第03話 磨けば光る
戸口の脇の木箱に、今朝もガロさんの布が入っていた。蓋つきの、ガロさん専用の箱だ。
夜にしか動けない解体屋のために、わたしがこしらえた。前の晩にここへ入れておけば、朝、わたしが回収して洗う。すっかり常連になった、あの無口な大男との約束ごとだ。
血のついた布に、自警団のロイさんが持ちこむ妙な汚れ。それに、口づての評判をたどってくる街の人たち。ここ最近、うちの洗い場はやけに繁盛していた。
マリーは受付の帳面を、几帳面な字でびっしり埋めている。わたしはといえば、ゆうべ干して畳まないままにしてる自分の洗濯物の山を枕に、洗い場でそのまま寝ていた。
「あんた、また仕事場で寝たでしょ。布団があるのに」
「干した布と布団は大差ないもん」
「……洗濯のプロが、本当にグータラなんだから」
マリーが、はあ、とため息をつく。そのとき、戸口にちらりと影が映った。
「……お客さん?」
マリーが、帳面から顔をあげた。
戸口に立っていたのは、若い男の子だった。歳は、わたしよりちょっと下くらい。よそ行きらしい上着を着て、髪もきっちり撫でつけている。でも、その手は、場違いなものを抱えていた。
一足の、革靴。
くたびれて、踵がすり減って、表面には白い粉が吹いている。よそ行きの上着には、まるで似合わない代物だった。
「あの……ここ、どんな汚れも落とせるって、聞きました」
男の子は、おずおずと革靴を差し出した。
「これ……お願い、できますか」
マリーが、困った顔をした。
「ごめんなさいね。うちは洗い場で、お洗濯しかしないの。靴磨きは、ちょっと」
「やります」
わたしは、もう革靴に飛びついていた。
「サボン!?」
「だって、見てよこれ。すごい汚れ方」
革に顔を近づける。指先が、うずうずしてきた。
白い粉を、そっと指で擦る。塩だ。汗が乾いて、何度も染みて、吹きあがったやつ。
「これ、ずいぶん歩きましたね。それも、海沿いの道を」
「えっ」
「塩の吹き方が、汗だけじゃない。潮の風を含んでますね。踵の減り方は、右も左も外ばかり。砂利の多い坂道を、ずっと登り降りした靴です」
男の子の顔が、こわばった。
「な、なんでそれが分かるんですか」
底の革を、指の腹でなぞる。すり減ったところに、新しい革が薄く当ててある。何度も、直して履いてたんだ。
「この靴、何度も底を張り替えてますね。あなたの足より、すこし大きい。もとは、別の人のものでしょう」
マリーが、そっとわたしの袖を引いた。
「サボン。その辺に、しときなさい」
でも、男の子は、首を横に振った。
「……親父の、です」
ぽつりと、こぼした。
「親父は、行商人でした。この靴で海沿いを回って、稼いでた。去年、死んじまって。……おれ、来月の頭に王都へ行くんです。働き口が、見つかって」
おお、と思った。やっぱり海沿いの靴だったんだ。
「立派なお屋敷の、下働きで。だから……」
マリーがうん、とひとつ頷く。
「その靴は誇りだけど、それをそのまま王都には持っていきたくない。きちんと綺麗にして、門をくぐりたい。……ってことかしら」
「はい。それに……王都での仕事は親父の憧れでもありました。一緒に行きたいんです」
なるほど。それはそれで分かる。
けど、落とす理由は、この靴の汚れの頑固具合! それで足りる。
内側の革は、歩いて、歩いて、馴染ませた跡だ。
革に、もう一度だけ鼻を寄せた。
(塩を抜いて、油を入れなおす。これを磨いたら……きっと、とんでもないことになる!)
