第8話 一粒の麦が食卓へ届くまで
第8話 一粒の麦が食卓へ届くまで
北方再生農場の朝は、まだ星が残るうちに始まった。労働者宿舎の鐘が四度鳴ると、廊下へ冷たい空気が流れ込み、藁を詰めた寝台から人々が起き出す。壁際には前日に洗った灰色の作業着が並んでいたが、厚い布は乾ききらず、袖口には氷の粒がついていた。
ジークハルトは、冷えた作業着へ腕を通して顔をしかめた。王宮では肌着一枚まで暖炉の前で温められ、目を覚ます時刻には侍従が紅茶を用意していた。ここで朝に支給されるのは、ぬるい白湯と塩を振った黒パン一枚だけだった。
「紅茶はないのか」ジークハルトは食堂の配膳台をのぞき込んだ。大鍋の中では白湯が揺れ、底に生姜の欠片がいくつか沈んでいる。
「茶葉はぜいたく品です」配膳係の老婆は、欠けた陶器の器へ白湯をよそった。指の関節は曲がっていたが、器を置く音は一度も乱れなかった。
「私は朝に紅茶を飲む習慣がある」
「こちらでは、朝に水路をさらう習慣を覚えてください」
食堂の隅では、マリアンヌが黒パンの焦げた縁を指でむしっていた。桃色の爪染めはほとんど剝がれ、短く切られた爪の間には昨日の麦粉が残っている。彼女は白湯へパンを浸したが、柔らかくなった部分だけを食べ、固い皮を皿へ残した。
「それも昼の粥へ入れますから、捨てないでください」配膳係が皿を下げながら言った。マリアンヌは返事をせず、焦げた皮を布へ包んで作業着のポケットへ入れた。
食事のあと、ジークハルトは水路の修繕班へ向かった。空は明るくなり始めていたが、畑の土は表面まで凍り、鍬を振り下ろすたびに石を叩いたような音がする。支給された革手袋には前の使用者が縫った継ぎがあり、親指の部分だけ少し短かった。
監督役の農夫バルドは、点滴管の仕組みを説明した。貯水槽から伸ばした細い管を畝に沿って置き、小さな穴から麦の根元へ水を落とす。水を畑全体へ流すより無駄が少ないが、泥や砂が詰まれば一本ずつ外して洗わなければならない。
「こんな細い管を、毎日すべて確認するのか?」ジークハルトは畝の先まで続く黒い管を見た。朝露が凍り、表面には銀色の粒が並んでいた。
「北方では、水が足りない年もあります。雪が降れば水が豊富だと思う方もいますが、凍った雪は、そのままでは麦の根へ入りません」
「詰まった管だけ、あとから直せばよいだろう」
「では、今日一列をお任せします」
ジークハルトは腰を曲げ、管から水が落ちているか確かめた。最初の十本は問題なく、一定の間隔で雫が土へ染み込んでいる。十五本目で流れが止まっていたが、穴は泥で固まり、手袋をしたままでは取れなかった。
手袋を外すと、冷気が指へ食い込んだ。爪先で泥を削っても穴は開かず、息を吹きかけると、管の表面に薄い霜がついた。ジークハルトは何度か試したあと、隣の管から水が落ちているのを見て立ち上がった。
「一本くらいなら問題ない」ジークハルトは手袋をはめ直した。王宮の帳簿でも、全体へ影響しない端数は切り捨てていた。
「確認済みの印をつけますか?」バルドが木札を差し出した。ジークハルトは一度詰まった管を見たが、寒さで指が痛み、木札へ印を押した。
その日の午後、ジークハルトは崩れた水路の泥をさらった。泥は長靴へ吸いつき、一歩動くたびに足を抜く力が必要だった。昼食の豆粥を二杯食べても腕は重く、夜には寝台へ入ったまま靴を脱げず、隣の男から「泥を布団へ入れるな」と叱られた。
翌朝、バルドはジークハルトを昨日の畝へ連れていった。ほかの苗は細い葉を立てているのに、詰まった管の先にある一本だけが地面へ伏せていた。葉の縁は黄色くなり、根元の土は指で崩れるほど乾いている。
