第35話 王都の鍵盤弾き
翌日の昼過ぎ。
歌舞殿の中には、朝の張り詰めた空気とは違う、少し落ち着かない静けさがあった。
舞台の上にはミラベルの七人。
その脇には、弦奏者ダリオ、笛奏者リュシエル。
少し離れたところには、先日加入したばかりの太鼓コンビ、ボルグとカイルスもいる。
そして舞台の端には、運び込まれたばかりの鍵盤楽器。
二段に重なった鍵盤。
ゆるやかに弧を描く胴。
磨かれた木肌は歌舞殿の光を柔らかく返し、まだ誰にも弾かれていないのに、そこにあるだけで空気を変えていた。
ミルファがその前をうろうろしながら、小声で言う。
「まだですかね……」
ナディアが壁にもたれたまま笑う。
「お前、さっきからそればっかだな」
「だって気になるじゃないですか!」
ミュラも尻尾を揺らす。
「気になるにゃ。変わり者なんでしょ?」
リュシエルは静かに立っていたが、その言葉に少しだけ苦笑した。
「……否定はしません」
ダリオが鼻で笑う。
「お前がそう言うなら、相当だな」
ゼノは舞台の前に立ったまま、歌舞殿の扉を見ていた。
今日は、歌を聞かせる日だ。
条件を詰める前に、まずミラベルの歌を聞きたい。
そう言ってきたのは、むしろありがたい。
耳がある。
金より先に音を選ぶ。
その時点で、半分は信用できる。
カツ。
扉の向こうで、靴音が止まった。
歌舞殿の中が、わずかに静まる。
それから。
コン、コン。
静かなノック。
リュシエルが小さく息を吐いた。
「来ました」
ゼノが言う。
「どうぞ」
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、細身の女だった。
年はサラより少し若いくらいだろうか。
灰青の髪をきっちりと後ろでまとめ、薄い革の手帳を抱えている。
目元は涼しいが、周囲を見る視線が妙に鋭い。
その後ろから、背の高い男が入ってくる。
焦茶の上着。
肩には小さな竪琴のような楽器を提げ、腰には筆記具を差していた。
こちらは口元にいつも笑みを浮かべているような顔だ。
リュシエルが前へ出る。
「紹介します」
まず、手帳を持った女を示す。
「詩人の、ミラベル……ではなく、失礼。詩人のセラフィナです」
女は一礼した。
「セラフィナ・ヴェイスです。詩を書いています」
次に、焦茶の上着の男。
「楽師のオルフェンです」
男はにこやかに手を上げた。
「オルフェン・ラド。
編曲と舞台構成を見ます。よろしく」
「ようこそ。
来てくれてありがとうございます」
セラフィナが先に答えた。
「礼はまだ早いです。条件を言ってもらえますか。
聞いてから決めます」
オルフェンも笑う。
「こちらも仕事ですからね」
ゼノは頷いた。
「分かりました。先に全部話します」
《視聴者数:248,720》
〈コメント:条件より歌じゃなかったのか〉
〈コメント:結局金か〉
〈コメント:波乱おきる予感〉
《神コメント:本心が出たのか》
《神コメント:自分たちの実力はいかに》
《神コメント:時に自信は身を滅ぼす》
歌舞殿の中が、少しだけ静まる。
ゼノは二人を見て、順に言った。
「まず前提として、欲しいのは一曲だけじゃありません」
セラフィナの目が少し細くなる。
オルフェンも笑みを薄くした。
「ミラベルには、これから何曲も必要になる」
ゼノは続けた。
「だから、今回は“試しに一曲”ではなく、今後も継続して関わってもらう前提で考えています」
オルフェンが口を開く。
「専属、ですか?」
「半分はそうです」
ゼノは言った。
「ミラベルの歌を優先してもらいたい。
ただし、完全にここへ縛りつけるつもりはありません」
セラフィナが聞く。
「どの程度の関わりを求めますか?」
「新曲を作る時には、必ず立ち会ってもらいたい」
ゼノは指を折りながら条件を並べる。
「歌い手を見ること。
練習を見ること。
必要なら歌詞や曲をその場で直すこと」
「舞台の反応も見てほしい。
作って終わりじゃなく、客に届くところまで責任を持ってもらいたい」
オルフェンが小さく笑う。
「思ったより重いですね」
「軽い仕事を頼む気はありません」
ゼノは即答した。
「ミラベルは遊びじゃないので」
歌姫団の七人が、わずかに背筋を伸ばす。
セラフィナが手帳を開く。
「報酬は?」
「固定で払います」
ゼノは迷わず言った。
「一曲ごとの買い切りじゃない。
関わってもらう期間に対して払う」
オルフェンの眉が少し動いた。
「へえ」
「その上で、完成した曲が録音され、商品として売れた時は、追加でも払います」
今度はセラフィナが顔を上げた。
「売上歩合型ですか」
「そこまで綺麗な仕組みじゃないですけど、考え方は近いです」
ゼノは肩をすくめる。
「売れたのに、作った側へ何も戻らない形にはしたくないので」
オルフェンが笑みを深くする。
「……なるほど」
ゼノはさらに続けた。
「住む場所は用意します。
食事も、村にいる間はこっちで面倒を見ます」
「ただし、求めるものは高い。
ミラベルに合わないものを出されたら、断る」
セラフィナが静かに聞く。
「合う、の基準は?」
「聴いた人を魅了すること」
ゼノははっきり言った。
「言葉が前に出すぎても駄目。
曲が自分を見せたがっても駄目。
