第102話 夜は深くなる
二週間で、空気はずいぶん変わる。
毎日そこにいると気づきにくい。けれど、ふとした瞬間に分かるのだ。人の声の高さとか、歩く速さとか、顔を上げる角度とか、そういう細かいものが、前とはもう違っている。
特別公演から二週間。
あの一日で温泉郷は確かに熱を持った。
でも、その熱は一夜の花火みたいに消えなかった。
商縁通りでは、いまだにミラベルの名前が普通に飛ぶ。
共鳴鈴を腰に下げた客も、前よりずっと増えた。
温泉湖のいつもの舞台だって、今は三人で立つだけでちゃんと人が止まる。
光の群れが、もう温泉郷の景色になり始めている。
その一方で、歌舞殿の中には別の熱が育っていた。
ノクシアだ。
一曲目で、夜の輪郭を見せた。
二曲目で、その夜が自分から近づいてくる顔を覚えた。
たった二曲。
それだけなのに、五人の立ち方は目に見えて変わった。
ジュリアは、自分一人が目立つんじゃなく、前へ出た時に全体まで押し上げるやり方を覚え始めていた。
カレンは、勢いだけで突っ込まなくなった。溜めて、見せて、そこで出る強さを知り始めた。
レティアは遊びを捨てないまま、遊びすぎない加減を覚えた。
フィアは静かなまま消えなくなった。
エマは、しかめた顔のまま近づいていくことが、思っていたよりずっと人を惹きつけると、ようやく身体で分かってきた。
最初の頃みたいな、ばらばらで面白い五人じゃない。
今はもう、ばらばらな五人が、ちゃんと五人で客席をさらいに来る感じがある。
その日の歌舞殿も、朝から熱かった。
ミラベルの十二人。
ノクシアの五人。
リリアン。
イグニス。
ダリオ、ボルグ、カイルス、リュシエル。
今日は最初から気合いが乗っている。
見慣れた顔ぶれのはずなのに、空気だけが少し違った。
理由は、すぐに分かった。
イグニスが、朝から妙に喋らない。
もともと口数の多い男じゃない。
けれど、それにしたって今日は静かすぎた。
こういう時のイグニスはだいたい何かある。
「……あれ、来るね」
ミルファが小声で言った。
「来るな」
ナディアが腕を組んだまま答える。
「分かるんですか?」
ルミナが目を丸くする。
「分かる」
ベルナが先に笑った。
「あの顔、絶対何か持ってるもん」
その通りだった。
イグニスは鍵盤の前に座ったまま、しばらく何も言わなかった。
譜面台の上には、新しい紙が二枚。
それを見た瞬間、ジュリアの口元がゆっくり上がる。
「へえ」
カレンは、ほとんど反射で前へ出た。
「二つ?」
イグニスが、ようやく顔を上げる。
「できた」
短かった。
だが、その一言で空気は十分に変わる。
「三曲目?」
レティアが聞く。
「三曲目と四曲目」
イグニスは答えた。
歌舞殿の空気が、そこで一段きつく張った。
ノクシアの五人はもちろん、ミラベルの方まで顔つきが変わる。
他の皆んなも、何となく分かっていた顔をしていた。
リリアンだけが、少し楽しそうに笑う。
「やっぱりね」
「うるさい」
イグニスは切った。
「先に聞け」
ジュリアが肩を揺らして笑う。
「好き」
「まだ聞いてないでしょ」
レティアが言う。
「でも分かる」
ジュリアは平然としていた。
「強いの持ってきた顔してる」
イグニスは否定しなかった。
まず、三曲目だった。
「二曲目が近づく曲なら」
イグニスが言う。
「三曲目は、そこで終わらせない。熱を上げて、一回外して、もう一回持っていく」
「……いいね」
カレンが、かなり本気で言った。
鍵盤が鳴る。
一曲目より荒い。
二曲目より、ずっと跳ねる。
けれど雑じゃない。
足から入る。
肩で切る。
低く始まって、サビでぱっと抜ける。
言葉も、前の二曲よりずっと強かった。
歌い上げるというより、音に言葉をぶつけて、そのまま客席の胸元へ滑り込ませる感じだ。
イグニスが歌う。
「見てるくせに 黙ってる
そういう顔 嫌いじゃない
ひとつずつ 距離を詰めて
逃げる隙だけ先に消す
軽い気持ちで来たのなら
今ここで帰ればいい
でもその足が止まらないなら
続きはもっと熱くなる
右 左 踏んで
肩で音を切って
息が上がるその手前で
わざと笑って また煽る
上げて 外して
まだ欲しいと気づかせて
簡単には届かせない
