第12話 その染みは葡萄酒じゃない
ひと月もすると、王宮の洗濯場にも、すっかり慣れた。
わたしの噂を聞きつけて、わざわざ染み抜きを指名してくる人まで出てきた。手強い汚れが、向こうから会いにきてくれるんだから、こんなにありがたいことはない。
……ただ、ひとつだけ、ゴワゴワした心地がついてきた。
呼び名だ。
布から真実を読む娘。落ちない汚れを落とす、洗濯聖女さま。
……だそうだ。
「聖女じゃなくて洗濯婦なんだけどな〜。そういう立派なの、マリーがかわりにやってよ」
「なんであたしなの。意味が分かんないよ」
「だってマリー、しっかりしてるし。聖女っぽい」
「あんたねえ……」
マリーが、こめかみを押さえた。横でリリがけらけら笑っている。
「あはは! サボンが聖女なら、世界中の聖女が廃業だよ! 寝坊して髪はねてる聖女なんて!」
「え〜、寝癖は寝癖でしょ。洗濯婦として、汚れを前にしたら誰より本気なんだから」
リリは、執事見習いのくせに、暇さえあれば洗濯場に入りびたっている。マリーとは会えば口げんか。でも、なんだかんだ仲がいい。
「ま、その話はあとで。お昼は一緒に食べよ。今日は厨房がパイを焼くんだって」
マリーが言って、リリが「やった!」と跳ねた。
わたしも、それはちょっと楽しみだった。
リリを見送った後、マリーが「……にしても、今日の寝癖は芸術ね」なんて言ってきた。
他の洗濯婦も自分の分の洗濯物の山を取って洗って、いつものように時が過ぎる。
「サボンさん、マリーさん。私たちまとめて干しちゃうから、少しゆっくりしててよ」
「えっ、良いんですか」
「ありがとうございます!」
洗濯婦の先輩方は遠巻きにする人と親切にする人がいる。時々こうやって、お留守番的なことも頼まれるようになってきた。
――その、矢先だった。
ひとりの若い侍女が、青い顔で、駆けこんできたのは。
腕に、たたんだ夜会用のドレスを抱えている。淡い色の、上等な綿。柔らかいのに、しっかりと織りこまれていて、まるで絹みたいな光沢がある。
「お願いします……! 奥さまの、ドレスなんです。ゆうべの夜会で、葡萄酒をこぼしてしまって」
胸もとに、赤い、しぶきみたいな染みがある。
……あれ。
葡萄酒の染みなら、しょっちゅう見てる。でも、これは。
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鼻を近づける。
葡萄酒の、あの酸っぱい甘さじゃない。もっと、青くさい。草を、すりつぶしたような匂い。その奥に、つんと、痺れるような苦さがひそんでいる。
この匂いを、わたしは知っている。
ローズばあちゃんが教えてくれた。「これはね、扱いを間違えたら人を殺す草だよ」と。薄く薄く煮出せば、しつこい黄ばみを抜く漂白に使える。でも、濃く煮詰めれば――強い毒だ。
子どものころ、その草を、ばあちゃんと摘みにいった。手のひらに、紫色の小さな花。きれいだねと言ったら、ばあちゃんは笑って言った。「きれいなものほど、使いようだよ。薬にも、毒にもなる。汚れを落とす力も、おんなじさ」と。
あのときは、よく分からなかった。
今は、すこし、分かる。
この染みは……たっぷりに濃い。漂白に使う、あの薄さの、何十倍もある。こんなの舐めたら、ひとたまりもない。
葡萄酒の赤に、よく似せてある。色も、とろみも。ぱっと見では、まず見分けがつかない。
でも、わたしの目は、ごまかせない。
これは、葡萄酒なんかじゃない。
毒だ。それも、本気で人を殺すための、濃さの。
「これ、葡萄酒じゃないですよ。……毒です」
「えっ……。ど、毒?」
マリーと侍女が、ぽかんと口を開けた。それからあわあわと言い出すが、わたしの目はもう、しぶきの飛び方を追っていた。
点々と散った、その向き。杯から、斜め上へ、ぱっと跳ねあがっている。手から、すべり落ちた跡じゃない。横から、とんっと、なにかがぶつかった跡だ。
たぶん、ひとごみのなかで。誰かの肩か肘が、奥さまの腕に、たまたま当たったんだ。口に運ぶ、ちょうどそのとき。
杯の中身は、ドレスにこぼれて。奥さまの口には、入らなかった。
つまり、ゆうべ。
ゆうべあった夜会で、誰かが、奥さまを殺そうとした。そして――ほんの偶然で、しくじった。
奥さま本人は、たぶん気づいていないんだろう。毒だったことにも、命拾いしたことにも。
