第37話 始まりの歌
イグニスが紙の上に走らせた線は、ただの走り書きには見えなかった。
そこには、もう歌の軸があった。
鍵盤に置かれた指先が、短く音を拾う。
――コロン。
――トン。
――コロン。
澄んだ音が、歌舞殿の中に静かに転がった。
エレナは、その旋律を聞いた瞬間に分かった。
これは、自分たちの歌になる。
《視聴者数:286,502》
〈コメント:うわ、生まれた〉
〈コメント:これが制作か〉
〈コメント:七人の声から曲作ってるの熱い〉
〈コメント:もう泣きそうなんだが〉
《神コメント:始まったな》
《神コメント:これは残る》
《神コメント:次は歌わせろ》
ゼノは小さく笑った。
『言われなくても、そのつもりだ』
イグニスは紙を見下ろしたまま言う。
「とりあえずここまで。
次は、これを七人に覚えさせる」
ミュラがぱっと手を挙げる。
「はいにゃ! 質問!」
「何」
「難しいにゃ?」
イグニスは少しだけ考えた。
「難しい」
ミュラが固まる。
だが次の瞬間。
「でも、お前らなら歌える」
ぶっきらぼうだった。
だけど、その一言だけで七人の顔が変わった。
エレナが小さく息を吸った。
「……はい」
その横でミルファはもう前のめりになっている。
ミュラの尻尾が大きく揺れ、ナディアが面白そうに笑った。
ゼノはその光景を見て思う。
大丈夫だ。
音は、もう揃い始めている。
だが、その時だった。
歌舞殿の外から、遠く水音混じりの風が流れ込む。
温泉湖の方角だ。
エレナがはっとして、外の明るさを見た。
「……まずい」
ミルファも目を丸くする。
「あっ、温泉湖のステージ!」
ナディアが肩をすくめる。
「忘れてたわけじゃねえよな?」
「わ、忘れてません!」
ミルファが慌てて両手を振る。
だがその顔は、半分くらい本気で忘れかけていた顔だ。
ゼノは苦笑した。
「今日はまだ終わってない。七人は温泉湖へ戻れ」
エレナがすぐに姿勢を正す。
「はい」
セレスが紙を見つめたまま言う。
「……続きは、明日ですね」
「そうだ」
ゼノは頷く。
「今は舞台を優先しろ」
リィナが静かに頭を下げる。
「分かりました」
リーシャは少し名残惜しそうにイグニスの紙を見た。
「続き、気になります……」
ミュラが尻尾を揺らす。
「でも、今日は歌うにゃ!」
ナディアが笑う。
「切り替え早いな」
「歌うのも大事にゃ」
イグニスはそのやり取りを、半ば聞いていないような顔で鍵盤に触れていた。
ゼノが声をかける。
「イグニス」
「何」
「七人は一度抜ける。
今日は温泉湖のステージがあるんだ」
「いい」
短い返事。
「その間に作る」
ゼノは少しだけ眉を上げる。
「今の感情のまま?」
「今じゃないと薄まる」
イグニスはそう言って、紙に視線を落とした。
「始まりの歌は、最初の熱が要る」
ダリオが低く笑う。
「職人だな」
「違う」
イグニスは即答した。
「音は冷める」
それだけ言われると、誰も反論できない。
エレナが一歩前へ出た。
「あの」
イグニスが顔を上げる。
「明日、楽しみにしています」
「ああ」
ぶっきらぼうだった。
けれど、それが嘘じゃないことは分かる。
エレナは小さく笑った。
「はい」
七人は、急いで歌舞殿を出ていった。
温泉湖の舞台へ向かう足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
残ったのは、ゼノとイグニス。
そしてダリオ、リュシエル、ボルグ、カイルス。
イグニスはもう次の音を探し始めていた。
――コロン。
――トン
――コロン、トン。
紙に文字が増える。
ゼノはその横から覗いた。
まだ途中だ。
だが、そこには確かに“始まり”があった。
湯気の向こうの灯り。
外には人の声がある。
まだ形にもなっていない期待だけが、先にそこにあった。
そして、イグニスは少し高めで、掠れを帯びた声で口ずさむ。
「……灯りの向こうへ、声は集う……」
続けて、もう一行。
「……名もなき願いが、今、歌になる……」
ゼノは目を細めた。
悪くない。
いや、かなりいい。
イグニスはそのまま紙に書き足していく。
――湯けむりの先に
――まだ知らぬ明日がある
――ひとりの声では届かない
――だから、今、ここで重なる
ダリオが腕を組んだ。
「もう形になってきてるな」
イグニスは返事もしない。
カイルスが小声で言う。
「こいつ、本当に一人でやる気だな」
ボルグは短く言った。
「手が止まらん」
リュシエルだけは静かに笑っていた。
「だから連れてきたんです」
ゼノはしばらくその場にいたが、やがて言った。
