第15話 救ってはいけない命
その人の名前に死刻を見つけたのは、
翌日の朝だった。
村を出る前。
診療所の前に、年老いた女性が座っていた。
小さな体。
白い髪。
膝に毛布。
隣には十三歳ほどの少女。
孫らしい。
「勇者様!」
少女がレオンへ手を振った。
祖母が、
「大声出すんじゃないよ」
と叱る。
その程度の光景だった。
俺は診療所の掲示板を見る。
診察予定者の名前。
何となく。
もう癖になっている。
見てしまう。
オルラ・メイゼン
赤い。
死刻――本日
足が止まった。
「高城さん?」
レオンが気づく。
俺の顔で分かったらしい。
「誰です?」
答えなくても、
視線の先には二人しかいなかった。
◇
オルラは七十八歳。
心臓が少し弱い。
だが今日死ぬような状態ではない。
孫のエマと二人暮らし。
息子夫婦は数年前に事故で死亡。
俺たちは事情を話した。
以前ならぼかしたかもしれない。
もうできなかった。
助けた結果、
別の誰かが死ぬ可能性がある。
それまで話した。
エマの顔が青ざめる。
「でも」
すぐに俺へ近づいた。
「助けられるんですよね?」
俺は答えられない。
「前にも助けた人がいるんですよね?」
フィーネを見る。
フィーネも顔を伏せる。
「だったら、お婆ちゃんも!」
オルラ本人は静かだった。
「エマ」
「嫌!」
「まだ何も言ってないよ」
「分かるもん!」
少女が泣き始める。
「死んでもいいとか言わないで!」
オルラは困ったように笑った。
俺は部屋を出たくなった。
こういうときに、
一番言ってはいけない言葉を知っている。
お気持ちは分かります。
分かるわけがない。
十三歳で、たった一人の家族が今日死ぬかもしれない。
俺に分かるはずがない。
◇
「私は助けなくていいよ」
オルラが言った。
やはり。
エマが泣きながら首を振る。
「嫌!」
「昨日、村の人から聞いたよ」
オルラは俺を見る。
「一人助けると、他の誰かが選ばれるんだろ?」
「可能性が高いです」
「だったらいい」
「でも」
フィーネが声を上げる。
オルラは微笑む。
「若い人が代わりになるかもしれない」
「誰になるかは分かりません」
俺が言う。
「同じ年寄りかもしれない」
「子供かもしれない」
何も言えなかった。
「なら、やめとくれ」
エマが立ち上がった。
「勝手に決めないで!」
「私の命だよ」
「私のお婆ちゃんだもん!」
その言葉で、
部屋にいた全員が黙った。
その通りだった。
命は本人のもの。
でも、
その人が死んだあとを生きる人間もいる。
本人だけの問題ではない。
じゃあ家族が決めるのか。
勇者が決めるのか。
俺が決めるのか。
誰が決める。
俺がこの世界へ来てから追い続けている問いが、
突然目の前の老婆と少女の間に落ちてきた。
◇
俺たちは別室へ移った。
「助けるべきです」
レオン。
「本人が拒否してる」
ミレイア。
「死なせるのか!」
レオンの声が強い。
「そうは言っていません」
「同じでしょう!」
「レオン」
ガイルが止める。
「お前はどうなんだよ」
今度はミレイアが問う。
「治療すれば別の誰かが死ぬ可能性が高い。それでも?」
「目の前で死ぬ人を放っておけません」
「では次の人も助ける?」
レオンが黙る。
「その次も?」
答えられない。
フィーネが震える声で言う。
「私のときは……助けてもらいました」
誰も彼女を見られなかった。
「だから」
フィーネ。
「オルラさんだけ助けないのは……」
言葉が続かない。
ユリウスは壁際。
腕を組んでいる。
「本人の意思を尊重すべきだ」
ガイルが睨む。
「昨日まで必要な犠牲とか言ってたからだろ」
「違う」
「何が違う!」
空気が壊れ始める。
俺は頭が痛くなった。
会社の会議を思い出す。
営業。
製造。
品質。
全部正しい。
全部譲れない。
議論が長くなるほど、
相手の話ではなく、
自分の立場を守ること
が目的になっていく。
課長会議で何度見た。
人間は意見が対立すると、
問題を解決するより、
自分が間違っていないことを証明したくなる。
「一回止めよう」
俺が言った。
誰も聞かない。
「レオン」
「でも!」
「ミレイア」
「私は事実を――」
「ガイル」
「俺は――」
「止めろ!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
静かになる。
ノアが廊下から顔を出していた。
俺は椅子に座る。
「今、俺たちが決める話じゃない」
レオンが反論しようとする。
「でも――」
「俺たちが本人に選択肢を説明する。できることも。危険も。全部」
「そのうえで?」
「オルラさんが決める」
「エマは?」
痛いところだ。
「エマにも話す」
「十三歳ですよ」
「だからって除外するのも違う」
会社でも思った。
重要な話ほど、
「心配させないため」
と言って下に伝えない。
そして最後に決まったことだけ降ろす。
現場からすれば、
突然だった、
になる。
知らなくていいこともある。
でも、
自分の人生に関わることくらい、
