第5話 見捨てれば、ハンナが飢える
第5話 見捨てれば、ハンナが飢える
王都の中央広場には、春を待たずに色とりどりの布花が咲いていた。白い石畳の上へ赤、青、黄色の旗が渡され、広場を囲む建物の窓からも、女性たちが身を乗り出している。壇上に立つマリアンヌは、薄桃色の外套に真珠の髪飾りをつけ、集まった人々へ両手を広げた。
「生まれた家や性別によって、学ぶことを諦める時代は終わります!」マリアンヌの声は、広場の端までよく通った。冷たい風の中で何時間も待っていた若い女性たちは、頬を赤くしながら拍手を送った。
その日、女性職業学校の新校舎が完成した。読み書きを習えなかった商家の娘、夫を亡くして働き口を探す女性、家業を継ぎたい鍛冶屋の娘が、木の香りの残る教室へ入っていく。机の上には新しい教本と鉛筆が並び、食堂では豆と鶏肉の煮込みが大鍋から配られていた。
ジークハルトは壇上の後ろで拍手を送り、自分の判断が正しかったと確信していた。アデライドが反対した祝典によって、これほど多くの者が笑っている。彼の濃紺の正装には金糸の獅子が刺繍され、胸元には、アデライドから贈られた銀の留め具が今も曲がったまま残っていた。
「やはり、君の計画を認めて正解だった」ジークハルトは祝辞を終えたマリアンヌへ、蜂蜜酒の杯を渡した。二人の背後では、祝賀用の白い鳩が籠の中で羽音を立て、係員が放鳥の合図を待っていた。
「アデライド様なら、まだ時期が早い、予算が足りないと止めたでしょう」マリアンヌは杯へ口をつけ、広場を見下ろした。集まった女性たちが自分の名前を呼ぶたび、真珠の髪飾りが陽光を返した。
「金はあとから補充できる。しかし、学びたい者の時間は戻らない」
「種麦の購入は春でよいのですものね」
「当然だ。北方には冬を越すだけの備蓄がある」
白い鳩が空へ放たれた。広場から歓声が上がり、楽団が演奏を始める。その足元では、会計官が種麦購入費と記された帳簿の項目を二本線で消し、女性自立祝典費と書き換えていた。
北方の別邸では、その朝から雪が降り続いていた。屋根の穴は村の職人が板で塞いだが、強い風が吹くたび、天井から細かな木屑が落ちる。アデライドは机へ白い布を広げ、前日に完成した携帯食を一つずつ包んでいた。
新しい携帯食は、薄く焼いた穀物と脂、干し肉、豆の粉、木の実が別々になっている。包みの紐は片手でも引けるよう輪を作り、味を見分けられるよう端へ色糸を縫いつけた。赤は木の実、黄色は蜂蜜、青は塩味で、ハンナは黄色の包みだけ形が少し大きいと主張していた。
「同じ重さです」アデライドは小さな秤へ黄色の包みを載せた。向かいに座るハンナは納得せず、赤と黄色を交互に載せ、針の動きを鼻が触れそうな距離から見ていた。
「黄色には、蜂蜜の重さが入っています」
「その分、穀物を減らしました」
「蜂蜜を減らさなければよかったのに」
「それでは栄養量ではなく、お菓子の相談になります」
暖炉のそばでは、ガレスが折れた矢を削り、携帯食の包みを開けるための細い道具を作っていた。脇腹の傷は塞がり始めたが、長く座ると痛むらしく、ときどき誰にも見られないよう身体の向きを変える。彼の椅子の下には、昨夜脱いだ片方だけの靴下が落ちていた。
玄関の扉が三度叩かれた。雪を払う音に続いて、王家の紋章をつけた男が入ってくる。監査院のオルセンと名乗った男は、黒い外套の肩へ積もった雪を払い、革鞄から国王の親書を取り出した。
「アデライド・シルヴェスター様。陛下から、王宮へお戻りいただきたいとのご命令です」オルセンは封蝋のついた手紙を机へ置いた。冷えた指を温めるため、マルタから出された生姜湯の器を両手で包んでいる。
「私はすでに、王太子殿下の婚約者ではありません」
「婚約者としてではなく、臨時国政補佐官としてです。監査院が、あなたから提出された記録を調査しました」
