第1話 その優しさが皆を駄目にする
第1話 その優しさが皆を駄目にする
建国記念日の夜、王宮の大広間には、温室で育てられた白薔薇が飾られていた。外では初雪が降っているのに、磨かれた銀器の隣では季節を忘れた花が甘い香りを放ち、楽団の奏でる舞曲に合わせて花弁を震わせている。淡い青のドレスをまとったアデライドは、給仕が運んできた鶉の丸焼きへ手をつけないまま、王太子ジークハルトの曲がった袖口を見ていた。
十九歳の誕生日に贈った銀の留め具が、今夜も彼の袖を飾っている。留め具の裏には、二人の名前の頭文字が刻まれていた。アデライドは直してあげたい衝動を抑え、膝の上で手袋の指先を握った。
「アデライド・シルヴェスター。今夜をもって、君との婚約を破棄する」ジークハルトは舞踏の終わった広間の中央で宣言した。彼の隣には、桃色のドレスを着たマリアンヌが立ち、胸元に飾った冬椿へ指を添えていた。
楽団の演奏が止まり、弦を押さえ損ねた楽師の指から、短い音が一つだけ漏れた。取り皿に残された杏の砂糖煮から湯気が消え、暖炉では薪が崩れて赤い火の粉が上がっている。アデライドは椅子から立ったが、ドレスの裾を踏み、銀糸で刺繍された小さな麦の穂を靴の金具へ引っかけた。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」アデライドは裾を外し、背筋を伸ばした。喉の奥へ酸っぱいものが上がってきたが、唾を飲み込むと、いつものように声だけは整った。
「その態度だ。君はいつも正しく、いつも私より先に答えを知っている」ジークハルトは眉間へ皺を寄せ、袖口の留め具をいじった。直そうとしてさらに曲げてしまったことには気づかず、彼は集まった貴族たちへ視線を向けた。
「私が公文書へ署名する前に誤字を直し、会議で発言する前に資料をそろえ、失敗すれば私の知らないところで処理する。側近の仕事にも口を出し、侍従の予定まで管理する。君のその異常な優しさが、私たちから自分で考える力を奪ったのだ」
アデライドの指先が、手袋の内側で冷えた。先月、ジークハルトが隣国の大使の敬称を間違えたとき、彼女は夜通し書簡を書き直し、翌朝までに新しい封蝋を用意した。三年前の洪水では、彼が被災地へ立つ間、食糧と毛布の数を一人で計算し、不足が知られないよう自分の宝石を売っていた。
「殿下がお困りにならないようにと考えました」口に出すと、ひどく頼りない言葉に聞こえた。アデライドは料理の載った卓へ目を落とし、誰にも食べられないまま冷えた鶉の皮に、脂が白く固まり始めているのを見た。
「それが問題なのです」マリアンヌは一歩前へ出て、広間の客へ聞かせるように声を張った。桃色の絹から薔薇の香油が漂い、それはアデライドが先月、彼女の就任祝いとして贈ったものと同じ香りだった。
「善意を理由に人を管理することも、一つの支配です。殿下には失敗する自由があります。側近の皆様にも、自分で決める権利があるのです」
貴族たちの間から、小さな同意の声が上がった。王太子府の若い書記官は目を伏せたまま、確かに息が詰まっていたとつぶやき、会計官はアデライドの検算があると思うと自分の数字を信じられなくなったと言った。アデライドは彼らの机へ置いてきた夜食、眠そうな者の代わりに書いた議事録、妻の出産に立ち会わせるため黙って肩代わりした当直表を思い出した。
頼まれたことばかりではなかった。困っている顔を見ると、相手が口を開く前に手を出した。感謝されれば自分の居場所が守られた気がして、次はもっと早く気づこうとした。
「皆様が、そのように感じていたとは存じませんでした」アデライドが答えると、右手の親指が左手の爪を強く押した。手袋の下で皮膚がへこんでも、痛みはほとんど分からなかった。
「もう終わりにしましょう」マリアンヌはジークハルトの腕へ自分の手を重ねた。銀の留め具が彼女の袖へ当たり、小さな音を立てた。
「これからは、王太子府の者が自由に意見を出せるようにします。面倒な事前審査も廃止して、予算も必要とする方へすぐ届けられる仕組みにいたします。女性職業学校の祝典にも、王室予算をもっと活用すべきですわ」
アデライドは顔を上げた。来春の種麦購入費と、北方の堤防修繕費について、マリアンヌから転用の申請が届いていた。それを却下したのは、彼女の意見を抑圧したかったからではない。
「その予算は、洪水被害を受けた村へ送る種麦の購入費です」アデライドはマリアンヌを見た。少女は一瞬だけ唇を結んだが、すぐに微笑みを戻した。
「春までに補充すればよいでしょう。いま苦しんでいる女性たちを助けることも、立派な国政です」
