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第2話 誰も助けない一日

第2話 誰も助けない一日


北方の別邸へ着いたのは、王宮を出てから四日目の夕方だった。雪は途中で雨へ変わり、馬車の車輪はぬかるんだ道へ何度も取られた。アデライドは夜会で着ていた淡い青のドレスの上に灰色の外套を重ね、膝の上には、結局一つも食べなかった蜂蜜菓子の箱を置いていた。


別邸は、母が結婚前に暮らしていた小さな屋敷だった。石造りの壁には蔦が枯れたまま絡まり、屋根の一部には黒い穴が開いている。玄関脇では冬咲きの黄色い水仙が雨に打たれ、折れた茎を泥の上へ横たえていた。


「本当に、こちらでよろしいのですか」御者は御者台から降り、傾いた煙突を見上げた。彼の革靴には泥が厚くつき、鼻の頭は冷たい風で赤くなっていた。


「はい。ここは私の所有する家です」アデライドは馬車を降り、錆びた鍵を玄関へ差し込んだ。三度回しても動かず、肩で扉を押すと、内側に積もっていた落ち葉が音を立てた。


御者は荷物を運び入れ、近くの村まで同行すると申し出た。アデライドは反射的に断り、帰路の食事代を多めに渡した。誰かに頼らなくても暮らせると証明しなければ、王宮を出た意味がないように思えた。


「お気遣いは不要です。明るいうちにお帰りください」アデライドが笑うと、御者は何度も別邸を振り返りながら馬車を出した。蹄の音が遠ざかるにつれ、雨が屋根を叩く音ばかりが大きくなった。


玄関広間には、白い布をかけられた家具が並んでいた。布の上には鼠の足跡が残り、壁際の傘立てには、母が使っていたという花柄の杖が一本だけ置かれている。アデライドは荷物を居間へ運び、濡れた外套を椅子の背へ掛けた。


暖炉の脇には薪が残されていた。けれど湿っているうえ、火打ち石を何度打っても、小さな火花が黒い薪の表面で消える。王宮では冬季の燃料費を銀貨一枚単位で管理していたのに、一人分の火さえ起こせなかった。


「まず、煙突の空気孔を開けるのでしたね」アデライドは独り言を口にし、暖炉の中へ顔を入れた。煤が額と鼻先へ落ち、咳き込んだ拍子に火打ち石を床へ転がした。


その夜は火を諦め、旅用の保存パンを水で流し込んだ。パンは歯が痛むほど固く、蜂蜜菓子の箱へ手を伸ばしかけたが、金色の紐を見て引っ込めた。雨漏りを受けるため鍋を三つ並べると、天井から落ちる雫が、それぞれ違う間隔で底を叩いた。


翌朝、アデライドは母が残した焦げ茶色の毛織り服へ着替えた。袖は少し短く、手首が外へ出たが、夜会服よりは動きやすい。鏡へ映った額には煤の筋が残り、髪も片側だけ潰れていた。


王宮なら、呼び鈴を一度鳴らせば湯が運ばれてきた。ここには呼び鈴の紐さえなく、台所の水甕も空だった。庭の井戸へ向かうと、滑車の綱が途中で切れ、桶は深い底に沈んでいた。


「修繕には、滑車と麻縄、それから新しい桶が必要です」アデライドはいつもの癖で、携帯用の帳面へ必要な品を書き始めた。村へ行って職人を頼めば済むと分かっていたが、文字を書き終えても足は門へ向かなかった。


役に立たない女だと思われる。火も起こせず、水も汲めないと知られたら、村人まで自分を笑うかもしれない。王宮の夜会で聞いた笑い声が、雨樋から水の落ちる音へ混じった。


アデライドは屋根から落ちる雨水を鍋へ集めた。布でこして口へ含むと、錆と枯れ葉の匂いがした。昼には保存パンを半分だけ食べ、残りを明日のために包み直した。


午後、台所の棚を調べると、乾燥した豆が瓶の底に残っていた。しかし煮る火がなく、豆は指の間で硬い音を立てるだけだった。隣の瓶には塩が固まっており、木匙で削ると、小さな白い塊が床へ落ちた。


門の外を、籠を背負った老婆と少女が通った。籠には細い葱、土のついた蕪、赤い実を残した野薔薇の枝が入っている。少女が別邸を見上げたため、アデライドは窓掛けの陰へ身を隠した。


「煙が出ていないね」少女の声が、割れた窓硝子の隙間から聞こえた。アデライドは暖炉を振り返り、黒い薪を見つめた。


「長いこと空き家だったからね。誰かいるなら、そのうち村へ来るだろうさ」老婆はそう答え、二人分の足音は遠ざかっていった。アデライドは窓掛けから手を離したが、村へ追いかけていくことはできなかった。


二日目の夜も、暖炉には火がつかなかった。濡れた服を椅子へ掛けたまま毛布へ潜ると、布から湿った羊毛の匂いが上がってきた。眠りかけるたび、王宮の扉が開いてジークハルトが迎えに来る夢を見た。


三日目の朝、雨はやみ、雲の隙間から薄い日差しが射した。庭では黄色い水仙が一本だけ起き上がり、濡れた花弁を風へ向けていた。アデライドは最後の保存パンを食べようとしたが、口の中が乾き、欠片を飲み込めなかった。


水を汲まなければならない。新しい綱がなくても、切れた綱を結び直せば桶を引き上げられるかもしれない。アデライドは井戸の縁へ膝をつき、冷えた麻縄を握った。


結び目は指へ食い込んだが、滑車は動かなかった。もう一度力を込めると、視界の端から色が消えていった。遠くで誰かが自分の名前を呼んだ気がしたが、返事をする前に頬が冷たい土へ触れた。