オルセンは鞄からもう一冊、赤い革表紙の帳簿を出した。開かれた頁には、北方種麦購入費という文字があり、その横へ女性自立祝典費と書き加えられている。金額は、北方六村へ一年分の種麦を送るために確保された全額だった。
アデライドは帳簿の端をつかんだ。紙には王宮で使っていた青い香墨の匂いが残り、支出の承認欄にはジークハルトの署名がある。マリアンヌの提案書にも、王太子府の正式な印が押されていた。
「監査院は支出を止めなかったのですか?」
「祝典の三日前に承認され、すでに大半が使われていました。残額だけでは、必要量の一割も購入できません」
「周辺国から買い集めてください。価格が上がっていても、王室の予備費を使えば――」
「買える種麦がありません」
その言葉に、アデライドの指が止まった。オルセンは周辺三か国も長雨と病害で不作となり、余剰の種麦を国外へ出すことを禁じたと説明する。穀物商の倉庫に残っているものは食用に加工され、種としての発芽率が低かった。
机の下で、ハンナが黄色い携帯食を握っていた。話の意味をすべて理解した様子はなかったが、種麦という言葉を聞き、秤から顔を上げている。アデライドは帳簿を閉じ、少女に見えないよう赤い革表紙を裏返した。
「陛下は、あなたに緊急調達と配給計画の再編を命じておられます」オルセンは国王の親書を指した。生姜湯はほとんど減らず、表面に薄い膜が張り始めていた。
「王宮には、補給を担当する官吏がいるはずです」
「三日前に責任者が辞職しました。その下にいた者たちも、互いに責任を押しつけています」
「新しい責任者を任命してください」
「適任者がいません。陛下は、あなたなら三日で立て直せると――」
アデライドは椅子から立ち上がった。膝が机の裏へ当たり、秤の皿から黄色い携帯食が落ちた。ハンナが拾おうとしたが、アデライドは先に屈み、包みについた埃を前掛けで拭った。
また、自分なら何とかできると言われた。期限は三日で、失敗した者たちは責任を押しつけ合い、最後にアデライドを呼ぶ。彼女が戻れば、ジークハルトは種麦を流用した理由を説明せずに済む。
「お断りします」アデライドは黄色い包みをハンナへ返した。手を離すと、指先に蜜の甘い匂いが残った。
「しかし、このままでは北方の農民が――」
「それを決めた方々が、責任を負うべきです」
「陛下のご命令です」
「私は王太子府を離れたとき、二度と誰かの失敗を隠さないと申し上げました。私が戻れば、同じことになります」
オルセンは国王の親書を持ち上げたが、アデライドは封を切らなかった。暖炉では薪が崩れ、焼いていた林檎から甘い汁が灰へ落ちた。焦げる匂いが広がり、ハンナが慌てて火掻き棒を取った。
「返事は、いま申し上げたとおりです」アデライドは親書をオルセンへ返した。声は乱れなかったが、前掛けの端を握った手は白くなっていた。
監査官が帰ったあと、別邸は急に静かになった。ハンナは王家の馬車が雪道の向こうへ消えるまで窓から見送り、携帯食の黄色い包みを外套のポケットへ入れた。アデライドは赤い帳簿の写しを暖炉へ投げ込みたくなったが、机の引き出しへしまった。
「種麦って、私たちの麦ですか?」ハンナは振り返らずに尋ねた。窓硝子には少女の息が白く曇り、その中央に指で小さな丸が描かれていた。
「北方六村へ送られる予定だったものです」
「私の村も入っていますか?」
アデライドは答えられなかった。ハンナは急かさず、窓の曇りへ麦の穂らしい形を描いた。茎の左右へ短い線を何本も加えたあと、うまく描けなかった部分を袖で消した。
夕方、ハンナはマルタの家へ帰った。アデライドは蕪と豆のスープを温め直したが、匙を口へ運んでも味が分からない。鍋の底には二人分以上が残り、明日の朝へ取っておくための器も用意したのに、一杯目さえ半分で冷めた。
外が暗くなってから、玄関を叩く音がした。扉を開けると、ハンナが空の種子袋を抱えて立っていた。赤い帽子には新しい雪が積もり、頬には風に当たった赤い筋がついている。