「昨日は、立っていたはずだ」ジークハルトは苗の前へ膝をついた。革靴の先へ泥が染み込み、冷たさが靴下まで届いた。
「昨日、水が届いていれば立っていました」
「一本くらいなら問題ないと言っただろう」
「殿下にとっては、何百本のうちの一本でしょう。この麦にとっては、自分の根へ届く一本だけです」
ジークハルトはバルドを見上げた。農夫の灰色の髭には朝露がつき、右の袖には何度も縫い直した四角い布が当てられている。彼も、三年前の洪水で畑の半分を失った一人だった。
「もう殿下ではない」ジークハルトは手袋を外した。指先は昨日の作業で裂け、爪の脇に黒い血が固まっていた。
泥の詰まった管を取り外し、桶の水へ浸した。細い棒を通しても砂は動かず、息を吹き込むと濁った水が顔へ跳ねた。何度も洗い、指で押し、ようやく小さな泥の塊が抜け落ちた。
管を戻すと、最初の一滴は穴の縁で膨らんだまま落ちなかった。ジークハルトが指で軽く触れると、雫は乾いた土へ吸い込まれた。二滴目、三滴目が続き、しおれた苗の根元へ黒い染みが広がった。
「一滴の水を届けるために、これほど大勢が働いていたのか……」ジークハルトは水路を振り返った。雪解け水をためる者、泥をさらう者、管を作る者、穴を開ける者、毎朝詰まりを調べる者がいる。
「私は紙の上で、そのすべてを使い切った」
「あなたが祝典へ回した金は、この一滴を運ぶための金でした」バルドはしおれた苗の横へ細い支柱を立てた。責める声ではなかったが、ジークハルトは顔を上げられなかった。
「これを謝れば、麦は元へ戻るのか?」
「戻るかもしれませんし、枯れるかもしれません」
「では、私は何をすればいい」
「今日の残りを調べてください。明日も、その次の日もです」
ジークハルトは再び泥へ手を入れた。その日の夕方までに、詰まった管を十二本見つけた。最後の一本を洗う頃には指の感覚がなくなっていたが、確認していない木札へ印を押すことはなかった。
一方、マリアンヌは共同厨房で働いていた。白い壁には湯気で黒い染みができ、窓辺には洗った布巾が十枚、紐から垂れている。大鍋からは豆と麦の匂いが立っていたが、火に近い場所だけが熱く、背中には扉の隙間から冷たい風が当たった。
初日に命じられたのは、乾燥豆を水へ浸すことだった。マリアンヌは料理人から、大桶一杯の豆に水を張るよう言われた。だが何時間も待つ意味が分からず、そのまま鍋へ入れて火にかけた。
「強い火で煮れば、早く柔らかくなるでしょう」マリアンヌは薪を三本まとめて竈へ入れた。以前、職業学校の厨房を視察したとき、料理人が火を弱めていたことなど覚えていなかった。
「豆は先に水へ浸すと説明しました」料理長のベッカは、隣の台で根菜を刻んでいた。青い前掛けの胸元には麦粉が白くつき、太い三つ編みの先が肩から前へ落ちている。
「そんな時間はありません。昼までに百人分を作るのでしょう?」
「だから、昨夜から浸しておくのです」
鍋の水が減り、底から焦げた臭いが上がった。慌てて水を足すと、熱い蒸気がマリアンヌの顔へかかり、髪を覆う布が湿った。木匙でかき混ぜても、底へ張りついた豆は黒くなり、上の豆は芯が残っていた。
「食べられません。新しい豆で作り直します」マリアンヌは鍋の取っ手へ布を巻き、捨て場へ運ぼうとした。重さに腕が震え、焦げた煮汁が床へこぼれた。
「それが、今日あなた方へ割り当てられた豆のすべてです」ベッカが鍋の前へ立った。彼女の手には、刻みかけの小さな蕪が一つ残っていた。
「倉庫には、まだ袋があるでしょう」