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「そんな、そんな……。お、奥様の身に危険が……!?」
侍女は、わなわな震えて、その場にへたりこんだ。
奥さまというのは、さる名門の、ご当主の奥方らしい。社交界では、知らぬ者のいない人だそうだ。
そんな人が、夜会の席で、そっと毒を盛られた。そして、ほんの偶然で、それを免れた。
穏やかな話じゃ、まるでない。
わたしは、とりあえず、ドレスを片づけにかかった。毒の染みも、染みは染みだ。放っておくと、繊維が傷む。
「ちょ……っ、待って! あなた、こわくないんですか!? 毒、ですよ!?」
「? 手袋しますし。落とすぶんには、平気ですよ」
わたしは、きょとんとした。むしろ、わくわくしていた。この草の毒は、油に溶けやすい。だから、水じゃ落ちにくい。手強い。手強いやつは、燃える。
手袋をはめて、さあ、と袖をまくったところで。
……あ、そうだ。
さすがに、これは、ドロテアさんに伝えておかなきゃ。
「あの。洗濯婦をまとめてる人がいるので……。その人には、一応伝えていいですか?」
「は、はひっ……」
「いいわ、サボン。あたしはこの方を落ち着かせるから。……さ、お茶をご用意しますのでこちらに……」
マリーが侍女を外に連れ出してくれた。ちょうど、すれ違うかたちでドロテアさんが洗濯場に戻ってきた。
「ドロテアさん! いいところに。実は……」
ドロテアさんは話を聞くと、しばらく黙りこんだ。それから、低い声で言った。
「……サボン。この話は、あたしがしかるべきところに上げる。あんたはドレスを綺麗にして、忘れな」
「でも、これ。……証拠なんじゃ、ないんですか。落としちゃっていいのかなって」
われながら、めずらしく、まっとうなことを訊いた気がする。
ドロテアさんは、ちょっと目をみはった。
「……毒のついたドレスを、そのまま返すわけにはいかないよ。盛った奴に、気づかれたと知られる。次は、もっと上手にやってくる。綺麗にして、なにもなかった顔で返す。それが、奥さまを守るんだ」
あ、と思った。
わたしが綺麗に消すほど、奥さまは、安全になる。
盃を弾かれたんだから、しくじったことは、盛った奴も気づいているだろう。でも、それが毒だと見抜かれたことまでは、知らないままだ。葡萄酒のふりの染みが、なにごともなく洗い消されて返されれば。誰かに気づかれたなんて、思いもしない。
ばれてないと思って油断しているあいだに、しかるべき人がなんとかする。
汚れを落とすのが、人を守ることになるなんて。……ちょっと、ふしぎな気分だ。
「けどね。あんたの言うとおり、証拠はいる。……サボン。その毒、落とすとしたらどうする?」
「えっと。油に溶けやすいので、まず松脂で溶かし出して。それから、泡草で水のほうへ……」
ドロテアさんは、ふところから、ちいさなガラスの小瓶を取り出した。それを、ぽんと、わたしの手に握らせる。
「溶かし出したばっかりの、いちばん濃いところ。ひと匙、この小瓶に入れておおき」
また「あっ」と思った。
わたしは落とすことしか、考えていなかった。取っておくなんて発想は頭になかったから。
「布から抜いた毒は、ただの汚れじゃない。どこの草で、どう使われたか。それを語る、証人だよ。……あんたがいつも言ってる、汚れの声ってやつさ」
そっかぁ、と、ちょっと感心した。
汚れの声、なんて。わたしとローズばあちゃんの、合言葉みたいなものだと思っていた。それが、落とすときだけじゃなくて。残しておくときにも言えるんだ。
「……はい。やってみます」
ドロテアさんは、ちいさくうなずいた。それから、声をもっと落としてひそひそとささやいた。
「いいかい。……ここだけの話だよ。この半年、王宮じゃお偉いさんが、何人も急に亡くなってる。流行り病だの心の臓だの、って言われてるけどね」
言いかけて、口をつぐむ。
それからドロテアさんは、わたしをまっすぐ見た。
「サボン。あんた、こないだ出納方のことで妙な男に目をつけられたろう。……この王宮は、あんたが思ってるよりずっと黒いんだ。落とせる汚れと、落としちゃいけない汚れがある」
「? 汚れに、落としちゃいけないなんてありますか?」
本気で、そう思っている。
ドロテアさんは、もう一度ためいきをついた。それから、低い声で、つけ足した。
「世の中には、汚れたまんまにしときたい奴がいるんだ。あんたは、それを落としちまう。……くれぐれも、気をつけな」
