第10話 名前のない少年
翌朝。
セラは普通に朝食を出した。
昨日の話などなかったような顔。
「礼拝堂の場所」
俺が聞く。
「北街道を半日。赤い橋を越えて東」
「案内は?」
「年寄りを働かせるな」
「元気そうだけど」
「客に言われる筋合いはない」
終始こんな調子だった。
出発するとき。
フィーネだけセラから小さな袋を渡された。
「何です?」
「菓子」
「ありがとうございます!」
俺には何もない。
「差がひどくない?」
「おっさんには知恵をやった」
「ほぼ何も教えてないだろ」
セラは笑った。
「生きて帰ってきたら続き教えてやる」
その言葉だけが妙に残った。
◇
北街道。
昼前。
小さな宿場町へ入った。
礼拝堂へ向かう前に食料を補給する。
市場は混んでいた。
フィーネが果物を見ている。
ガイルは肉。
レオンとミレイアは道具店。
俺は荷物番。
平和だ。
――と思った。
腰の革袋が軽くなった。
「ん?」
振り向く。
小さな影。
少年。
十歳くらい。
俺の金袋を持って走っている。
「おい!」
逃げる。
速い。
当然だが四十八歳より速い。
「待て!」
追う。
三十秒で後悔した。
息が切れる。
少年は市場の人混みを器用に抜ける。
「シュウおじさん?」
フィーネが気づいた。
「あいつ!」
指差す。
フィーネが走る。
速い。
十六歳。
勝てない。
少年は路地へ入った。
俺たちも追う。
袋小路。
少年が振り返る。
痩せている。
髪はぼさぼさ。
服も汚れている。
手には俺の金袋。
「返せ」
少年は首を横へ振る。
「それ俺のじゃないけど、返さないとガイルが怖いぞ」
「高城!」
後ろから声。
ガイルが来た。
少年の顔色が変わる。
「ほら」
「脅すな!」
ガイルが怒る。
少年が壁をよじ登ろうとする。
そのとき。
地面が揺れた。
ドン。
市場の方から悲鳴。
「何だ?」
レオンが振り向く。
建物の屋根を越えて、大きな影が見えた。
鳥。
いや。
翼のある爬虫類。
二体。
一体が市場へ降りる。
「飛竜の幼体です!」
ミレイア。
「何で街中に!」
「考えるのは後!」
レオンが走る。
ガイルも。
フィーネ。
ミレイア。
少年はその隙に逃げようとした。
俺は腕を掴む。
「離せ!」
「今走るな」
「離せ!」
「外見ろ!」
飛竜が市場の屋根を破壊した。
人々が逃げる。
二体目が上空を旋回。
少年の顔が固まる。
「地下に入れる場所あるか?」
「知らねえ!」
「この街の子だろ」
「……教会の裏」
「案内して」
「何で俺が!」
「死にたくなければな!」
少年が黙る。
◇
戦闘は市場中央。
レオンが一体の注意を引く。
飛竜が爪を振り下ろす。
剣で受ける。
火花。
「重っ……!」
初めてレオンが押された。
ガイルが横から盾を叩き込む。
飛竜がよろめく。
「鳥みてえな見た目のくせに重いな!」
「飛竜です!」
ミレイアが叫ぶ。
空中の一体が口を開く。
赤い光。
「火が来ます!」
結界。
ミレイアの前に青い壁。
炎がぶつかる。
爆音。
フィーネが逃げ遅れた人を教会へ誘導。
俺と少年も手伝う。
「こっち!」
少年が叫ぶ。
「地下があります!」
意外と役に立つ。
俺は周囲を見る。
上空。
二体目。
何度か旋回している。
攻撃する角度が毎回同じ。
なぜ。
「ミレイア!」
聞こえるか分からない。
「何です!」
「上のやつ、右からしか来てない!」
「だから?」
「左の翼がおかしい!」
よく見る。
左右の羽ばたきが違う。
左翼の根元。
傷。
「飛べるけど急旋回できない!」
ミレイアが意図を理解した。
「レオン! 次の突進、左へ誘導して!」
上空から飛竜が降下。
レオンが立つ。
ギリギリまで待つ。
俺なら失神する。
「今!」
レオンが左へ跳ぶ。
飛竜は曲がれない。
そのまま地面近くまで降下。
ガイル。
「待ってたぞ!」
盾を下から突き上げる。
飛竜の頭が跳ねる。
ミレイアの氷槍。
翼を地面へ縫い止める。
一体。
残る一体が怒った。
咆哮。
口の中に炎。
レオンたちは一か所にいる。
「散れ!」
俺が叫ぶ。
炎。
ガイルが盾を構える。
「俺の後ろ!」
レオンとフィーネが入る。
ミレイアも。
炎が盾を包む。
「ぐっ……!」
ガイルの足が地面を削る。
「ガイル!」
「うるせえ! この程度――!」
盾が赤くなる。
フィーネが背後から治癒。
ミレイアが杖を地面へ突く。
氷が盾の周りを覆う。
炎が弱まった。
レオンが飛び出す。
走る。
飛竜の前脚。
背中。
首。
一気に駆け上がる。
剣を振り上げた。
一閃。
角が折れた。
飛竜が地面へ倒れる。
市場に静寂。
数秒遅れて。
歓声。
俺はその場に座り込みそうになった。
戦っていないのに疲れた。
少年が隣を見る。
「おっさん」
「何」
「弱そうなのに、すげえな」
「弱そうは余計だ」
◇
負傷者の治療。
市場の片づけ。
飛竜は殺さず、街の外へ運ぶことになった。
幼体が人里へ来た理由は分からない。
ミレイアは、
「通常ならここまで南下しません」
と首を傾げていた。
また一つ違和感が増えた。
そして。
少年。
逃げなかった。
金袋も返した。
「名前は?」
俺が聞く。
「ノア」
「名字は」
「ない」
「家族は?」
「いない」
「住んでるところ」
「適当」
孤児らしい。
フィーネがすでに心配そうな顔をしている。
嫌な予感。
「何歳?」
「知らねえ。たぶん十」
「出生記録は?」
ミレイアが聞く。
ノアは意味が分からない顔。
「神殿で登録されてないの?」
「知らねえよ」
俺は何となく手帳を開いた。
ノア。
と書く。
何も出ない。
当然かもしれない。
死刻がない人は何も表示されない。
だが。
ミレイアが近くの役所へ行き、しばらくして戻ってきた。
表情がおかしい。
「どうした?」
「ノアという名前の十歳前後の男子」
「うん」
「この町にも周辺地域にも、出生記録がありません」
「孤児ならあるんじゃない?」
「孤児であっても出生登録は残ります」
ミレイアがノアを見る。
「少なくとも、この国で生まれた人間なら」
ノアが警戒して一歩下がる。
「何だよ」
俺はもう一度名前を見る。
ノア。
赤い文字はない。
それだけじゃない。
不思議な感覚。
他の人の名前を見ると、赤い文字がなくても、
そこに何かが存在するような感じがある。
ノアには。
何もない。
空白。
「シュウおじさん?」
フィーネ。
俺は手帳を閉じた。
「ノア」
「何だよ」
「お前」
少し迷う。
「この国にいないことになってるらしいぞ」
ノアは数秒黙った。
それから、
「だったら何だよ」
と吐き捨てた。
その声だけが妙に強かった。
名前はある。
本人もここにいる。
話す。
食べる。
走る。
盗む。
怒る。
笑う。
なのに記録には存在しない。
俺はふと思う。
もし、
死刻が誰かによって決められているのなら。
最初から存在しない人間の死は、誰が決める?
その答えを知るのは、
まだずっと先のことだった。




