第11話 袖についた薬品
王宮の洗濯場は、とにかく、布の量がすごい。
貴族の衣装、侍従の制服、役人の上着。その他、ベッドのシーツに、テーブルクロス。毎日、山みたいに運ばれてくる。
ここには、街にはなかった面白さがある。
持ちこまれる汚れが、いちいち込み入っている。
高貴な人ほど、その汚れも、奥が深い。落としても落としても、また新しいのが来る。めんどくさい。でも、つい燃えるものばかりだ。
その日、ドロテアさんが、どさっと上着の山を置いた。
「出納方の、お役人がたのぶんだよ。急ぎじゃないが、丁寧にね」
はぁい、と返事をして、さっそく一番上の一着に手をのばす。――と、指が、止まった。
袖口に、うっすらと、黄ばみがある。
ただの汚れじゃない。鼻を近づけると、つんと、酸っぱい匂いがした。果実の汁とも、ちがう。もっと尖った薬品っぽい酸だ。
この匂いは、知っている。字を消す薬だ。
紙に書いたインクをこの酸で抜くと、文字がすうっと消える。古い字を消して、上から別の字を書く。そういうときに、使うやつ。
しかも、ただの一回や二回じゃない。黄ばみは、何度もおなじ場所に重なっている。袖の縁が、少しごわついているくらいだ。
たぶん、この人は……。帳簿とか書類とかを、手もとに広げて。何日も字を消しては、書きかえてきた。机に頬杖をつくたび、袖口が紙にこすれたんだろう。その薬を吸ってきたんだと思う。
袖は、覚えている。正直に。
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さて、落とすとなると、これがひと仕事だ。
頭のなかで、手順が、ずらずらとほどけて並んでいく。ひと工程、ふた工程、み工程……数えていくほどに、肩がさがった。ああ、なんてめんどくさいんだ。本当にめんどくさい。手数に加えて、集中力が必要だ。
なのに、指のほうはもう動きたがっている。手順の先に、落ちきった白さが見えてしまったから。見えたらもう、やらずにはいられない。
よし、と腕まくりをした。
この酸の黄ばみは、放っておくと、繊維を傷める。だから急がないと。先に、灰汁をうんと薄めて、酸を中和してやる。きつい薬には、きつすぎない手当てを。それから、ぬるま湯に沈めて、織り目に沿ってそっと押し出す。
黄ばみが、ふわりとほどけて水に散りはじめる。
気持ちがいい。水の中にたゆたう細い煙みたいな色。急いで追い出しても良くないものなので、慌てずに無理のない速度で押し出し続ける。
誰がなんのために使った薬でついた汚れだろうと、落ちる瞬間は他のお洗濯ものと変わらない。落ちたときの白さは何度見ても気持ちいいんだから仕方ない。
「ん! 落ちたっ!」
ピシッと鉄ごても当てて、これ以上ない仕上がりになった。
仕上げた上着を、取りにきたのは、痩せた役人だった。
出納方の、ボルツさんというらしい。受け取りながら、なにげなく、わたしは言った。
「袖の文字消し薬、きれいに落としておきましたよ。あれ、放っておくと生地が傷むので。家にもし鉱泉の粉をご用意できるのであれば、うすーく溶いた液で緩和できますよ。……ずいぶん、たくさん書きかえたんですね」
ボルツさんの顔が、固まった。
「な……っ。なんの話だ」
「? 文字消しの薬、たくさん使ったんですよね? 袖が吸ってました。何度も何日も、頭を捻らないとならないことがあって書きかえてたんだなぁって。帳簿なのか日誌なのか分かりませんけど」
ボルツさんの目が、すっと、すわった。
その瞬間だった。
「――すみませんねえ、お役人さま!」
ドロテアさんが、どこからともなく、すっ飛んできた。わたしの頭をぐいっと押さえて、ぺこぺこ下げさせる。
「この子、田舎から出てきたばかりでしてね。洗濯の腕は確かなんですが、汚れを見ちゃあ、あることないことを勝手に並べるんですよ。そういう年頃なだけですので、どうかお気になさらず!」
ドロテアさんが早口にまくしたてる。……あれ、言ったら良くなったのかな?