「忘れ物ですか?」アデライドが尋ねると、ハンナは首を振った。袋の端に書かれた「春の麦」という文字を、親指で何度もなぞっている。
「王太子様は、種麦を送ってくださいますよね?」
アデライドは少女を居間へ入れ、濡れた帽子を暖炉の前へ掛けた。温め直したスープをよそったが、ハンナは器へ手を伸ばさない。種子袋だけを膝へ載せ、アデライドの返事を待っていた。
「ハンナ、王宮では、いま調査が行われています」
「来ないのですか?」
「まだ、決まったわけではありません」
「でも、王太子様は約束しました」
ハンナは寝台脇に飾っていた新聞の切り抜きを持ってきていた。泥のついた外套で演説するジークハルトの顔には、折り畳んだ線が入っている。少女は紙を破らないよう、机の上へそっと広げた。
「お父さんとお母さんが水に流されたあと、私は何も食べたくなかったの」ハンナは新聞の中のジークハルトを見た。暖炉から焼けた林檎の匂いが漂い、窓の外では風が雨戸を鳴らした。
「おばあちゃんがスープを作っても、いらないって言いました。二人がいないのに、どうして私だけ食べるのか分からなかったから」
アデライドは何も言えず、ハンナの前へ置いたスープの表面を見つめた。刻んだ冬パセリが湯気に押され、器の端へ寄っている。少女は冷えた手を種子袋の中へ入れ、空であることを確かめるように底へ触れた。
「そのとき王太子様が、国は私たちを一人も見捨てないって言ったの。だから私は、次の日にスープを飲みました。春になったら麦を植えて、夏まで生きようと思いました」
ハンナは顔を上げた。泣いてはいなかった。ただ、王太子の言葉が今も変わっていないと信じて、アデライドを見ていた。
「来年の麦ができたら、お父さんとお母さんのお墓にもパンを持っていきます。王太子様は、種麦を送ってくださいますよね?」
アデライドの喉が動いた。ここでも「きっと届きます」と言えば、ハンナは安心してスープを飲むだろう。足りない種麦は自分が別の予算から探し、三日眠らず働けば何とかできるかもしれない。
しかしそれをすれば、ジークハルトはまた約束を守った王太子になる。マリアンヌの祝典も成功したままで、種麦を奪った責任だけが消える。アデライドは唇を噛み、血の味がするまで力を入れた。
「ごめんなさい」声を出すと、胸の奥が大きく縮んだ。ハンナの目が少しずつ見開かれていく。
「種麦のためのお金は、王都の祝典に使われました。いま、あなたの袋へ入れる麦はありません」
「王太子様が、使ったのですか?」
「はい」
「アデライド様は、直せないのですか?」
その問いに、アデライドは息を吸えなくなった。直せると言えばよい。自分が戻れば、また何とかできると言えばよい。
「私一人では、直せません」
ハンナは空の袋を抱き締めた。口を結んだまま何度も頷き、スープへ手を伸ばさず椅子から降りた。アデライドが引き止める前に帽子をつかみ、玄関から雪の中へ走り出した。
追いかけなければならない。そう思って立ち上がったアデライドの膝が、椅子へ当たった。椅子は床へ倒れ、背もたれが大きな音を立てた。
「どうして私が助けなければならないの!」アデライドは倒れた椅子を起こさず、机の上の新聞をつかんだ。ジークハルトの顔が、握った指の間で歪んだ。
「私を捨てた人たちでしょう! 皆の前で笑いものにして、私のしてきたことを支配だと言ったのでしょう! だったら自分たちで直せばいい! 私はもう、何もしたくない!」
机の上のスープを腕で払った。器が床へ落ちて割れ、蕪と豆が敷物へ広がった。アデライドはその場へ膝をつき、濡れた欠片を拾おうとして指を切った。
「私だって、助けてほしかった! 誰か一人くらい、もう働かなくていいと言ってほしかった! なのに、どうしてあの子が飢えるの。どうして、また私なのよ!」