「春にまく種と、ほかの労働者が食べる分です。あなたが失敗したからといって、他人の豆を減らすことはできません」
「では、昼食はどうするのですか?」
「食べられるところを分けます。焦げた分は、作った者が食べます」
昼になると、労働者たちは薄い麦粥と根菜のスープを受け取った。厨房を担当したマリアンヌと、彼女の食事班に入っていたジークハルトの器には、黒く焦げた豆が多く入れられた。苦い臭いが鼻へ抜け、噛むたびに固い芯が歯へ当たった。
「こんなものを食べさせるのか」ジークハルトは木匙を器へ置いた。朝から水路へ入っていたため、灰色の作業着は膝まで泥で濡れていた。
「私だって、好きで焦がしたのではありません」
「説明を聞かなかったのだろう」
「あなたも、種麦の説明を聞かなかったではありませんか!」
食堂の者たちは二人を見たが、誰も間へ入らなかった。いつもならアデライドが言葉を選び、どちらにも傷が残らないよう話を収めていた。ここには、二人の喧嘩を処理する者はいなかった。
ジークハルトは器を持ち直し、焦げた豆を一匙食べた。マリアンヌも唇を曲げながら粥を飲み込んだ。食べ終えるまで、二人は一度も目を合わせなかった。
その夜、マリアンヌは食堂の隅で、朝に残した黒パンの皮を食べた。昼には捨てようとしたものだったが、焦げた粥だけでは腹が空いて眠れない。固い皮を白湯へ浸すと、少しだけ麦の甘さが戻った。
一週間目の最後の日、作業を終えた者へ小さな包みが配られた。包みの中には、親指の爪ほどのチョコレートが一片入っている。南方商人から贈られた品を、農場の責任者が全員へ等しく分けたものだった。
マリアンヌは黒い一片を舌へ載せようとした。甘い匂いだけで唾が出たが、隣の女性が半分を布へ包み直すのを見て手を止める。彼女もチョコレートを包み紙へ戻し、作業着の内側へしまった。
「食べないのか?」ジークハルトは自分の一片をすでに飲み込み、指についた粉を舐めていた。食べたあとで惜しくなったのか、マリアンヌの胸元を見た。
「これは明日食べる」
「私に半分よこせ。王宮にいた頃、君は甘い物を好まなかっただろう」
「嫌です」
「一片くらいで何を――」
「これだけは、私が働いて得たものだから」
マリアンヌは胸元を両手で押さえた。王宮にいた頃は、宝石も衣装も食事も、望めば誰かが用意した。自分の手で得たと胸を張れるものが、親指の爪ほどの一片しかないことを、彼女は初めて知った。
翌朝、マリアンヌは誰より早く厨房へ入った。昨夜の灰が残る竈のそばには、ベッカが焼きかけの平パンと、冷めた香草茶を置いている。窓辺では、雪の間から摘んだ黄色い福寿草が、欠けた瓶へ一輪だけ生けられていた。
マリアンヌは大桶の前へ立った。乾燥豆を両手ですくったものの、水の量も、浸す時間も分からない。以前なら、相手が気づいて教えるまで黙っていただろう。
「ベッカさん」マリアンヌは豆を桶へ戻した。名前を呼ばれた料理長が、平パンを裏返す手を止めた。
「何ですか?」
「豆を焦がさない方法を、教えてください」
ベッカはすぐには答えず、焼けた平パンを網から下ろした。湯気の立つ一枚を半分に割り、一方をマリアンヌへ渡す。昨日までなら当然に受け取っていたその半分を、マリアンヌは両手で持った。
「では最初に、豆を選り分けましょう。石が混じっています」
「煮れば柔らかくなりませんか?」
「石は、いくら煮ても石です」
二人は桶の前へ椅子を並べた。マリアンヌは豆を一粒ずつつまみ、欠けた豆と小石を別の皿へ分けた。外ではジークハルトが水路へ入り、昨日直した管から落ちる一滴を、自分の目で確かめていた。




