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落ちない汚れはございません!〜街はずれの洗濯婦のはずがこの国の黒いものまで洗い流して洗濯聖女になっちゃいました〜  作者: 絹田屋


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10/11

第10話 葡萄酒の味は知らなくても

 その日、洗濯場が、ちょっとした騒ぎになった。

 身なりのいい青年が、ひとりで入ってきたからだ。

 その姿を見て、ドロテアさんが血相を変えてすっ飛んできた。わたしはその人が誰だか分からなかったけれど、仕立て、布地、立ち居ふるまい。どれも、その辺の貴族の比じゃない。よほど高貴な家の人だということは分かった。


「お……っ、おそれながら……! このような下々の場所に、あなたさまのようなお方が……! 御用とあらば、わたくしどもがお伺いに上がりますものを!」


 でも、青年は、首を横に振った。


「いや。……この娘に、じかに頼みたい」


 青年は声をひそめて、わたしの前に小さな包みを置いた。中から出てきたのは、上等な絹のシャツ。胸もとに、赤い染みが、べったりついている。


「これを、落としてほしい。急ぎで。それから――誰にも、言わないでくれ」


 葡萄酒の染みだ。

 わたしの目が、しゃきっとした。こういうのは、嫌いじゃない。


「葡萄酒ですね。接待で、こぼしたんですか」

「あ、ああ。外交の宴でな。少し、酔って……お恥ずかしい話だ」


 ドロテアさんが、まだおろおろしている。でも、わたしはもうシャツしか見ていなかった。


-----


 桶に水を張って、染みに、そっと指を当てる。

 ……あれ。

 なんだろう。いつもの葡萄酒と、なにかが、ちがう。

 鼻を近づける。つんと、酸っぱい。そのあとに、妙に甘ったるいにおいがくる。


 いい葡萄酒の染みは、こうはならない。もっと深くて澄んでいて、布からすうっと素直に浮いてくる。王宮の宴で出るのは、そういう上等なやつだ。

 でも、これは、ちがう。酸っぱくて安っぽく甘くて、布の目にしつこくしがみついている。底のほうには、ざらりと澱まで沈んでいた。


「あれ? これ……あんまり、良い葡萄酒じゃないですね」


 言ったとたん、青年の肩が、びくっと跳ねた。


「あ。わたし、お酒は飲んだことないんですけど」


 念のため、つけ加える。当然だ。まだ、その歳じゃない。

 でも、染みなら話は別だ。味は知らなくても、葡萄酒の染みなら、それこそ数えきれないほど落としてきた。安いのも高いのも、布についた跡を見ればぜんぶ分かる。


 この染み。

 わたしは、これを知っていた。


 昔、ローズばあちゃんと暮らしてたころ。近所に、小さな食堂があった。樽から直についだ、安くて酸っぱくて、蜂蜜でごまかした葡萄酒。あそこの酔っぱらいが、しょっちゅう服にこぼして、洗いに持ってきたものだ。

 すえた樽のにおいと、まったりとした蜂蜜の甘さ。洗っても洗っても、また持ちこまれる、あのにおい。

 この染みは、それと、瓜二つだった。


「これ、樽から直についだ下町の安酒ですね。蜂蜜で甘くしてあるやつ。……あれ。外交の宴で、こんなの出します?」


 しんと、静まりかえった。

 青年の顔から、すうっと、血の気が引いていく。

 ドロテアさんが、ひっ、と息を呑んだ。なにか、まずいことを言ったらしい。でも、わたしにはその「まずいこと」が、よく分からなかった。だって、ほんとうのことだ。布が、そう言ってるんだから。


-----


 長い、沈黙のあと。

 青年は、がっくりと、肩を落とした。


「……かなわないな。布の染みひとつで、そこまで知られるとは」

「えへへ。染みのことなら、けっこう自信あるんです」


 わたしがつい得意になって胸を張ると、青年は力なく笑った。

 それから、ぽつぽつと話しはじめた。


 宴には出ていた。でも途中で抜けだして、下町の食堂へ行っていたのだと。

 その店に、看板娘がいる。よく笑う、気立てのいい娘で。その子に会いたくて、身分を隠して、足しげく通っているらしい。

 はじめは、ほんの気まぐれだった。お忍びで街を歩いていて、ふらりと入った店。食事の湯気の向こうから「いらっしゃい!」と笑いかけてきた娘に、目を奪われた。それからは、足が勝手にその店へ向かう。安い葡萄酒を、何杯も。娘の笑い声を、肴にして。

 今日も、こっそり抜けてきた。娘が酌をしてくれた拍子に、葡萄酒が、ぱっとはねた。

 屋敷の者に、これを洗わせるわけにはいかない。どこにいたのか、たちどころに知れてしまうから。

 だから、苦しまぎれに「接待でこぼした」ことにして、王宮の洗濯場へ駆けこんだ。まさか、葡萄酒の素性まで言い当てる娘がいるとは、思いもよらず……。

 ということらしい。


「あの子は、俺をただの貧乏な書記だと思ってる。ほんとうの身分を知ったら、きっと逃げてしまう」


 青年は、シャツの染みを、じっと見つめた。

 それから青年は、ふっと苦笑して、つけ加えた。


「宴はね、肩がこるんだ。みんな、にこやかな顔の下で腹を探りあってる。誰が得をして、誰を蹴落とすか。そんな話ばかりでね」


 そう言って肩をすくめてから、青年はふと声を落とした。


「あの子の前では、そんなこと考えなくていい。ただの客と、看板娘でいられる。……でも、同時に思うんだ。あの子の暮らしも、あの店も。結局は、僕らみたいな連中の決めごと次第なんだ。だから、僕が踏ん張らなきゃって」

