第10話 葡萄酒の味は知らなくても
その日、洗濯場が、ちょっとした騒ぎになった。
身なりのいい青年が、ひとりで入ってきたからだ。
その姿を見て、ドロテアさんが血相を変えてすっ飛んできた。わたしはその人が誰だか分からなかったけれど、仕立て、布地、立ち居ふるまい。どれも、その辺の貴族の比じゃない。よほど高貴な家の人だということは分かった。
「お……っ、おそれながら……! このような下々の場所に、あなたさまのようなお方が……! 御用とあらば、わたくしどもがお伺いに上がりますものを!」
でも、青年は、首を横に振った。
「いや。……この娘に、じかに頼みたい」
青年は声をひそめて、わたしの前に小さな包みを置いた。中から出てきたのは、上等な絹のシャツ。胸もとに、赤い染みが、べったりついている。
「これを、落としてほしい。急ぎで。それから――誰にも、言わないでくれ」
葡萄酒の染みだ。
わたしの目が、しゃきっとした。こういうのは、嫌いじゃない。
「葡萄酒ですね。接待で、こぼしたんですか」
「あ、ああ。外交の宴でな。少し、酔って……お恥ずかしい話だ」
ドロテアさんが、まだおろおろしている。でも、わたしはもうシャツしか見ていなかった。
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桶に水を張って、染みに、そっと指を当てる。
……あれ。
なんだろう。いつもの葡萄酒と、なにかが、ちがう。
鼻を近づける。つんと、酸っぱい。そのあとに、妙に甘ったるいにおいがくる。
いい葡萄酒の染みは、こうはならない。もっと深くて澄んでいて、布からすうっと素直に浮いてくる。王宮の宴で出るのは、そういう上等なやつだ。
でも、これは、ちがう。酸っぱくて安っぽく甘くて、布の目にしつこくしがみついている。底のほうには、ざらりと澱まで沈んでいた。
「あれ? これ……あんまり、良い葡萄酒じゃないですね」
言ったとたん、青年の肩が、びくっと跳ねた。
「あ。わたし、お酒は飲んだことないんですけど」
念のため、つけ加える。当然だ。まだ、その歳じゃない。
でも、染みなら話は別だ。味は知らなくても、葡萄酒の染みなら、それこそ数えきれないほど落としてきた。安いのも高いのも、布についた跡を見ればぜんぶ分かる。
この染み。
わたしは、これを知っていた。
昔、ローズばあちゃんと暮らしてたころ。近所に、小さな食堂があった。樽から直についだ、安くて酸っぱくて、蜂蜜でごまかした葡萄酒。あそこの酔っぱらいが、しょっちゅう服にこぼして、洗いに持ってきたものだ。
すえた樽のにおいと、まったりとした蜂蜜の甘さ。洗っても洗っても、また持ちこまれる、あのにおい。
この染みは、それと、瓜二つだった。
「これ、樽から直についだ下町の安酒ですね。蜂蜜で甘くしてあるやつ。……あれ。外交の宴で、こんなの出します?」
しんと、静まりかえった。
青年の顔から、すうっと、血の気が引いていく。
ドロテアさんが、ひっ、と息を呑んだ。なにか、まずいことを言ったらしい。でも、わたしにはその「まずいこと」が、よく分からなかった。だって、ほんとうのことだ。布が、そう言ってるんだから。
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長い、沈黙のあと。
青年は、がっくりと、肩を落とした。
「……かなわないな。布の染みひとつで、そこまで知られるとは」
「えへへ。染みのことなら、けっこう自信あるんです」
わたしがつい得意になって胸を張ると、青年は力なく笑った。
それから、ぽつぽつと話しはじめた。
宴には出ていた。でも途中で抜けだして、下町の食堂へ行っていたのだと。
その店に、看板娘がいる。よく笑う、気立てのいい娘で。その子に会いたくて、身分を隠して、足しげく通っているらしい。
はじめは、ほんの気まぐれだった。お忍びで街を歩いていて、ふらりと入った店。食事の湯気の向こうから「いらっしゃい!」と笑いかけてきた娘に、目を奪われた。それからは、足が勝手にその店へ向かう。安い葡萄酒を、何杯も。娘の笑い声を、肴にして。
今日も、こっそり抜けてきた。娘が酌をしてくれた拍子に、葡萄酒が、ぱっとはねた。
屋敷の者に、これを洗わせるわけにはいかない。どこにいたのか、たちどころに知れてしまうから。
だから、苦しまぎれに「接待でこぼした」ことにして、王宮の洗濯場へ駆けこんだ。まさか、葡萄酒の素性まで言い当てる娘がいるとは、思いもよらず……。
ということらしい。
「あの子は、俺をただの貧乏な書記だと思ってる。ほんとうの身分を知ったら、きっと逃げてしまう」
青年は、シャツの染みを、じっと見つめた。
それから青年は、ふっと苦笑して、つけ加えた。