その顔ごと引っ張ってく
夜はそんなに
やさしく終わらない
あと一歩 もう一歩
その先まで連れていく」
歌い終わる。
今までのノクシアの二曲とは、また全然違う顔だった。
一曲目は、夜を見せる曲。
二曲目は、夜が近づく曲。
そして三曲目は、客の熱を自分で上げさせて、そのまま掴んで離さない曲だ。
「……やば」
ミルファが真っ先に言った。
「これ、めっちゃ格好いい」
「だいぶ攻めてるにゃ」
ミュラが耳を揺らす。
「でも、ノクシアに似合うにゃ」
ジュリアはもう笑っていた。
「好き」
今までより、ずっとはっきり言う。
「これ、かなり好き」
カレンは一歩前へ出る。
「動ける」
短く言う。
「二曲目より、もっと大きく使える」
「そうだろうな」
イグニスは答えた。
レティアが、少しだけ目を細める。
「これ、途中で空気ひっくり返せるね」
「ひっくり返す」
イグニスは頷く。
「そこで客が勝手に前のめりになる」
「いい」
レティアは笑った。
「かなり好き」
フィアはしばらく黙って、それから言う。
「残る」
その一言が、やっぱり強かった。
最後にエマ。
エマは腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
嫌そうな顔のまま、でも目だけは完全に曲を追っている。
「……腹立つ」
ぽつりと呟く。
「何が」
イグニスが聞く。
「また似合う」
場に笑いが落ちた。
イグニスは、そこで初めて少しだけ口元を動かした。
笑ったというより、分かっていた、みたいな顔だった。
「だろうな」
そして、それで終わらなかった。
「四曲目にいく」
イグニスが言う。
イグニスは平然としている。
「三曲目で熱を上げたまま終わると浅い。四曲目で、もっと深いところまで持っていく」
リリアンが、そこで本気で笑った。
「分かってるじゃない」
「当たり前だ」
イグニスが言った。
今度の四曲目は、三曲目より低かった。
低いのに重い。
重いのに鈍くない。
音が前へ飛ぶんじゃない。
身体の芯へ沈んでくる。
最初に肩が揺れる。
次に腰が落ちる。
それから遅れて、胸の奥に落ち ていく。
そういう曲だった。
イグニスが歌う。
「まだ足りないって顔してる
だったら隠さなくていい
深いところまで来たくせに
ここで引くのは似合わない
焦らなくていい その代わり
もう逃がす気もないけどね
上がった熱を抱えたまま
もっと奥まで連れていく
低く 深く
その呼吸に重ねて
きれいなままじゃ終われない
少し崩れて ちょうどいい
揺れて 止まって
目だけ残して見せてよ
言葉より先に伝わるなら
今夜はそれで充分でしょ
まだ欲しい
まだ見たい
そういう顔で立っていて
夜は最後のひと呼吸で
一番深く 火を残す」
終わったあと、さすがに少し静かになった。
三曲目より静かだ。
でも、静かなぶんだけ深い。
ジュリアが先に息を吐く。
「……やば」
「それ褒めてる?」
レティアが笑う。
「かなり」
ジュリアは言った。
「これ、四曲目に置くの、かなり強い」
カレンはもう完全に戦う顔だった。
「これ、絶対踊りたい」
「分かる」
レティアも笑っている。
「三曲目で引っぱって、四曲目で落とすの好き」
フィアは目を閉じて、曲の余韻を少し身体に残してから言った。
「深い」
エマは、今度は少し早く答えた。
「……むかつく」
「何が」
「踊りたくなる」
それだけ言って、黙る。
それで充分だった。
ミラベル側は、もはや完全に見物ではなかった。
「すご……」
リーシャが言う。
「三曲目と四曲目、全然ちがう」
「うん」
ユノが頷く。
「三曲目は前に来るのに、四曲目はもっと中に入ってくる感じ」
ベルナが嬉しそうに笑う。
「だめだ、めっちゃ好き」
「でしょうね」
セレスが言う。
「今のはかなりあなた寄りです」
「私だけじゃないでしょ?」
「私も嫌いじゃないです」
珍しく、セレスがすぐ認めた。
そこへリリアンが、ゆっくり舞台の中央へ出た。
ノクシアの五人を一人ずつ見てから、言う。
「三曲目も四曲目も、どっちもいい」
はっきり言った。
「でも、踊りを間違えると一気に安くなる」
「怖」
カレンが笑う。
「本当よ」
リリアンは平然としている。