七人の声が立って、初めて意味がある」
ダリオが小さく息を吐く。
「そこは一貫してるな」
「そこを曲げたら、ミラベルじゃなくなる」
オルフェンが腕を組む。
「納期は?」
「急ぎます」
ゼノは正直に言った。
「楽団が揃ったら、すぐ録音に入りたい。
だから最初の一曲は、できるだけ早く欲しい」
セラフィナが手帳に何かを書き留める。
オルフェンが聞く。
「で、その最初の一曲に求めるものは?」
ゼノは少しだけ考えた。
温泉郷。
歌舞殿。
七人の声。
神が見ている舞台。
客が泣いて、笑って、また来たくなる場所。
「“ミラベルの始まり”です」
静かに言った。
「七人が七人として立ちながら、ちゃんと一つに聞こえる曲。」
セラフィナが目を細める。
オルフェンの笑みも消える。
今の一言で、仕事の難しさが伝わったのだろう。
ゼノは最後に言った。
「……これが条件です」
少しの沈黙が落ちる。
歌舞殿の中にいる全員が、三人の返事を待っていた。
だが――
そこへ、もう一度、扉がノックされた。
全員の視線が向く。
今度は返事を待たず、扉が少しだけ開いた。
そして最後に――
一人の男が入ってきた。
少し長めの金色の髪。
眠そうにも見える半眼。
身なりは整っているのに、どこか気が抜けていて、けれど歩き方だけは妙に静かだった。
その男は歌舞殿へ一歩入った瞬間、誰にも挨拶せず、真っ先に鍵盤楽器を見た。
ミルファが目を丸くする。
「うわ……」
ナディアが小さく笑った。
「分かりやすいな」
リュシエルが言う。
「――鍵盤奏者のイグニスです」
男はまだ鍵盤を見ていた。
数拍遅れて、ようやく口を開く。
「……イグニス」
それだけだった。
ミュラが小声で言う。
「ほんとに変わり者にゃ」
イグニスはそのまま鍵盤の前まで歩いていく。
蓋の角度。
脚の高さ。
椅子との距離。
何も触っていないのに、目だけで全部測っているようだった。
そして、ようやくゼノを見た。
「これ、誰が調律した?」
いきなりだった。
ゼノは少しだけ口元を上げる。
「俺だ」
イグニスの眠そうな目が、ほんの少しだけ開く。
「……へえ」
鍵盤にそっと触れる。
一音。
――コロン。
静かな音が走る。
イグニスは二音、三音と続けて鳴らし、それから低い声で言った。
「完璧ではない」
一瞬、空気が止まる。
だが彼はすぐに続けた。
「でも、ほぼ狂ってない。
王都でもここまで合わせる奴は少ない」
ダリオが小さく吹き出した。
「褒めてるのか、それ」
「褒めてる」
イグニスは即答した。
「この楽器、ちゃんと鳴る」
ゼノは少し笑った。
「それはどうも」
イグニスはようやく椅子に座る。
指を置き、何の前置きもなく弾いた。
――コロン。
一音だけで、空気が変わる。
全員が、同時に息を止めた。
乾いたようでいて、芯のある音。
だが硬くない。
鍵盤の向こうに、まだ見えない旋律がすでに並んでいるような音だった。
ミルファが思わず前へ出る。
「きれい……」
イグニスは二音、三音と重ねる。
音は短いのに、残り方が美しい。
歌舞殿の空間が、その音を喜んでいるようだった。
オルフェンの笑みが消える。
セラフィナの目も細くなる。
イグニスはそこで手を止めた。
「悪くない」
それからゼノを見る。
「まず歌を聞く」
ゼノは頷いた。
「もちろん」
ミラベルの七人が舞台の中央に立つ。
エレナが息を吸う。
セレスが目を閉じる。
リィナが静かに呼吸を落とし、ミルファが胸の前で手を握る。
ナディアは顎を上げ、リーシャは指先を重ね、ミュラは小さく笑った。
ダリオが弦を構える。
リュシエルが笛を持つ。
ボルグとカイルスも位置につく。
ゼノが短く言った。
「いつもの曲でいこう」
エレナが最初の音を出す。
澄んだ声が歌舞殿に広がる。
セレスが重ねる。
リィナが空気を深くする。
ミルファの高音が天井へ抜ける。
ナディアが下を支え、リーシャが感情を滲ませ、ミュラが柔らかくその場をほどく。
そこへ。
ダリオの弦。
リュシエルの笛。
ボルグとカイルスの太鼓。
音が重なる。
セラフィナの手が、手帳の上で止まった。
オルフェンは、先ほどまでの軽い顔を消して舞台を見ている。
イグニスだけが目を閉じたままだった。
歌が進む。
ミラベルの七人は、昨日よりも明らかに伸びていた。
背に音がある。
横に仲間がいる。
前に届ける先がある。
曲が終わる。
余韻が残る。
最初に口を開いたのは、イグニスだった。
「入る」
あまりに早かったので、エレナが目を瞬く。
「えっ、もう!?」
「歌はいい」
イグニスは短く言う。
「伸びる」
《視聴者数:251,908》
〈コメント:鍵盤きた〉
〈コメント:やばい、本物だ〉
〈コメント:変人だけど天才じゃん〉
〈コメント:音で説明するの強すぎる〉
《神コメント:これは良い》
《神コメント:鍵盤も当たりだな》
《神コメント:楽団が揃ってきた》
ゼノは心の中で笑う。
『いい耳してるじゃねえか』
新しい音が来た。
そしてそれは、ミラベルの歌をもう一段上へ押し上げる音だった。
歌舞殿の空気が、また少し変わる。
こうして、ミラベルの楽団はまた一歩、完成へ近づいた。
――――
次回
第36話 歌は生まれ、火種は残った