「? よく分かりませんが……素敵な心がけだと思います」


 わたしがこてんと首をかしげて答えると、青年はますます照れたように笑った。


 そのときだった。

 わたしのうしろで、どわっと黄色い声があがった。


「キャアーッ!」

「素敵ぃ……っ!」

「身分の差がある恋ッ! たまらないわ!」


 いつのまにか、洗濯場の女たちが仕事の手をとめて、勢ぞろいしていた。耳をぴくぴくさせて、ぜんぶ、聞いていたらしい。

 青年が、ぼっと、首まで赤くなる。


「ちょ……っ。き、聞いてた……!?」

「お前たち――ッ! 持ち場に戻りな! それと! いまの話を外で喋ったら、全員まとめて井戸さらいだからねッ!!」


 ドロテアさんの一喝で、女たちはきゃあきゃあ言いながら、蜘蛛の子みたいに散っていった。


 わたしだけが、ぽかんとしていた。

 みんな、どうして、あんなに興奮してるんだろう。

 わたしには、よく分からない。


 でも、染みの話なら、分かる。

 この染みは、楽しい時間の跡だ。こんなに気持ちよくべったりはねた葡萄酒は、しかめっ面じゃ作れない。きっと笑って、肩の力を抜いて、いい時間を過ごしていたんだろう。

 だったら、答えは、ひとつしかない。


「染みって、ごまかそうとするほどたちが悪くなるんですよ。慌てて擦ると、輪っかになってよけい目立つ」

「……それは、葡萄酒の話か?」

「葡萄酒の話です」


 まじめに答えたら、青年は今度こそ、おかしそうに笑った。

 わたしは、シャツを桶につけて、腕まくりをした。


「だいじょうぶ、きれいに落とします。安酒だろうと王様の葡萄酒だろうと、落ちない汚れはございませんとも」


 それから、ふと思い出して、つけ加える。


「あ。でも二日ほど、いただけませんか。染みはすぐ落ちます。でも、これだけいい生地だと仕上げにすこし時間をかけたいので」

「……二日か。染みがすぐに落ちるのなら、構わない。急がせて、すまなかったな」


 正直、この染みは、手強い。

 蜂蜜の糖と、葡萄酒の色が、繊維の奥でがっちり手を組んでいる。生半可な水じゃ、びくともしない。

 でも、だからこそ、燃える。頭の中には、もう、落とし方がするすると浮かんでいた。ぬるま湯でふやかして、酸をやわらげる。それから、こうして、ああして。落ちたあとの、まっさらな白まで、ちゃんと見えてる。

 わたしは、心ゆくまで、染みと格闘した。

 慌てて擦ったりはしない。輪染みになるから。調合した洗剤を、指の腹で、繊維の一本一本に塗りこんでいく。じわじわと、赤が布から離れていく。

 最後に澱のざらつきを流して、すすいだ水がすっと澄んだとき。


「ん! 落ちた!」


 胸が、すうっとした。

 ああ、これだから、やめられない。

 染みは、その日のうちに、跡形もなく消えた。急ぎでと言われたのは、たぶん、これのことだ。誰かに見られる前に、証拠を消したかったんだろう。

 でも、染みが落ちたら終わり、じゃない。約束どおり二日かけて、形をくずさないよう陰で乾かし、皺を伸ばしてふっくら仕上げた。

 こういう手間は、惜しまない。落とした染みが、いちばんきれいに映えるのは、仕上げまできっちりやったときだから。


 二日して、シャツを取りにきた青年は、来たときよりずっとさっぱりした顔をしていた。

 受け取りながら、ぽつりと言う。


「……あの子に、ほんとうのことを話してみる。逃げられるかもしれないが、それでも」

「よく分かりませんけど、頑張ってくださいね。はい。染みは、跡形もなく落ちましたよ」

「ああ。……そっちも、礼を言う」


 青年はふっと笑って、名前だけ置いていった。レオ、と。

 マリーが、あとから、こそっと耳打ちしてきた。


「ねえサボン。あんた、知ってる? 今のレオって人、たぶん本名じゃないよ。あの紋章、れっきとした――」

「へえ。わたしが見たのは、葡萄酒の染みだけだしな」


 わたしには、やっぱり、よく分からない。今くらいの身分のお方が、じきじき洗濯場へ下りてくるなんて、前代未聞らしい。でも、わたしには、よく分からない。染みは染みだし、生きてたらお洗濯物は出るし。誰が持ってきても、おなじように手強くて落としがいがある。


 ただ、ひとつだけ、気になることがある。

 高い葡萄酒も安い葡萄酒も、染みなら目をつぶってでも当てられる。

 なのに、ほんとうの味は、まだひとつも知らない。


 ……いつか、おとなになったら。

 いちばん安い、あの食堂の葡萄酒から、飲んでみたい気がした。


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