「三曲目は熱を上げる。四曲目は、その熱を深く落とす。同じように動いたら、ただの似た曲になる」
その言葉で、場がまた少し引き締まる。
リリアンは、まず三曲目から入っていった。
「三曲目は足」
言う。
「大きく使う。でも重くしっぱなしにしない。一回抜く。その抜きがあるから、次の入りが効く」
ジュリアを見る。
「あなたは三曲目で真ん中に居座らない。流れる。位置をずらす。目が追いたくなる動きにする」
カレンには短く言う。
「あなたは三曲目、かなり強い。でも全部出すな。四曲目に残す」
「四曲目は?」
カレンが聞く。
リリアンは少し笑った。
「四曲目は、もっと低く。腰で取る。上半身を騒がせない。動きは少ないのに目が離せない、それをやる」
レティアが小さく笑う。
「好き」
「あなたは四曲目で遊ばない」
リリアンがすぐ切った。
「三曲目では散らしていい。でも四曲目で遊んだら薄くなる。そこは本気で行く」
「うわ、厳し」
「当たり前でしょ」
フィアには静かに言う。
「四曲目はあなたが一番効く」
「……うん」
「静かでいるの。でも、冷たくしすぎない。見てる側が勝手に近づきたくなるくらいの温度は残す」
フィアは、小さく頷いた。
最後にエマ。
リリアンは少しだけ目を細めた。
「あなた、四曲目で顔を作りすぎないで」
「何それ」
エマが眉を寄せる。
「嫌そうな顔でもいい。でも、“見せてる嫌そうな顔”にしないの」
リリアンは言う。
「三曲目まではそれでいい。でも四曲目は、もっと奥。何考えてるか分からないくらいでちょうどいい」
エマは、ほんの少しだけ黙った。
「……難しい」
「難しいわよ」
リリアンは笑う。
「だから化けるの」
そこからは、また長かった。
三曲目の足の使い方。
三曲目の抜き。
四曲目の低さ。
四曲目の重み。
止まる位置。
目を返す速さ。
肩を入れる角度。
腰の落とし方。
ノクシアの五人は、二週間前より明らかに飲み込みが早い。
もちろん、まだ全然完成じゃない。
けれど、曲が増えるたびに群れの顔が変わる面白さを、もう身体が覚え始めている。
ジュリアは、三曲目で流れながら取る形がハマり始めた。
カレンは、四曲目で低く落ちた時の方がむしろ怖いと気づき始めた。
レティアは、散らしすぎない色気を覚えた。
フィアは、静かなまま温度を持つやり方を身体に入れていた。
エマは、まだ不器用だったが、その不器用さごと一番目が離せない。
ミラベルも、それをちゃんと見ていた。
光の群れは、夜の群れが深くなるのを見て、また自分たちの光を考える。
夜の群れは、光の群れが客席を奪った日を知っているから、もっと強くなりたがる。
その関係が、今の二組を強くしていた。
イグニスは最後まで多くを喋らなかった。
でも必要なところでは、ちゃんと切る。
「カレン、先走るな」
「はい」
「ジュリア、綺麗にまとめすぎる」
「うわ」
「レティア、三曲目はいい。四曲目は散らすな」
「はいはい」
「エマ、今の残せ」
「……分かった」
「フィア、四曲目かなりいい」
「うん」
短い。
だが、それで充分だった。
昼を少し過ぎた頃、ノクシアの五人は朝とは明らかに違う顔になっていた。
一曲目で夜を見せる。
二曲目で近づく。
三曲目で熱を上げて、揺らして、引っぱる。
四曲目で深く残す。
まだ五曲目じゃない。
だが、もう流れは見えた。
ノクシアは、一曲で終わる群れじゃない。
もうちゃんと、夜を何段階にも変えながら見せられる群れになり始めている。
ミラベルの十二人も、その流れを食い入るように見ていた。
「すごいね」
リーシャがぽつりと言う。
「二週間で、こんなに変わるんだ」
「変わるよ」
エレナが静かに答える。
「曲が増えると、群れの顔も増えるから」
その言葉に、セレスが小さく頷いた。
昼の光が、歌舞殿の床へ長く落ちていた。
光の群れ。
夜の群れ。
四曲まで来たノクシア。
それを仕切るイグニス。
その身体へ落とし込むリリアン。
全部まだ途中だ。
でも途中だからこそ、かなり面白い。
ノクシアの夜は、もう一曲目の夜ではなかった。
深くなっている。
広がっている。
そして、ちゃんと人の中へ残る夜になり始めていた。
――――
次回
第103話 中身のない迷宮