知る権利はある。
「全員で説得するのはやめよう」
俺は言った。
「俺たち五人、六人で囲んだら、それだけで圧力になる」
「では誰が?」
ミレイア。
「フィーネ」
彼女が驚く。
「私?」
「治療するのはフィーネだから」
少し考える。
「それと俺」
「どうして高城さん?」
「一番何もできないから」
ガイルが鼻で笑う。
「自慢するな」
「こういうときは、できない人間も役に立つ」
フィーネと二人。
オルラとエマの部屋へ戻った。
◇
二時間話した。
フィーネは治療について説明した。
昨日までの出来事。
マーラ。
自分。
ダリオ。
隠さなかった。
途中でフィーネは泣いた。
エマも泣いた。
オルラは何度も黙った。
俺はほとんど聞いていた。
何度か聞かれた。
「助けた方がいいと思う?」
答えなかった。
「助けない方がいい?」
それにも。
「分かりません」
正直に言った。
「勇者なのに?」
エマ。
「俺は勇者らしいこと何もできないから」
「でも大人でしょ」
「大人でも分からないことはある」
四十八歳になれば、
もう少し人生が分かると思っていた。
二十代のころはそう思っていた。
三十代。
四十代。
役職が上がった。
部下が増えた。
決裁欄に自分の印鑑を押すようになった。
それでも、
分からないことは減らなかった。
むしろ、
分からないのに決めなければならないこと
が増えた。
「お婆ちゃん」
エマが言った。
「死にたいの?」
「違うよ」
オルラは即答した。
初めてだった。
「死にたいわけないだろ」
声が少し震えている。
「まだエマの花嫁姿だって見たい」
「じゃあ!」
「でも怖いんだよ」
オルラが泣いた。
「私が生きたせいで、どこかの子の婆ちゃんが死ぬかもしれない」
その言葉で、
エマも何も言えなくなった。
死刻まで。
あと一時間。
◇
最終的に。
オルラは、
治療を受けないことを選んだ。
俺たちは全員、部屋にいた。
フィーネは治癒魔法を使わない。
ただ、
痛みを和らげる最低限の術だけ。
レオンは最後まで納得していなかった。
それでもオルラの手を握っていた。
エマは反対側。
死刻。
十分後
五分後
一分後
俺は手帳を閉じた。
もう見なかった。
「エマ」
オルラ。
「何?」
「ちゃんと食べな」
「うん」
「夜更かししない」
「うん」
「人の物盗ったりしちゃ駄目だよ」
ノアが廊下で、
「何で俺見るんだよ」
と小さく言った。
オルラが笑う。
エマも泣きながら笑った。
その数分後。
オルラは静かに息を引き取った。
何も起きなかった。
魔獣も来ない。
大きな音もない。
ただ一人の人間が死んだ。
◇
葬儀のあと。
エマが俺の前に立った。
泣き腫らした目。
「勇者なのに」
俺は何も言えない。
「助けられたんでしょ」
「……たぶん」
「だったら」
少女の拳が俺の胸に当たった。
痛くはない。
「何で助けてくれなかったの!」
もう一度。
「何で!」
俺は受けた。
レオンが止めようとする。
手で制した。
エマは何度も俺を叩いた。
「勇者なんでしょ!」
違う。
俺が決めたわけじゃない。
オルラ本人が選んだ。
説明ならいくらでもできる。
でも。
今この子に必要なのは、
責任の所在の説明じゃない。
課長をやっていて覚えた。
問題が起きたとき、
部下の前で最初に、
「それは私が決めたことじゃない」
と言う上司だけにはなりたくないと思っていた。
だから俺は、
言い訳をしなかった。
「ごめん」
それだけ言った。
「何で……」
エマが俺の服を掴む。
「何でお婆ちゃんだったの……」
それには、
本当に答えられなかった。
◇
村を出る。
誰も話さない。
しばらく歩いてから、
レオンが俺の隣へ来た。
「修一さん」
最近、
高城さん、
ではなくなってきた。
「俺は、まだ納得できません」
「俺も」
レオンが驚く。
「修一さんが決めたんじゃないですか」
「オルラさんが決めた」
「でも、その決定を尊重した」
「ああ」
「なのに?」
「正しかったとは思ってない」
「じゃあ間違ってた?」
「それも分からない」
レオンが黙る。
「管理職って」
俺は前を見る。
「決めたあとに、答え合わせできないことが多いんだよ」
あっちを選べばよかった。
そう思う。
でも、
選ばなかった方の未来を見ることはできない。
だから結局、
決めた結果を抱えて進むしかない。
異世界でも同じらしい。
いや。
こっちの方が、
ずっと重い。
俺は手帳を開く。
自分の名。
高城修一
死刻――二十一日後
減っている。
その下に、
新しい名前はない。
オルラの死は、
誰かへ移らなかった。
一人が死んだ。
それで終わった。
ということは。
死刻どおりに死ねば、
次は選ばれない。
俺は足を止めた。
初めて、
仕組みの輪郭が見えた。
誰かを助けたときだけ、
死は別の誰かへ移る。
では――
なぜ最初から、その一人が死ななければならない?
誰が選んだ。
何のために。
俺たちが追うべき相手は、
魔王より先に、
そこにいるのかもしれなかった。