玄関に、ガレスが立っていた。黒い外套へ雪を積もらせ、片手にはハンナが落とした空の種子袋を持っている。彼は泣きわめくアデライドを止めず、割れた器にも手を伸ばさなかった。
アデライドは袖で顔を拭い、床の豆を拾った。指の傷から落ちた血が、白い蕪へついた。捨てようとすると、ガレスがようやく彼女の前へしゃがんだ。
「それは食べられない。手も切れている」
「私がこぼしました。私が片づけます」
「今夜でなければならないのか?」
「私がしたことです」
「では、明日、明るくなってから片づけろ。今は傷を洗う」
アデライドは首を振った。ガレスは無理に手を取らず、水差しと清潔な布を床へ置いた。それから倒れた椅子を一脚だけ起こし、自分が座った。
「王宮へ戻れと、国王から言われました」アデライドは自分で傷を洗い、布を巻いた。結び目は涙でよく見えず、二度ほどほどけた。
「聞いた」
「断りました」
「それも聞いた」
「このままでは、ハンナが飢えます」
ガレスは空の種子袋を机へ置いた。袋には雪が染み込み、「春の麦」という文字の一部がにじんでいる。彼は暖炉の火へ薪を一本足した。
「王宮へ行きたいのか?」
「行きたくありません」
「なら、行くな」
「では、ハンナを見捨てろというのですか!」アデライドは顔を上げた。声をぶつけても、ガレスは眉一つ動かさなかった。
「違う。一人で王宮へ行くなら止めると言っている」
「私が行かなければ、配給計画を作れる者がいません」
「農民は、必要な種の量を知っている。商人は、どこに在庫があるか知っている。兵士は、どの道なら雪の中でも荷を運べるか知っている。監査官は、どの予算を止められるか知っている」
「それをまとめる者が必要です」
「まとめることと、全部背負うことは違う」
ガレスは指を折り、必要な人間を一人ずつ数えた。北方軍の補給官、六村の代表、穀物商、修道院の倉庫番、監査院のオルセン、携帯食を作った料理人と荷運び人。誰も一人では種麦を用意できないが、全員の持っているものを集めれば、冬を越せる可能性があった。
「私には、助けを求める資格があるのでしょうか」アデライドは床へ落ちた新聞を拾った。ジークハルトの顔には皺が入り、もう元のようには伸びなかった。
「資格がなければ、ハンナは君を助けなかった。村の者も、私を助けなかった」
「断られるかもしれません」
「断る者もいる。それでも、頼まなければ始まらない」
翌朝、別邸の居間には、ガレスが呼んだ人々が集まった。兵士、農民、監査官、料理人、荷運び人、猟師が、まだスープの染みが残る机を囲んでいる。ハンナもマルタの隣へ座り、乾かした種子袋を膝へ載せていた。
アデライドは、昨夜倒した椅子の前に立った。目元は腫れ、包帯を巻いた指はうまく曲がらない。いつものように完成した計画を配ることも、全員へ指示することもできなかった。
「種麦を用意すると、私一人では約束できません」アデライドはハンナを見た。少女は空の袋を握ったまま、逃げずに視線を返した。
「私には帳簿が読めます。でも、畑のことも、雪道のことも、倉庫のことも、すべては分かりません。もう、分かったふりをして一人で決めたくありません」
アデライドは両手を身体の前で重ねた。包帯の白さだけが、焦げ茶色の服の上で目立っていた。
「皆さんの力を貸してください。ハンナたちが春に麦を植えられる方法を、一緒に探してください」
誰もすぐには拍手しなかった。農民は隣の者と低い声で相談し、穀物商は帳面を開き、兵士は壁に掛けられた地図を外した。やがてマルタが大鍋の蓋を開け、人数分の木椀を机へ並べ始めた。
「話が長くなるなら、先に食べよう」マルタは昨夜とは別の蕪と豆のスープをよそった。ハンナは最初の一杯をアデライドの前へ置き、空の種子袋を机の中央へ広げた。
袋はまだ空だった。けれどその周りには、ひとりでは持てない知識と手が、少しずつ集まり始めていた。




