表情が変わる。
「やっぱり」
静かな驚きが、その声にはあった。
「無詠唱なの?」
「……そうなりますね」
サラは、すぐには言葉を返さなかった。
湯飲みを置く音だけが、小さく響く。
「ゼノ」
やや低い声だった。
「無詠唱は、上級魔法の領域よ」
ゼノは何も言わない。
サラは続ける。
「この国でも、ほんの僅かしかいない。
王都でも、そう何人も見ないわ」
その目には、驚きだけじゃなく、別の感情も混じっていた。
不安。
納得。
そして、少しの警戒。
「あなた、本当に何者なの?」
ゼノは一瞬だけ、答えを探した。
追放された生活魔法使い。
神に見られている男。
村で、歌だの学校だの、好き放題やっている人間。
どれも間違っていない。
でも、どれも答えじゃない。
だから、少しだけ笑った。
「村人です」
サラが、呆れたように息を吐く。
「そういうところよ」
けれど、その顔はどこか安心していた。
ゼノが本気で隠したいなら、もっと誤魔化しただろう。
今の返しは、半分だけ本音だ。
サラは紙へ視線を戻す。
「……まあいいわ。今さらね」
「助かります」
「助けてるのは私じゃないわ。
あなたが、村に必要なものをちゃんと作ろうとしてるから、話してるの」
ゼノは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
少しの沈黙。
それからサラが、また紙を指した。
「でも、教室だけじゃ足りないわ」
「というと?」
「外にも少し空間が欲しいの。
子どもは座ってるだけじゃ駄目。
外で覚えることも多いから」
ゼノはすぐに紙の外側へ線を足す。
「校庭、ですか」
「立派じゃなくていいわ。
でも、走ったり、並んだり、簡単な魔術を試したりできる場所」
ゼノはすぐに紙の外側へ線を足した。
「分かりました。取ります」
サラは、その返事の速さにまた少し笑う。
「本当に早いわね」
「遅いよりは」
「そういう話じゃないんだけど」
二人の間に、少しだけ柔らかい空気が流れた。
ゼノは紙を見下ろした。
教室二つ。
小部屋一つ。
収納。
外の空間。
今後の増築余地。
頭の中では、もう建物の形が立ち上がり始めていた。
その時、淡い光が視界の端で弾けた。
《システム通知》
《生活魔法:学舎形成起動条件 調整中》
《補助対象:教育施設》
《教室配置最適化》
《採光補正》
《導線安定》
《安全性上昇》
ゼノはわずかに目を細めた。
来た。
サラが気づいたように顔を上げる。
「どうしたの?」
「いえ」
ゼノは静かに答える。
「少し、建てやすくなりました」
サラは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「もう驚かない方がいいのかしら」
「驚いてもいいと思います」
「そうするわ」
紙の上の学校は、もうただの案ではなくなった。
歌舞殿では、今ごろ四人が『ミラベル』を歌っている。
温泉湖では、今日も人が集まっている。
商縁通りでは、客が流れ始めている。
村は広がっている。
なら、学ぶ場所も要る。
ゼノは、紙をそっと押さえた。
「……こっちも、始めます」
サラが頷く。
「ええ。お願い」
その声は、教師のものだった。
ゼノは立ち上がる。
学校。
歌。
商い。
どれも別々に見えて、全部、村の未来に繋がっている。
家を出る頃には、朝の光が更に眩しくなっていた。
歌舞殿の方角から、遠くかすかに、四人の声が風に乗ってくる気がした。
ミラベルは歌を育てている。
ゼノは村を育てる。
そのどちらも、もう止まらない。
《視聴者数:318,507》
〈コメント:学校も来た〉
〈コメント:生活魔法の使い方が神〉
〈コメント:サラ先生いいな〉
〈コメント:無詠唱さらっとやばすぎる〉
《神コメント:学びも歌も育てろ》
《神コメント:良い流れだ》
ゼノは、少しだけ笑った。
『分かってる。両方やる』
そして、心の中で次を決める。
学校を建てる。
歌を録る。
ミラベルを世に出す。
やることは多い。
だが、その全部が前に進んでいる。
次は学校を建てる番だ。
――――
次回
第40話 新しい学校と、天才の新曲