次に目を開けたとき、鼻先に豆と玉葱を煮た匂いがあった。低い天井から乾燥させた薬草が束になって吊され、暖炉のそばでは濡れた靴下が二足、紐に並んでいる。アデライドは藁を詰めた寝台へ横たわり、生成り色の毛布を顎まで掛けられていた。


「起きたよ、おばあちゃん!」寝台の脇にいた少女が、勢いよく立ち上がった。手にしていた木匙からスープが一滴こぼれ、茶色い前掛けへ丸い染みを作った。


「そんなに大声を出したら、また倒れるよ」昨日の老婆が鍋をかき混ぜながら振り返った。灰色の髪を後ろで結び、肘には何度も繕った跡のある緑色の上着を着ていた。


「私は……井戸にいたはずです」アデライドは起き上がろうとしたが、腕に力が入らなかった。少女が慌てて背中へ丸めた毛布を差し込み、木匙を持ち直した。


「ハンナが見つけたんだよ。まず食べなさい。話はそれからだ」老婆は欠けた陶器の器へスープをよそった。蕪、豆、玉葱、細く切った人参が入り、表面には刻んだ冬パセリが浮いていた。


ハンナは匙ですくったスープへ息を吹きかけた。緊張しているのか、何度吹いても口へ運ばず、アデライドの顔を見ている。アデライドが手を伸ばすと、少女は匙ではなく器ごと差し出した。


「自分で食べられますか?」ハンナは丁寧な言葉を使おうとして、最後だけ声を小さくした。前髪には枯れ草が一本絡まり、左の靴下は右より短かった。


「ええ。ありがとうございます」アデライドは器を両手で受け取った。温かさが冷えた指へ広がり、最初の一口を飲み込むと、塩気と炒めた玉葱の甘さが舌へ残った。


二口目で、目の前がにじんだ。王宮の料理より薄味で、蕪は少し煮崩れていた。それでも、誰かが自分一人のために椀へよそってくれた食事を、アデライドはいつから食べていなかったのか思い出せなかった。


「代金をお支払いします」食べ終えたアデライドは、寝台脇に置かれた鞄を探した。硬貨入れを取り出して金貨を一枚差し出すと、老婆は眉を上げた。


「蕪と豆のスープに金貨一枚ももらったら、私は明日から何を食べても落ち着かなくなるよ」老婆は受け取らず、鍋の蓋を閉めた。蓋のつまみには赤い布が巻かれ、火傷をしないよう工夫されていた。


「ですが、助けていただいた分を返さなければなりません」アデライドは金貨を引っ込められなかった。返さなければ、借りが身体へ残り、いつかもっと大きなものを要求される気がした。


「では、元気になったら薪を一緒に運んでおくれ。一人では重くてね」老婆は窓の外に積まれた薪を指した。太いものと細いものが分けられ、上には雨除けの古い板が載せられていた。


「それだけでよいのですか?」


「スープ一杯と薪運びなら、私の方が得をするかもしれないね」


「おばあちゃんのスープ、豆が多いから高いよ」ハンナが口を挟み、空になった器を受け取った。老婆は少女の額を指で軽く弾き、自分はマルタだと名乗った。


助ける者と助けられる者は、別々だと思っていた。王宮では、アデライドが助ける側で、誰かの手を借りれば仕事のできない女になる。けれどマルタはスープを作り、アデライドは薪を運べばよいと言う。


寝台の横には、古い新聞の切り抜きが貼られていた。雨に濡れたのか端が波打ち、中央には泥のついた外套で演説するジークハルトの姿がある。三年前の洪水被害を伝える記事だった。


「王太子様です」ハンナは椅子へ上がり、切り抜きの皺を指で伸ばした。瞳を輝かせる少女の後ろで、暖炉の火が乾いた薪を弾けさせた。


「あのとき、お父さんとお母さんが水に流されました。私も何も食べたくなかったけれど、王太子様が、国は一人も見捨てないとおっしゃったんです。だから、おばあちゃんのスープを食べました」


アデライドは新聞の中のジークハルトを見た。あの日の演説は、誰かが書いた原稿ではない。彼は濁流の前で紙を捨て、自分の言葉で国民へ約束した。


「来年、王太子様がまた村へ来てくださるんです」ハンナは棚の上から、空の種子袋を持ってきた。袋の端には、少女の字で「春の麦」と書かれていた。


「今度は種麦も送ってくださるって。ここへいっぱい入るんです。おばあちゃんと一緒に植えたら、夏には白いパンが食べられます」


アデライドの膝の上で、金貨を握った手が止まった。種麦の購入費は、マリアンヌが祝典へ使おうとしている。監査院が支出を止めなければ、この袋は春になっても空のままだった。


「王太子様は、約束を守ってくださいますよね?」ハンナは袋を胸へ抱え、アデライドを見上げた。暖炉の上では、洗ったばかりの木匙から雫が一つ落ちた。


アデライドは本当のことを言おうとした。しかし、少女の指が空の袋を大切そうに撫でるのを見て、言葉を飲み込んだ。ジークハルトはまだ王太子で、監査も始まったばかりなのだから、きっと間に合うと自分へ言い聞かせた。


「ええ」アデライドは、いつも王宮でしていたように微笑んだ。相手が心配しない顔を選び、不都合な事実を自分の胸へしまった。


「きっと、届きます」


ハンナは安心したように笑い、空の袋を元の場所へ戻した。マルタは鍋の底に残ったスープを明日の朝食用の器へ移し、布をかけた。アデライドはその手元を見ながら、自分が王宮を出たあとも、何一つ隠さない人間にはなれていないことに気づいていた。


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