第06話 ほんのちょっとの店じまい
王都から自宅に戻って、まず取りかかったのは、店じまいだった。
三ヶ月のあいだ、この洗い場を留守にする。そう決まってから、わたしは妙にそわそわしていた。
いちばん気がかりなのは、菌の壺だ。
肉溶かしの菌は、生きものだ。三ヶ月も放っておいたら、餌がなくなって、死んでしまう。
王宮にも、菌くらいあるだろう。でも、この子はだめだ。ばあちゃんが継いで、わたしが継いで、ずっと絶やさずにきた種だから。
「……あんたは、連れていくよ」
壺の蓋を、そっと閉める。
壺の中で、菌が、ふつふつと返事をするみたいに泡を立てた。気のせいだろうけど、なんだか、ほっとした顔に見えた。
それから、ばあちゃんの棚。
泡草の根、灰汁、酸っぱい果実の汁。その他、王宮にあるか分からないものは、ぜんぶ小分けにして包む。瓶の棚に立てかけてある、ばあちゃんの覚え書きも、一枚残らず。
ばあちゃんの字を、指でなぞる。これがあれば、ばあちゃんも、いっしょに来てくれる気がした。
ここにあるものが、わたしの全部だ。これさえあれば、どこででも、汚れと戦える。
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荷造りをしていると、戸口の木箱が、ことりと鳴った。
ガロさんだった。今夜のぶんの、血の布を入れにきたらしい。いつもよりちょっと早い。
「あ、ガロさん。ちょうどよかった」
わたしは、大男のガロさんを、ぐっと見上げた。
「わたし、三ヶ月ばかり王都の仕事に行くんです。だから、しばらくここを留守にします」
ガロさんは、しばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。
「……家でできる洗い方、教えてくれるか」
その一言に、心が、ふわっと浮き立った。
「いいんですか!? えっと、まず冷たい塩水に一晩。それから、ぬるま湯で……」
夢中で手順を並べたてて、それから、はっと気づいて頭を下げる。
「……すみません。しばらく、布を預かれなくて」
ガロさんは、ふんと鼻を鳴らした。
ぶっきらぼうだけど、それが、ガロさんなりの気づかいだと分かる。自分でなんとかするから、気に病むな、と。
「行ってこい。……腕、奮ってこいよ」
大男は、それだけ言って、夜の中へ帰っていった。
あの無口な背中に、ぺこりと頭を下げる。なんだかんだ、いちばんの常連だ。ガロさんもこの街も、三ヶ月のあいだ、ちゃんと待っててくれると思う。
ガロさんを見送って、荷造りに戻る。
わたしは、大きな布で包んだ自分の荷物を、ぽんと叩いた。よし、完璧だ。
そこへ、マリーがやってきた。トランク鞄を片手に、わたしの荷物を覗きこむ。
「……あんた、自分の荷物は?」
「持ったよ? ばあちゃん直伝の激オチ棒に、トントンブラシ。あと、菌のツボと……」
「そーじゃなくて! 着替えは? 櫛は?!」
「あ」
言われて、はじめて気がついた。
わたしの荷物は、洗濯道具で、ぎっしりだった。着替えの一枚も、櫛の一本も、入っていない。
「もー! ほんっとに、あんたって子は……!」
マリーは、ぷりぷりしながら、わたしの着替えや櫛をてきぱきと詰めていく。
他人の汚れには、あんなに気がまわるのに。自分の身のまわりは、いつもこうだ。マリーがいないと、わたしは、たぶん裸で王宮に行く。
今度こそ、荷物がぜんぶまとまった。
がらんとした洗い場を、ぐるりと見まわす。ここを離れるのは、はじめてだ。ばあちゃんが遺してくれた、わたしの居場所。
ばあちゃんが寝起きしていた寝室。二人で並んで、布を干した物干し。井戸端の、欠けた桶。どれもこれも、見慣れすぎて、いつもは気にも留めないものばかり。いざ離れるとなると、急に、ぜんぶが愛おしく見えてくる。
……ちょっとだけ、胸の奥がきゅっとなった。でも、たった三ヶ月だ。すぐ、帰ってくる。
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そうして、わたしたちは王都へ移った。
あてがわれたのは、洗濯場の裏手の、小さな相部屋だった。マリーと二人で寝起きするには、ちょうどいい。荷物をほどいて、まっさきに取り出したのは菌の壺だ。
窓ぎわの、いちばん日当たりのいいところに、そっと据えてやる。
「ここがあんたの新しい家だよ。元気にしてな」