わたしには、お偉いさんの事情なんて、分からない。
でも、もしそのうちの何人かが――この、葡萄酒みたいな顔をした毒のせいだったとしたら。
ひとりや、ふたりじゃ、ないのかもしれない。
この、葡萄酒のふりをした毒が。にこやかな夜会の、あちこちの杯に。誰にも気づかれないまま、何度も注がれてきたのかもしれない。
そう想像すると、ぞっとする話だ。
……はずなのに、わたしの手はもう、毒の染みと格闘しはじめていた。
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この毒は、油に溶けやすい。だから、ただの水じゃ、ぜんぜん歯が立たない。
まずは、松脂を蒸した揮発油。これを、染みの上に、そっと置くように含ませる。油は、油で溶かす。赤い色が、ふっと、ゆるむ。
――これだ。ドロテアさんに、言われたとおり。
溶け出したばかりの、いちばん濃い赤。それを、ほんのひと匙だけ、もらった小瓶にすくいとる。きゅっと、栓をした。
これが、この毒の、いちばん正直な声だ。あとは、しかるべき人が、聞いてくれるだろう。
さて。ここからが、本番だ。
ゆるんだところを、すかさず泡草で抱きこんで、水のほうへ引っぱり出す。一気にやると、輪染みになる。あくまで、ていねいに。織り目に沿って、すこしずつ、すこしずつ。
綿とはいえ、これだけ上等だと、扱いはむずかしい。毒よりも、よっぽど、布のほうに気をつかう。
そうして、どれくらい経ったか。
赤い色が、布から、すうっと引いていった。
「……ん。落ちた」
奥さまを殺そうとした、誰かの悪意。その色が、わたしの手の中でただの薄い水になって、消えていく。
温風機にゆったりとあてて空気をたくさんドレスに含ませる。形と着心地を良くするために。
仕上がったドレスを、ふわりと広げてみる。淡い綿地に、もう、染みひとつない。
毒も葡萄酒も、わたしにはおなじだ。落ちれば、気持ちいい。落ちなければ、もっと燃える。
「お待ちどうさまです。落ちましたよ」
震えながら待っていた侍女に返すと、彼女はおそるおそる受け取った。まだ毒が残っているみたいに。それから、何度も頭を下げて、帰っていった。
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お昼。
約束どおり、厨房のパイを三人で囲んだ。
わたしは、焼きたてのパイを頬張りながら、なにげなく言った。
「そういえば、さっき面白い染みがあってね。葡萄酒みたいな顔して、中身は毒だったの。何でも夜会で――」
「ちょ、ちょっとストップ!!」
リリが血相を変えて、わたしの口を両手でふさいだ。
「なっ、なに言ってんのサボン!? そういうのは、声に出しちゃだめなやつ!」
「むぐ……(だって、よく落ちたし)」
マリーはパイを置いて、じっとわたしを見ていた。
それから、ぼそっと言った。
「ねえサボン。……あんた、ほんとにこわくないの」
「? だって、落ちたよ。きれいに」
マリーは、なにか言いかけて、やめた。かわりに、自分のパイのいちばん大きいかけらを、わたしの皿にのせてくれた。
わたしには、よく分からない。
でも、こういうときマリーが優しいのは、知っている。
毒を盛られたら、人は死ぬ。それくらい、わたしにも分かる。誰かが、奥さまを殺そうとしている。それも、たぶん、分かる。
でも、そこから先はわたしの手には負えない。だから、ちゃんとドロテアさんに相談した。小瓶ももう、わたしの手元にはない。
わたしにできるのは、たぶん、ここまで。あとは、しかるべき人が、なんとかしてくれる。
……そう思うことにした。
ただ――ひとつ、思い出した。
この毒の、痺れるような匂い。前にも嗅いだ。出納方を探りにきた、あの笑わない目の男。あの袖の奥に、これとおなじ匂いが、ひそんでいた。
あのときは、むせるくらい甘い花の匂いに紛れて、よく分からなかった。今なら、片方だけは分かる。紫色の花の毒だ。
……これも、ドロテアさんに言っといたほうがいいよね。あの男の人と、この毒。おんなじ匂いがしたよ、って。
誰が、なんのためかは、わたしには分からない。それを考えるのは、しかるべき人の仕事だ。わたしの仕事は、汚れを落とすことなんだから。
……もう片方の花の香りに出会うのは、この後すぐのことだった。