「今年は隣国も不作です。春に金貨があっても、種麦そのものが買えない可能性があります」
「また先回りして不安をあおるのか!」ジークハルトは声を荒らげ、卓上の杯へ腕を当てた。赤葡萄酒が白い卓布へこぼれ、染みは地図のような形に広がったが、アデライドは布巾を取ろうとしなかった。
これまでは、彼が杯を倒す前に位置を直していた。倒したあとも会話が途切れないよう、給仕へ合図を送っていた。今夜は誰も動かず、赤い雫が卓布の端から床へ落ちた。
「君の役目は終わった。王太子府の鍵を返せ」ジークハルトが手を差し出した。曲がった袖口から、十三歳の彼が結んだ古い傷痕がのぞいていた。
あの日、王妃教育の試験に落ちたアデライドは、宮殿の裏庭で答案を破ろうとしていた。まだ細い腕をしたジークハルトが紙を取り上げ、間違えても嫌いにならないと言った。二人で厨房から盗んだ蜂蜜菓子を半分ずつ食べ、甘すぎると笑った。
アデライドは腰に下げていた鍵束を外した。王太子の執務室、会議資料庫、外交文書室の三本が、銀の輪に通されている。最後の一本には、ジークハルトが子どもの頃につけた青い糸が、色あせたまま残っていた。
「返却いたします」アデライドは鍵束を彼の掌へ置いた。指が離れると、金属が触れ合って乾いた音を立てた。
「それから、私が皆様の失敗を隠してきたことについて、訂正しなければなりません」
広間の扉が開き、監査院長と二人の書記官が入ってきた。書記官の抱えた箱には、アデライドが保管していた決裁書、修正前の公文書、不正支出の記録が収められている。彼女は夜会が始まる前に、すべてを監査院へ引き渡していた。
ジークハルトの頬から血の気が引いた。マリアンヌは彼の腕から手を離し、箱の封印を凝視した。白薔薇の香りに、こぼれた葡萄酒の酸味が混じった。
「何のまねだ、アデライド」
「私が皆様から、失敗する権利を奪ったことは認めます」アデライドは親指を爪から離した。手袋の中に残った痕へ、遅れて熱が集まった。
「ですから、これからは失敗した結果も、ご自分でお引き受けください」
誰かが息を呑み、暖炉の薪が音を立てて割れた。アデライドは背を向けたが、三歩目で足が止まった。ジークハルトが追いかけてくる音を待ってしまったのである。
「アデライド!」背後から名前を呼ばれ、身体が勝手に振り返りかけた。けれど続いたのは、十三歳の少年の声ではなかった。
「戻って箱を取り下げろ。私の命令だ!」
アデライドは振り返らなかった。扉を抜け、人気のない回廊を歩いた。窓の外では雪が斜めに降り、壁際に飾られた赤い山茶花の鉢へ、隙間風が細かな雪を運んでいた。
玄関広間へ着くまで、歩幅を乱さなかった。侍女が外套を着せようとしたときも礼を言い、御者には馬車を出すよう頼んだ。だが扉が閉まり、蹄の音が石畳へ響いた途端、胃の奥が大きく持ち上がった。
アデライドは座席脇の小窓を開けた。冷たい風と一緒に雪が吹き込み、頬と髪を濡らした。身を乗り出して吐くと、昼に無理やり食べた薄いスープの酸っぱい味が喉へ残った。
馬車の床には、夜会へ向かう途中で買った蜂蜜菓子の箱が置かれていた。ジークハルトが昔好きだった店のもので、婚約破棄を告げられるとも知らず、帰りに渡すつもりだった。金色の紐はほどかれず、小さな雪の結晶が蓋の上で溶けていった。
戻って謝ればよい。監査院から箱を取り戻し、自分が誤解していたと言えばよい。明日の朝には公文書を分類し、種麦の予算も別の場所から捻出できるかもしれない。
アデライドは馬車の扉へ手を伸ばした。取っ手へ指をかけたとき、ハンナという少女から届いた手紙を思い出した。洪水で両親を失った少女は、来年の麦が楽しみだと、覚えたばかりの文字で書いていた。
扉を開ければ、また誰かの失敗を隠すことになる。けれど開けなければ、ジークハルトは二度と自分を見ないかもしれない。アデライドは取っ手を握ったまま、膝へ額を押しつけた。
「お嬢様、どちらへ向かいましょうか」御者が小窓の向こうから尋ねた。馬車は王宮の門を出たところで止まり、外套を着た門番が雪を肩へ積もらせている。
アデライドは口を開いたが、声が出なかった。王宮へ戻ってくださいと言えば、御者は何も尋ねず引き返すだろう。彼女は舌に残った酸味を飲み込み、蜂蜜菓子の箱を胸へ抱いた。
「北方の別邸へ行ってください」一度目の声は、車輪の軋みに消えそうなほど小さかった。アデライドは息を吸い、今度は御者に届くよう言い直した。
「母が残した古い家へ。王宮には、戻りません」
馬車が動き出した。アデライドの指は、蜂蜜菓子の金色の紐を何度もほどこうとしたが、結び目を見つけられない。やがて箱を膝に置き、震える両手で、自分の身体だけを抱いた。




