九、
店を飛び出したクラリスは、人通りの少ない海沿いにある小さな小さな広場に来ていた。
広場と言っても、家が建てられるほどの広さもない中途半端な空き地に木を植えただけの場所。クラリスはその木の根元で膝を抱えてうずくまった。
「クラリスぅ」
心配そうにルシファーがこちらをうかがってくる。クラリスはルシファーを抱きしめた。
「どうしよう、怒らせちゃった。お店のもの、壊しちゃった。私、役に立つどころか迷惑かけちゃった。どうしよう、破門にされちゃったら・・・・・・。どうしよう・・・・・・」
ここがいい。
そう望んで置いてもらったのに、たった一週間で破門だなんて、この先どうしたらいいのだろう。
こんなへっぽこを受け入れてくれた師匠のお役に立ちたいのに、迷惑かけて、売り物をだめにしてしまって。
あの冷たい声を思い出すと、背筋がどんどん冷えてくる。身体から体温が奪われていくようだ。
寒い。
クラリスはルシファーをぎゅうっと引き寄せる。でも、あたたかく感じない。
「・・・・・・?」「・・・・・・!」
さっきからなにか言ってくれているみたいだけど、まったく耳に入ってこない。
少し顔を上げると、見えるのは海と空。その境界がわからないほど、暗く淀んで今にもまざって消えてしまいそうだ。
そこでどれだけの時間、うずくまっていたのだろう。
「なにをしてるの」
声をかけられて、初めて前に人が立っていることに気が付く。
「ししょう・・・・・・」
師匠だった。ローブで相変わらず顔は見えないけれど、誰なのかはすぐにわかる。
「休みなさいと言っただろう。こんなところじゃ休んだことにはならない。雨も降ってきたのに」
いつの間にか雨が降っていたらしい。そういえば、しとしとと雨の音がしていた気がしなくもない。湿っぽいにおいにやっと気が付いた。そっか、だから寒かったのか。
「ほら、帰るよ」
帰るよって。・・・・・・どこへ?
「君には帰るところがあるのだから」
そう言って、手を差し出してくれた。
“帰るところがある”
それは師匠の店だとわかった。
安心した。自分は見捨てられていなかったことに。
嬉しかった。あそこが自分の帰る場所なのだということが。
差し出された手を見つめていたら、ぽろりぽろりと涙が溢れた。どうしよう、止まらない。
クラリスは泣きながら師匠の手をとった。あたたかさがじんわり伝わってくる、大きな手。
「帰るよ」
クラリスがつかんだ手を優しく引っ張って、ローブの中に入れてくれた。ルシファーもそそそと入ってくる。
そのまま二人とひとつは店に向かって無言で歩いた。無言で、と言ってもクラリスの瞳から零れ落ちる涙は止まらなかった。なんとかしゃくりあげるのを押しとどめて歩き続ける。
雨はさらさらと降っている。傘や合羽がなければすぐに濡れてしまう雨の降り方。なのに、師匠のローブから雨水が沁みてくることはない。透明の傘が頭の上にあるかのように、ローブのまわりだけには雨が降ってこない。そういうおまじないがあるのかもしれない。今度店で探してみよう。
雨が降ってきたためか、人通りが少ない。けれどほんのたまに、誰かとすれ違う。傘もささずに二人とひとつがローブの中に入って歩いているのは人目を引きそうなのに、こちらには気づいていないのではないかと思うくらい、人々は目もくれずに歩き続けていく。見ていないふりをしていてくれてるんだ、きっと。この市の人たちはやっぱり優しい。
ずっとうずくまっていたせいか、身体が重くてうまく歩けないクラリスの肩を、師匠は頼もしく抱き寄せて歩調も合わせてくれている。帰ったらきちんと謝って、お礼も伝えよう。
そう、帰ったら。