「宴はね、肩がこるんだ。みんな、にこやかな顔の下で腹を探りあってる。誰が得をして、誰を蹴落とすか。そんな話ばかりでね」
そう言って肩をすくめてから、青年はふと声を落とした。
「あの子の前では、そんなこと考えなくていい。ただの客と、看板娘でいられる。……でも、同時に思うんだ。あの子の暮らしも、あの店も。結局は、僕らみたいな連中の決めごと次第なんだ。だから、僕が踏ん張らなきゃって」
「? よく分かりませんが……素敵な心がけだと思います」
わたしがこてんと首をかしげて答えると、青年はますます照れたように笑った。
そのときだった。
わたしのうしろで、どわっと黄色い声があがった。
「キャアーッ!」
「素敵ぃ……っ!」
「身分の差がある恋ッ! たまらないわ!」
いつのまにか、洗濯場の女たちが仕事の手をとめて、勢ぞろいしていた。耳をぴくぴくさせて、ぜんぶ、聞いていたらしい。
青年が、ぼっと、首まで赤くなる。
「ちょ……っ。き、聞いてた……!?」
「お前たち――ッ! 持ち場に戻りな! それと! いまの話を外で喋ったら、全員まとめて井戸さらいだからねッ!!」
ドロテアさんの一喝で、女たちはきゃあきゃあ言いながら、蜘蛛の子みたいに散っていった。
わたしだけが、ぽかんとしていた。
みんな、どうして、あんなに興奮してるんだろう。
わたしには、よく分からない。
でも、染みの話なら、分かる。
この染みは、楽しい時間の跡だ。こんなに気持ちよくべったりはねた葡萄酒は、しかめっ面じゃ作れない。きっと笑って、肩の力を抜いて、いい時間を過ごしていたんだろう。
だったら、答えは、ひとつしかない。
「染みって、ごまかそうとするほどたちが悪くなるんですよ。慌てて擦ると、輪っかになってよけい目立つ」
「……それは、葡萄酒の話か?」
「葡萄酒の話です」
まじめに答えたら、青年は今度こそ、おかしそうに笑った。
わたしは、シャツを桶につけて、腕まくりをした。
「だいじょうぶ、きれいに落とします。安酒だろうと王様の葡萄酒だろうと、落ちない汚れはございませんとも」
それから、ふと思い出して、つけ加える。
「あ。でも二日ほど、いただけませんか。染みはすぐ落ちます。でも、これだけいい生地だと仕上げにすこし時間をかけたいので」
「……二日か。染みがすぐに落ちるのなら、構わない。急がせて、すまなかったな」
正直、この染みは、手強い。
蜂蜜の糖と、葡萄酒の色が、繊維の奥でがっちり手を組んでいる。生半可な水じゃ、びくともしない。
でも、だからこそ、燃える。頭の中には、もう、落とし方がするすると浮かんでいた。ぬるま湯でふやかして、酸をやわらげる。それから、こうして、ああして。落ちたあとの、まっさらな白まで、ちゃんと見えてる。
わたしは、心ゆくまで、染みと格闘した。
慌てて擦ったりはしない。輪染みになるから。調合した洗剤を、指の腹で、繊維の一本一本に塗りこんでいく。じわじわと、赤が布から離れていく。
最後に澱のざらつきを流して、すすいだ水がすっと澄んだとき。
「ん! 落ちた!」
胸が、すうっとした。
ああ、これだから、やめられない。
染みは、その日のうちに、跡形もなく消えた。急ぎでと言われたのは、たぶん、これのことだ。誰かに見られる前に、証拠を消したかったんだろう。
でも、染みが落ちたら終わり、じゃない。約束どおり二日かけて、形をくずさないよう陰で乾かし、皺を伸ばしてふっくら仕上げた。
こういう手間は、惜しまない。落とした染みが、いちばんきれいに映えるのは、仕上げまできっちりやったときだから。
二日して、シャツを取りにきた青年は、来たときよりずっとさっぱりした顔をしていた。
受け取りながら、ぽつりと言う。
「……あの子に、ほんとうのことを話してみる。逃げられるかもしれないが、それでも」
「よく分かりませんけど、頑張ってくださいね。はい。染みは、跡形もなく落ちましたよ」
「ああ。……そっちも、礼を言う」
青年はふっと笑って、名前だけ置いていった。レオ、と。
マリーが、あとから、こそっと耳打ちしてきた。
「ねえサボン。あんた、知ってる? 今のレオって人、たぶん本名じゃないよ。あの紋章、れっきとした――」
「へえ。わたしが見たのは、葡萄酒の染みだけだしな」
わたしには、やっぱり、よく分からない。今くらいの身分のお方が、じきじき洗濯場へ下りてくるなんて、前代未聞らしい。でも、わたしには、よく分からない。染みは染みだし、生きてたらお洗濯物は出るし。誰が持ってきても、おなじように手強くて落としがいがある。
ただ、ひとつだけ、気になることがある。
高い葡萄酒も安い葡萄酒も、染みなら目をつぶってでも当てられる。
なのに、ほんとうの味は、まだひとつも知らない。
……いつか、おとなになったら。
いちばん安い、あの食堂の葡萄酒から、飲んでみたい気がした。