「俺は一度抜けるが、夜になったら、また来ます」
イグニスは顔を上げない。
「勝手にしろ」
ゼノは肩をすくめた。
その返事ですら、今は音に集中している証拠だ。
歌舞殿を出る時、背中にまた鍵盤の音が流れてきた。
――コロン。
――トン、トン。
――コロン。
始まりの歌は、まだ生まれかけている最中だった。
――
夜。
温泉郷の灯りが、水面に揺れていた。
客の声も、昼間より柔らかい。
酒の匂いと湯気が混じる夜の空気は、昼とは違う顔を見せる。
ゼノは歌舞殿へ向かった。
戸を開ける前から、音が聞こえていた。
圧倒的だった。
鍵盤の音が、歌舞殿の中を満たしている。
昼の試し弾きとは違う。
もっと鋭く、もっと深い。
細い流れが幾重にも重なり、気づけばひとつの大きな波になって押し寄せてくる。
――トン、コロン。
――コロン、トン。
――タ、コロン、トン。
リズムがある。
けれど固くない。
流れているのに、芯がある。
その上に、高い口ずさみが乗っていた。
イグニスの声だ。
はっきり歌っているわけじゃない。
旋律を確かめるように、言葉を置いている。
「……灯りの向こうへ……」
――コロン。
「……重なる声は……」
――トン、コロン。
「……まだ見ぬ明日を……」
ゼノは、扉の外で立ち止まった。
すごい、と思った。
音楽のことを全部理解できるわけじゃない。
だが、それでも分かる。
これは、人を足止めする音だ。
イグニスがふと演奏を止めた。
「……そこにいるなら入れ」
ゼノは小さく笑った。
「気づいてたのか」
「うるさいから」
「まだ何も言ってない」
「気配がうるさい」
ゼノは戸を開けた。
歌舞殿の中は静かだった。
だがその静けさは、さっきまで圧倒的な音が鳴っていたことを、むしろ強く感じさせた。
鍵盤の前にはイグニス。
紙は何枚も増えている。
床にも、椅子にも、歌詞の断片と譜面の走り書きが散らばっていた。
「夕食を誘いに来た」
ゼノが言う。
イグニスは紙を見たまま答える。
「いらない」
「食べないと頭も回らない」
「今は回ってる」
「今だけだろ」
イグニスは少しだけ黙った。
ゼノは続ける。
「ダリオたちも呼ぶ。
リュシエル、ボルグ、カイルスも一緒に」
「……面倒だな」
「作る奴は食わないと困る」
イグニスはようやく顔を上げた。
「お前、しつこいな」
「よく言われる」
数拍の沈黙。
それからイグニスが、小さく息を吐いた。
「じゃあ、短く済む店」
「わかったよ」
ゼノは笑った。
――
ほどなくして、ダリオ、リュシエル、ボルグ、カイルスも合流した。
温泉郷の食堂は夜でもまだ賑わっている。
湯気の立つ料理と、酒を飲む客の笑い声。
その中に、男たち六人はまとまって席についた。
ミュラあたりが見たら「濃いにゃ」と言いそうな面子だ。
ダリオが酒を受け取りながら言う。
「で、どうなんだ」
「何が」
「歌だよ」
イグニスは少しだけ面倒そうな顔をした。
「ほぼ出来た」
リュシエルが静かに目を細める。
「もう?」
「骨は昼に出来てた」
カイルスが笑う。
「じゃあ今やってたのは?」
「磨き」
短い返事。
ボルグが頷いた。
「完成は近いな」
ゼノが聞く。
「明日には出せる?」
イグニスは迷わなかった。
「昼には出来る」
そこで初めて、全員の顔を見る。
「だから、全員来い」
ダリオが口元を上げる。
「命令か」
「確認だ」
イグニスは即答する。
「七人の声を当てる。全員いないと意味がない」
リュシエルが頷いた。
「分かりました」
ゼノも笑う。
「明日の昼、歌舞殿だな」
「遅れるな」
カイルスが吹き出す。
「お前、自分が一番遅れて来たくせに」
イグニスは顔色一つ変えない。
「今日は来た」
「そういう問題か?」
ダリオが肩を揺らして笑った。
少しだけ、場の空気が和らぐ。
ゼノはそれを見ながら思った。
悪くない。
面倒で、尖っていて、空気も読まない。
だが、音に関しては嘘がない。
そういう奴は、たぶん強い。
食堂の外では、夜の温泉郷がまだ柔らかく光っていた。
始まりの歌は、もうすぐ形になる。
そして明日。
ミラベルは、初めて“自分たちの歌”を手に入れる。
《視聴者数:289,811》
〈コメント:夜の制作熱い〉
〈コメント:もうほぼ完成とかやば〉
〈コメント:食事に連れ出すゼノいいな〉
〈コメント:明日きたあああ〉
《神コメント:明日だな》
《神コメント:待てん》
《神コメント:歌わせろ》
ゼノは小さく笑った。
『分かってる。明日はちゃんと見せる』
夜はまだ終わらない。
だが、歌はもう、そこまで来ていた。
――――
次回
第38話 ミラベルの始まり