「……ふん。躾は、しっかりな」
ボルツさんは、上着をひったくると、逃げるみたいに行ってしまった。
その背中が見えなくなると、ドロテアさんは、ふうっと肩の力を抜いた。
それから、わたしに向きなおる。さっきまでの、へつらった笑いは、もうない。
「……サボン。あんた、自分がなにを言ったか分かってるかい」
「? 汚れの説明を、しただけですけど」
ドロテアさんは、ためいきをついた。それから、声を落とした。
「いいかい。出納方の帳簿ってのは、王宮のお金の出入りの記録だよ。それを書きかえてたなんて――」
言いかけて、口をつぐむ。
わたしには、よく分からなかった。お金の流れも、帳簿も、わたしの仕事じゃない。
「お前を雇うと決めたのは、ここの責任者としての私だ。だから、放り出すことはしない。けどね、庇うにも限界があるんだ」
……何となくは、分かる。けど、ローズばあちゃんは汚れの説明をして、今後ひどくなる前に家での落とし方を伝えたりしていた。だから同じように……と思っていたけれど、みんな青くなるばっかりだ。
「……出納方のお役人がたの上着。この半年、やけにこの黄ばみが多いね」
ぽつりと言って、ドロテアさんは、口をつぐんだ。
あの袖は、嘘をついていない。
あとでドロテアさんが、洗濯の控え帳を、じっと睨んでいた。
いつ、誰の、どんな服を洗ったか。この人は、ぜんぶ、帳面につけている。
わたしには、その帳面の意味は、分からない。
でも、ドロテアさんの帳面も、わたしの読む袖も。たぶん、おなじことを言っている。
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何日かして、見慣れない男性が、洗濯場に来た。
四十がらみの年齢の人だった。上等でシンプルな服。物腰は丁寧で、笑顔も柔らかい。でも、目だけがちっとも笑っていなかった。
「君が、噂の洗濯娘か。布をひと目見ただけで、誰がなにをしたか言い当てる。……まるで、穢れを祓う聖女さまだ。さしずめ、洗濯聖女、といったところかな」
「聖女だなんて、やだなあ。わたし、ただの洗濯婦ですよ。でも、汚れのことならなんでも分かります!」
わたしが胸を張ると、男はにこにこしたまま質問をかさねてきた。
「たとえば、どんな汚れが分かるのかな」
「血とか油とか、薬品とか。だいたい、なんでも。いつどうやってついたかも、見れば分かりますよ」
「ほう。たいしたものだ。……これまで、どんな方のお召し物で、どのような事を?」
「貴族さまの宴の服から葡萄酒の種類とか、騎士さまの外套でその日の訓練とか。あ。こないだは、出納方のお役人さんの上着も」
「ほう、出納方の。……その上着に、なにか変わったところは」
「ありましたよ。袖に、字を消す薬のあとがたっぷり」
男の笑顔は、はりついたままびくともしなかった。でも、質問はそこで止まった。
隠すことなんて、なにもない。だから、ぜんぶ正直に答えた。
「ふむ。素晴らしい腕前だね。これからもぜひ励んでほしい」
「はい。頑張ります! 落ちない汚れはございませんので!」
男は、満足そうに、帰っていった。
そのうしろ姿を見ながら、マリーが、ぼそっと言った。
「ねえサボン。……今の人、なんだかこわくなかった?」
「そう? 手は、すごく綺麗だったよ。爪も、きちんと整ってて」
「そういうことじゃなくて……」
マリーが、めずらしく、青い顔をしている。
首をかしげる。それから、ふと思い出してつけ加えた。
「あ。でも、あの人の袖から、濃い花の匂いがした。むせるくらい甘いの。なのに、その奥に毒花の匂いも混じってて。……どうして一緒にいるんだろう。あんなの、嗅いだことない」
マリーが、息を呑んだ。
それから、わたしの腕をぎゅっと掴んだ。
「サボン。あんた、とんでもないものを見つけちゃったんだよ。……お願いだから、これ以上首を突っこまないで」
「? 突っこんでないよ。汚れとか匂いが、勝手に話しかけてくるだけ」
本気で、そう思っていた。
わたしは、よく分からないまま次の洗濯物に手をのばした。
知らなかった。
後から思えば。その日から、わたしは、見張られはじめていた。
王宮のいちばん黒いものに、すこしだけ触れてしまったから。