壺に話しかけていたら、マリーに、また呆れた顔をされた。
「……あんた、菌に名前までつけそうな勢いね」
「たしかに。今日から、リーネって呼ぼうかな」
「女の子なの、それ」
マリーが、がっくりと肩を落とした。
それから、わたしは外へ出て、お城のまわりをぐるりと見てまわった。
洗濯婦が、いちばんに知っておくべきは、水と土だ。井戸はどこの水脈か、洗い場の前の土は何色か。東の庭は黒土、北の練兵場は赤土、西の古い堀は藻くさい。その土地ごとの『汚れのもと』を、足とにおいで覚えておく。
「引っ越し早々、もう仕事の下見してるの……」
マリーが、半分あきれ、半分感心したような声を出した。
下見からもどると、洗濯場のほうが、にわかに騒がしくなっていた。
どすどすと、重い足音。土と汗のにおいが、近づいてくる。
「洗濯を、頼みたいんだが……!」
飛びこんできたのは、若い騎士だった。歳は、わたしと同じくらい。立派な鎧を着て――そして、頭のてっぺんから爪先まで、泥まみれだった。
「うわぁ」
わたしの目は、釘づけになった。
泥に、草の汁。革鎧には、乾いた血のしぶき。袖口に、馬のよだれ。よくもまあ、ここまで見事に汚したものだ。
「うわぁ、すごい。あなた、何があったんですか」
「あ、いや。訓練で、堀に落ちまして。馬にも振り落とされて……お恥ずかしい話です」
騎士は、真っ赤になってうつむいた。
「この鎧で、明日はじめて式典に立つんです。新しいのを買う余裕もなくて。……このままじゃ、笑いものだ」
「任せてください!」
わたしは、もう鎧に飛びついていた。
鎧の汚れは、まさに宝の山だった。
まずは、革と金具を分ける。素材がちがえば、手当てもちがう。いっしょくたに洗ったら、どちらも傷んでしまう。
泥は、あわてて擦らない。乾くのを待って、ぱらぱらと払う。濡れたまま擦ると、かえって繊維の奥にすりこんでしまうから。土の層がはがれると、その下から、もっと面白い汚れが顔を出した。
草の汁は、酸で起こす。血のしぶきは、固まる前に冷水で。革に染みた汗は、泡草でそっと抱かせる。馬のよだれまである。一枚の鎧に、いったい何日ぶんの汚れが詰まっているんだろう。
汚れの数だけ、手が増える。めんどくさい。本気で、めんどくさい。でも、その奥に、もとの黒い革と銀の金具が見えている。これが全部落ちたときを思うと、もう、にやけが止まらない。
夢中で手を動かしながら、ふと気づいたことを、口にした。
「あなた、北の練兵場にいましたね。この赤い土、あそこのだ。それから、堀の水。西の、古いほうの堀ですね。藻のにおいが、そこのです」
「な……なんで、分かるんだ」
「さっき、その辺をぐるっと見てきたんですよ」
騎士は、わたしを化け物でも見るような目をした。みんな、おんなじ顔をする。
半日かけて、鎧は生まれかわった。
黒い革は、しっとりと深い艶を取りもどす。銀の金具は、磨きあげて、わたしの顔が映るほど。あちこち傷んだ古い鎧が、誂えたての一領みたいに、凛々しくなった。
「……うそ、だろ。新品より、きれいだ」
騎士は、鎧を抱きしめて、声を震わせた。
「これで、胸を張って式典に立てる。本当に、本当にありがとう……!」
ぼろぼろの新人だと思われずにすむ。そう言って、騎士は、ぐすっと鼻水をすすった。
「でしょう? 落ちない汚れは、ございませんとも!」
わたしは、得意げに胸を張った。
「おれは、ユーリといいます。あの……また、お願いしてもいいですか」
「汚れなら、いつでも」
ユーリは顔を輝かせて、何度も振りかえりながら帰っていった。
いつのまにか、ドロテアが、戸口で腕を組んで見ていた。
「……初日から、騎士団に名を売るとはね」
あきれたような、でも、まんざらでもなさそうな声だった。
「あんたのおかげで、うちの評判まで上がりそうだよ。せいぜい、励みな」
わたしは、まだ手に残る泥のにおいを嗅いで、うっとりしていた。
「ねえマリー。王宮って、すごいね。あんなに上等な汚れ、街じゃめったにお目にかかれない」
「あんた、それ……騎士様にじゃなくて、汚れに惚れてるわよね」
洗濯婦なんだから、それでいいと思う。明日からも、こんな汚れに会えるなら。
窓の外には、夜でも煌々と灯りのついた、お城のいくつもの窓。あの明かりの下で、どれだけの人が、どれだけの服を汚しているんだろう。考えただけで、わくわくした。
わたしの王宮ぐらしは、こうして、はじまった。




