第09話 そんな匂いはしませんね
色んなものを落とし続けていたら、洗濯場でのわたしの扱いは、すっかり変わった。
みんな、わたしにはちょっとだけ距離を置く。難しい汚れを、おそるおそる持ってくる。そして、落とすたびにひそひそと囁きあう。
「ただものじゃないわね……」
「水量や洗剤の量も、目分量で計ってるのにピッタリみたいだし……」
わたしは、汚れさえ落ちれば、それで満足なんだけど。
マリーはマリーで、なんだか手持ち無沙汰そうだった。たぶん、手応えのある仕事がそこまでないんだと思う。洗い場の受付も帳面も完璧にこなして、あとはわたしの世話くらい。
「サボンの世話係だから当然だけどさ。せっかく王宮まで来たのに、わたしはただの付き添いね」
そんなある日のことだ。
ひとりの文官が、今にも泣きそうな顔で、洗濯場に駆けこんできた。
ひょろりと背が高くて、目の下には、濃いくま。腕いっぱいに、帳面を抱えている。
「す、すみません……! ここの、責任者の方は……!」
応対に出たマリーが、てきぱきと受けた。
「ドロテアさんは、いま席を外してます。わたしでよければ、御用を伺いますよ」
「あ……えっと。ぼく、家政方のニコといいます。この洗濯場の、調達と帳簿を任されていて……」
ニコさんは、抱えた帳面を、ぎゅっと抱きしめた。
「その帳簿が……どうしても、合わないんです」
聞けば、こうだった。
ニコさんは、洗濯場で使う洗剤や布の、仕入れを任されている。ところが、ここ数ヶ月、その費用がふくれあがる一方だという。
「帳簿には、高い洗剤をどっさり仕入れたことになってます。記録も判子も、ぜんぶそろってる。でも……ぼくには、そんなに頼んだ覚えがないんです」
ぱたぱたと帳面を開いて見せてくれたけど、わたしにはさっぱりだった。
「上役には、おまえの管理が杜撰だからだと責められて……。このままじゃ、ぼくがぜんぶ弁償させられる。下手したら、牢に……」
ニコさんは、とうとう、ぐすぐすと泣きはじめた。
よく見れば、お仕着せの袖は、墨で真っ黒。指は、ペンだこだらけ。きっと毎晩おそくまで、たった一人で帳面と格闘してきたんだろう。
「ぼくが、ぜんぶ確かめてれば……。でも、判子の数が多すぎて。一日に、何百も……」
その汚れ方は、嘘をついていない。この人は、なまけ者じゃない。むしろ、働きすぎなくらいだ。
マリーの目つきが、すっと変わった。
こういう数字の話になると、この子は人が変わる。鑑定で〈勘定〉のスキルが出たのは、伊達じゃない。
「ニコさん。その帳簿、よく見せてもらっても?」
マリーは帳面を受け取ると、ものすごい速さで、数字を追いはじめた。
指が、ぴっぴっと数字の列をすべっていく。口の中で、小さく足し算をつぶやきながら。こうなったマリーは、もう誰の声も聞こえない。
わたしが汚れに夢中になるのと、たぶん、同じ顔だ。
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しばらくして、マリーが、ぴたりと指を止めた。
「……おかしい。この『特上の泡草の根』。帳簿じゃ、毎月、樽で何十も買ったことになってる。こんな量、ほんとに使いきれるの?」
マリーが、わたしを見た。
「ねえサボン。あんたなら、においで分かるでしょ。ここ、ほんとにこんなに特上を使ってる?」
わたしは、干したての布を片っぱしから嗅いでいった。
すぐに、見当がついた。
「特上が使われてるのは……ほら、この辺だけ。貴族の、上等な絹やドレス。絹はね、髪の毛とおなじなんです。きつい灰汁や、混ぜものの多い安物を使うと、黄ばんで、ごわついて、二度と戻らない。混ぜもののない、純度の高いやさしい特上の泡草じゃないと、傷めずには落とせないの」
干し場の布の山を、ざっと指で分ける。
「でも、それ以外は、ぜんぶ安物。使用人の普段着も、洗濯場の雑巾も、台ふきも。特上が要るのは、せいぜい、このひと山ぶん。毎月、樽で何十も使うなんて、どう考えても多すぎるよ」
ニコさんが、すがるように身を乗りだす。
ほんとうかどうか、確かめてみせることにした。
貴族ものに残っていた泡草と、使用人ものの泡草を、それぞれ溶いてみせる。
片方は、とろりと、こくのある泡。布にふくませて指の腹で押すと、固まった油が、みるみる浮いて、すうっと水に溶けていく。
