第04話 ローズばあちゃんのやり残し
その日は、朝から雨だった。
雨の日は、洗濯屋はひまだ。洗っても乾かないし、客も来ない。洗剤の調合と補充も終わってしまったわたしは、洗い場の床に寝転んで、天井のしみを数えていた。
「サボン。だらけてないで、奥の片づけくらいしたら」
帳面をつけていたマリーが、呆れ顔で言う。
「えー。雨の日は、お休みって決めてるの」
「誰が決めたのよ」
「ローズばあちゃん」
マリーが、ふっと黙った。その名前を出すと、この子はいつも、ちょっとだけ優しい顔になる。
戸口に人影が立ったのは、そのときだった。
傘を差した、おじいさんだった。背中が丸くて、杖をついている。帽子を脱いで、ペコリと頭を下げた。
「……ここでまだ、洗濯屋をやっとるかね」
「やってますよ。どんな汚れですか」
おじいさんはしばらくわたしの顔を見て、それからぽつりと言った。
「一年前、ここのばあさんに、絨毯を頼んだんだ」
どきり、とした。
「預けたまま、ばあさんが逝っちまって。催促するのも、無粋でな。ずっと、言いそびれとった」
おじいさんは、濡れた肩を震わせた。
「あれは祝言のときに、買った絨毯でな。客が来るたび、誰かが葡萄酒をこぼす。死んだ女房はそのたび怒って、笑っとった」
しわだらけの手が、杖の頭を撫でる。
「わしも、もう長くない。あれを綺麗にして、孫娘に持たせてやりたいんだ。あの子の祝言に、間に合ううちに」
マリーが、はっと息を呑んだ。
「……あの絨毯。ばあちゃんが、最後に預かったやつ」
覚えてる。ばあちゃんが寝込む、少し前のことだ。納戸に大きな絨毯を運びこんで、『これは手強いよ』と、めずらしく嬉しそうにしていた。あれが、最後の仕事になった。
この人の奥さんの絨毯。
わたしは、奥へ走った。
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奥の納戸の隅に、それは丸めて置いてあった。担いで洗い場へ持っていく。
埃をはらって、広げる。大きな、毛織の絨毯だった。深い臙脂の地に、蔓草の模様。上等な品だ。
中ほどに、黒ずんだ大きな染み。古い葡萄酒だ。何年もかけて、織り目の奥まで沈んでいる。
そして——その染みは、半分だけ、色が薄くなっていた。
ばあちゃんが、途中まで落としていた跡だ。
境目に、指を這わせてみる。
薄くなった側の、毛の寝かせ方。布の撫で方。一目で、分かってしまった。
最初のほうは、いつものばあちゃんの手だ。力強くて、迷いがない。でも、染みの真ん中あたりから、撫でる筋がだんだん弱くなっていく。間隔も、乱れていく。
最後のほうは、ほとんど、爪の先で掻くみたいな弱さだった。それでも、模様をひとつも傷つけていない。手が動かなくなっても、腕だけは、ちゃんとばあちゃんのままだった。
(……ばあちゃん。もう、手が動かなくなってたんだね)
病の床でも、最後まで、この絨毯のことを気にしていたんだろう。口には出してなかったけど、あの負けず嫌いのばあちゃんだ。落ちない汚れを残したまま逝くなんて、どれだけ悔しかったか。
絨毯の端に、細い針金で、小さな紙きれが結わえつけてあった。ばあちゃんの、クセのある字。
『葡萄酒の古いの。酸で起こして、灰汁は小さじ二杯。泡草はいつもの小瓶ひとつまで。毛が縮むから、湯は使うな』
処方の、覚え書きだ。きっと、いつかわたしが見るって、分かってたんだ。
……ああ、まったく。最後まで、わたしの憧れの洗濯婦だ。
……ローズばあちゃん。
拾われた日のことは、覚えていない。気づいたら、この洗い場の前に、籠に入れられたわたしがいたんだって。わたしはローズばあちゃんに育ててもらって、ばあちゃんの足元で汚れた布を眺めていた。
ばあちゃんは、わたしを孤児院に預けずに自分で育てた理由を、最後まで言わなかった。ただ、『手が増えて助かる』と、ぶっきらぼうに笑うだけだったな。
冬は、かじかむ手に息を吹きかけながら、一緒に布を絞った。夏は井戸端で水をかけ合って、マリーまで混ざって、よく叱られた。
ひもじい日もあったけど、不思議と、つらかった覚えはない。
「おまえは、汚れの話だけは妙に詳しいねえ」
ばあちゃんは、よく笑っていた。なんでも教えてくれた。泡草の煮出し方も、灰汁の加減も、繊維の寝かしつけも、汚れの起こし方も。
「いいかい、サボン。落ちない汚れはございません。そう言いきれる女になりな」
……わたしの口癖は、ばあちゃんから受け継いだ言葉だった。
ぐ、と腕まくりをする。