背すじが、ぞくりとした。手強い相手ほど、磨きあげたあとが楽しみだ。特急仕上げをすることにして、お客さんはそのまま見てもらうことにした。
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革は、布とは勝手が違う。
布は汚れを抱えこむけど、革は汚れを表面で固める。だから、洗うんじゃない。なだめて、ほぐして、また肌に戻してやる。
まず、熱いお湯は使わない。革は、人の肌と同じだ。熱湯をかけたら、ちぢんでしまって二度と戻らない。
最初の仕事は、塩を抜くこと。酸っぱい果実の汁を、水でうんと薄める。布に含ませて、白く吹いたところを、そっと撫でていく。
塩は、酸でゆるむ。白い粉が溶けて、革のもとの色が、すこしずつ顔を出す。ごしごしはしない。革が泣く。
白く粉を吹いて、死んだみたいになっていた革に、じわりと深い茶色が戻ってくる。生き返っていくのが、指の先に伝わってきた。
次は、染みついた泥と垢。泡草の根を溶いた水を、布の先にほんのすこし。革は、水に浸けてはいけない。湿らせる、それだけ。
年季の入った汚れが、じわりと浮く。拭いて、布を替えて、また拭いて。
それから、乾かす。火のそばは、だめだ。日陰で、ゆっくり。革は、急かすと拗ねる。
乾いたら、油を入れてやる番だ。
「はい、これ」
マリーが、横から新しい壺を差し出した。開けてみたら、みっちりと詰まった蜜蝋だった。指先で撫でてみる。未晒し品の上質なやつだった。
「養蜂家のとこで分けてもらってきたやつ。あんた、それをやるなら蜜蝋がいるんでしょ」
「……なんで分かったの」
「長い付き合いだもの」
マリーは、ちょっと得意げに鼻を鳴らした。
男の子は、少し離れたところで、心配そうにこっちを見ていた。自分の宝物が、見知らぬ手でいじられているんだから、無理もない。
でも、すぐに分かるはずだ。この革が、どれだけ嬉しそうにするか。
蜜蝋を、ほんのすこし指にとって革に擦りこむ。円を描くように、薄く、薄く。たっぷり塗ればいい、というものじゃない。革が飲みこめる分だけ、入れてやる。
かさついていた革が、すこしずつ、しっとりと色を深めていく。ずっと、こうなりたかった。ずっと、食べたかった。そんな声が聞こえてきそうだ。
ここからが、本番だ。
柔らかい布で、磨く。最初はゆっくり、それからだんだん速く。布が革をすべる熱で、蜜蝋が溶けて、薄い膜になる。
一回、二回。くすんでいた表面に、ぼんやりと光の芯が生まれる。三回、四回。芯がのびて、つながって、ひとつの面になる。磨くほどに、革は深い色を取りもどしていった。
わたしは、夢中になっていた。となりでマリーが何か言っていた気もするけど、聞こえない。今は、この革と話している最中だ。
磨いて、磨いて、磨いて。
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「できました!」
顔をあげると、男の子もマリーも、口を半分開けたまま固まっていた。
靴は、輝きに満ちていた。
くたびれた革靴は、もうどこにもいない。深い茶色が、ぬらりと濡れたように輝いて、天井の梁まで映している。磨きあげた爪先には、わたしの顔が、はっきり映りこんだ。
「……これ、おれの靴ですか」
「ですよ。いい革、使ってます。お父さん、ちゃんとしたのを選んでたんですね。……あ、でも踵は靴屋さんで直してもらってくださいね。底を打つのは、わたしの領分じゃないので」
マリーが、じとっとわたしを見た。
「ちょっと、サボン。靴をこんなに光らせて、逆にみっともなくない?」
「えー。男の人にも、宝石みたいにピカピカなものがあっていいでしょう?」
わたしは胸を張った。
「落ちない汚れは、ございませんとも!」
マリーが、今度はわたしの足元を、じろりと見た。
「その台詞、自分の靴をどうにかしてから言いなさいよ。片方、どこやったの」
「あー……朝は、あったんだけどなあ」
他人の靴は宝石にするのに、自分の靴は片方行方不明。我ながら、よく分からない。
男の子は、靴を両手で受け取って、しばらく動かなかった。
それから、ぽろぽろと泣きだした。
涙を拭いて、何度も頭を下げた。
「これで……胸を張って、行けます。この靴で、王都を歩きます」
「たっぷり歩いて、また汚してきてください。そのときは、また落としますので!」
男の子は笑って、宝石みたいな靴を抱えて、帰っていった。
戸口まで見送ったマリーが、ぽつりと言った。
「……ねえ。あの靴、王都でみんなの目に入るのよね」
「かもねぇ。よく光ってたし」
「あんたの仕事が、王都に行くってことよ。あんな靴を見たら、お貴族様だって放っておかない。大きな仕事な入ってくるかも!」
「そうかなぁ」
わたしは、生返事をした。
ぴかぴかに光った革を思い出すと、指先が、またうずうずしてくる。
ただ——次の汚れが、楽しみなだけだ。