もう片方は、薄い泡がすぐ消えて、汚れは布の表面でにじむだけ。奥には、ちっとも届かない。
「ね? おなじ泡草でも、特上と安物じゃ、仕事がまるでちがう。においも、泡の立ちも。洗濯婦だったら、どの布にどっちが使われたかなんて、ぜったい分かりますね」
……いけない。確かめるだけのはずが、つい一枚、すっかり洗ってしまった。
ふふ。やっぱり、ちゃんとした道具は気持ちいい。手が、勝手に喜んでる。
「とにかく。実際に特上が要るのは、ほんのちょっと。帳簿が言うほどの量は、どこにも使われてません」
「……やっぱり」
マリーが、ばしんと帳面を叩いた。
こんなに活き活きと帳簿に食らいつくマリーを見るのは、ひさしぶりだった。
「つまり、こういうこと。実際に特上が要るのは、ほんのひと握り。なのに帳簿は、その何十倍も買ったことにしてる。ほとんどは安物で済ませて、特上を買ったことにした差額を……まるまる、ふところに入れてるのよ」
「さ、差額って……」
「特上と安物じゃ、値段が十倍はちがう。この量なら、相当な額。ニコさん、あなたが使いこんだんじゃない。判子を押させられただけ。これを書いた誰かが、犯人」
ニコさんは、ぽかんとしていた。それから、わなわなと震えだした。
「で、でも……これを書けるのは、ぼくの上の、調達長さまだけで……」
言いかけて、ニコさんは、まっ青になった。
マリーも、すっと顔色を変える。
わたしだけが、きょとんとしていた。
「? 犯人が分かって、よかったじゃないですか」
「「よくない(わ)よ!!」」
マリーとニコさんの声が、きれいにそろった。
「だって相手は、王宮のお偉いさんなのよ!?」
「下手に騒げば、ぼくたちのほうが揉み消される……!」
二人が、そろって頭を抱えた。
まぁ、確かに。帳簿が言うほどの量は、どこにも見当たらない。買ったことにして、無いんだから、困るのは、分かる。
安物の洗剤で、特上を買ったふりをする。それも、ひとつの汚れだ。表ばかり、きれいにつくろって。奥のほうに、こっそり染みついている。
わたしは、見えてしまっただけ。落とすのが、仕事だから。
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その帳簿の写しは、マリーの手で、ドロテアに渡された。
ドロテアはしばらく無言で数字を見て、それから、低く言った。
「……よりによって、調達長か。これは、わたしの手にあまるね」
めずらしく、その顔に、苦いものが浮かんでいた。
「道理で。いくら上に掛けあっても、いい洗剤がろくに回ってこないわけだ。……現場をどれだけ見たって、これは見抜けない。汚れじゃなく、数字の裏に隠されてたんだから」
ドロテアは、ふう、と息をついた。
「いいかい、二人とも。このことは、軽々しく口にするんじゃないよ。とくにサボン、あんたはね」
わたしは、こくりと頷いた。よく分からないけど、ドロテアが言うなら、そうしておくのがいいんだろう。
それから数日して、調達長は、こっそり姿を消したらしい。ニコさんにかかっていた疑いも、きれいに晴れた。
ニコさんは、わたしとマリーに、何度も頭を下げにきた。
「ほんとに、助かりました……! あの……これからも、困ったことがあったら……」
「汚れなら、いつでも」
それから、ニコさんは、マリーのほうを見た。
「マリーさんの、あの数字の強さと速さ……。ぼく、ほんとに尊敬します」
マリーは、つんとしながらも、まんざらでもなさそうだった。
ずっと『付き添い』だと思っていた自分が、今日は、ちゃんと誰かを助けられた。それが、嬉しいんだと思う。
でも、その夜、ふと思った。
あの調達長は、ずいぶん簡単に、消えてしまった。誰かが、すばやく片づけたみたいに。
王宮には、これよりもっと大きな『汚れ』が、まだまだ隠れている気がする。
……うーん。難しいことは、よく分からないな。
わたしにできるのは、目の前の汚れを、ていねいに落とすことだけ。それ以上のことは、きっと、わたしの手にはあまる。
難しいことを考えるのは、マリーやドロテアに任せよう。
でも、となりの寝床では、マリーがなかなか寝つけないみたいだった。寝返りばかり打っている。たぶん、わたしの代わりに、ずっと心配してくれているんだろう。
何かわたしも考えようとしたけど、結局ぐっすり眠ってしまった。