「……わたしが、続き、やるよ。ローズばあちゃん」
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毛織は、難しい。羊の毛は、人の髪と同じだ。熱い湯をかければ縮んで、二度と戻らない。強く擦れば、毛玉になって毛羽立つ。
だから、ぬるま湯で、そうっと。泡草の根を溶いた水を、染みのまわりにふくませる。長年の埃と脂が、じわりと浮いてきた。
絨毯は、とにかく広い。布きれ一枚とは、わけが違う。膝をついて、少しずつ、にじり寄るように進めていく。腰が、すぐに悲鳴をあげた。
(うわ、これ……三日あっても終わらないやつだ)
めんどくさい。正直、すごくめんどくさい。でも、染みの奥に眠る赤が、落ちたあとの臙脂が見えている。その予感が、手を止めさせてくれない。
昼が過ぎ、日が傾いても、わたしはまだ膝をついていた。マリーが黙ってランプを灯して、そばに水を足してくれる。絨毯の上を、にじっては拭き、にじっては拭き。腰も指も、とっくに限界だった。それでも、やめる気にはならない。
表の汚れが退いて、葡萄酒の染みが、はっきりと顔を出す。黒ずんで、すっかり沈んだ赤。何年もかけて酸化して、繊維に住みついている。
ばあちゃんの教えのとおり、酸で起こす。酸っぱい果実の汁を、薄めて含ませる。
すると、黒く沈んでいた染みが、ふっと鮮やかな赤に冴えかえった。葡萄酒の赤は、酸に出会うと、いったん目を覚ます。隠れていたぶんまで、ぜんぶ表に出てくる。
ここからが、勝負だ。
灰汁を、小さじに二杯。それ以上は、一粒も入れない。毛織に灰汁は、きつすぎる。長く置けば、羊の毛まで食って、白茶けてしまう。十、数えるあいだだけ。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
赤が、すうっと薄らいでいく。染みの輪郭が、ほどけていく。
とお。
すぐに酸ですすいで、灰汁を止める。ぬるま湯で、何度も。にごった水を、替えて、替えて。
最後の赤が、水に溶けて、流れていった。
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大きなブラシと水切りで、仕上げ洗い。
長年の汚れが茶色の水になって落ちて、スッキリした水の香りに満ちていく。
「……ん。落ちた」
臙脂の地が、戻っていた。蔓草の模様が、染みのなかった頃の顔で、そこにあった。ばあちゃんが半分残した汚れは、もう、どこにもない。
背すじを、いつものスッキリが、駆け抜けて——いかなかった。
かわりに、なんだか、目の奥が熱くなった。鼻の奥が、つんとする。
あれ。おかしいな。
「……サボン。あんた、泣いてる」
マリーの声も、濡れていた。
「泣いてないし。汗が目にしみただけ」
でも、拭っても拭っても、頬が濡れる。困ったな。汚れは落とせるのに、これは、どうにも止まらない。
マリーが黙ったまま、乾いた布を差し出してくれた。自分も、ぐすぐす言ってるくせに。
きれいになった絨毯に、そっと手を置いた。
「……落ちない汚れは、ございません。ね、ばあちゃん」
温風の風に当てて、乾かして。
最高の仕上げにするのには、まだまだ手数がある。止まってられないや。
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おじいさんは洗い上がった絨毯を見て、しばらく声を出さずに泣いていた。震える指で、蔓草の模様をそっとなぞる。そこに奥さんがいるみたいに、何度も、何度も。それから、わたしに深く頭を下げた。
「ここのばあさんに……礼を、言えなんだ。あんたが、継いでくれたんだな」
「ええ。ばあちゃんの、やりかけですから。引き継げてよかったです」
老人が絨毯を抱えて帰ったあと、ばあちゃんのメモを、瓶棚のいちばん見えるところに立てかけた。
「……ねえ、サボン」
マリーが、一枚の封筒を手にして、立っていた。さっき、あの絨毯のおじいさんの応対をしている間に、届いたらしい。
上等な紙だった。見たこともない、立派な蝋の封。
「これ……王都から。王宮の、印が押してある」
「……おうきゅう?」
気の抜けたおうむ返しが、口から出ただけだった。封の意味も、王宮がどんなところかも、よく分からない。
ただ、ひとつだけ。
棚のメモを見あげて、ちょっと笑った。
ばあちゃん。わたし、まだまだ落とせるよ。
どんな汚れが待ってるのか、すこし、楽しみになってきた。




