第02話 血まみれの男
今日は爽やかな天気だ。もう昼に近い。
わたしが洗い場で、昨日預かった靴下と格闘していると、マリーが息を切らして駆け込んできた。めずらしく、顔がこわばっている。
「サボン。今日はちょっと、外に出ないほうがいいかも」
「ん? なんで」
「血まみれの男がまた出たんだって。ここ三日連続よ。返り血だらけの格好で、布を抱えて街をうろついてるって」
わたしは靴下を絞る手を止めない。
返り血かぁ。ローズばあちゃんが血を落とすのはコツがあるって言ってたな。
「誰か、襲われたの?」
「それが、詳しいことは分からないの。でも血の布だけが、あちこちで見つかってて」
マリーは声をひそめた。世話焼きのこの子は、こういう物騒な話にめっぽう弱い。こういう話を聞いた夜はひとりでトイレにも行けないくせに、噂だけはどこより早く拾ってくる。
「自警団も、ぴりぴりしてる。だから今日は、大人しく……」
「……あれ、お客さん?」
わたしの声に、マリーがふり返った。
洗い場の戸口に、自警団の青年が立っていた。名前はたしか、ロイ。生真面目そうな顔で、布の包みを抱えている。
「サボンさん。あんた、汚れのことなら何でも分かるって聞いた」
包みを開く。中から出てきたのは、赤黒く染まった布きれだった。
その瞬間、においがぶあっと鼻に来た。
鉄。血だ。でもすぐに、あれ? となる。
すこし饐えたような、獣くさい何か。人の血のにおいとは、違う。
人の血は、もっとまろっとしてる。鉄くさいけど、どこか甘い。これには、その甘さがない。かわりに、泥と、生き物の脂のにおいが濃かった。
「ロイさん、でしたっけ。これ、人の血じゃないですよ」
「……は?」
「魔物の血です。それも返り血じゃなくて、捌いたときの血かな? ほら、この飛び方。生きてるものを刺した散り方じゃない。生きてるものは勢いよく出るけど、死んだものはそうじゃ無い。死体を開いたときの、だらっと流れる血です」
ロイの口が、ぽかんと開いた。
布に、もう一度だけ鼻を近づける。
(このにおい。鉄に、泥と藻の青くささ……沼のやつだ。ここらで沼っていったら……)
「北の沼の魔物ですね。何だろう。ピットブルとかかな。多分、一人で解体してる。血の汚れの始まりが、ずっと同じ場所から始まってる。同じ姿勢で、この布をこう……左手で支えながら、右手でナイフを入れてるんだと思う。きっと何頭もこなしてる」
「待ってくれ。布を見ただけで、なんでそこまで分かる」
「お洗濯してると、だいたい分かるんです」
ロイは、布とわたしの顔を、何度も見くらべた。化け物でも見るような目だった。
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そのときだった。
洗い場の入口が、ぬっと暗くなった。
でっかい人影。背丈は戸口の天井につくほど。肩は樽みたいで、腕は丸太のよう。顔じゅう髭だらけで、目つきは鋭い。そして全身、赤黒く汚れていた。
マリーが、ひっと喉を鳴らして、わたしの後ろに隠れる。ロイが腰の剣に手をかけた。
大男は、低い声でぼそりと言った。
「……ここか。落とせない汚れはない、っていう洗い場は」
手に提げた大きな袋を、どさり、と床に置く。袋の口から、血まみれの布が山のようにあふれ出た。
わたしの目は、釘づけになった。
「うわ……!」
「サ、サボン、逃げ……」
「うわぁ、すごい。こんなに……!」
剣に手を置いたロイさんと、腰を抜かしたマリーが視界に入ったけど、わたしはもう袋に飛びついていた。
布を一枚ずつ広げて、においを嗅いでいく。胸がどきどきした。
「これは沼トカゲ。こっちは……角兎ですね。あ、この古いのは、ひと月は経ってますね。ああ、落とすのが面倒くさい工程に溢れてる……けど落とせちゃうんだよなぁ……!」
うっとりしてくる。ああ、本当になんて面倒くさそうな布たちだろう。
「……」
「血の乾き方が、ぜんぶ違いますね。こっちは水洗いした後に干しましたね? その後また使ってダメになっちゃったんですね。わぁ、こっちはお湯を一気に浴びせましたか。ひと手間いるものばっかりですね〜!」
夢中で選り分けていると、ふと視線を感じた。
大男が、わたしを見下ろしていた。
「あんた、怖くないのか」
「え? だって、ただの血じゃないですか。落とし甲斐があって、最高です」
ロイが、剣から手を離した。
「あんた、まさか……噂の、血まみれの男ってのは」
「解体屋だ。ガロって名だ」
大男は、ぶっきらぼうに名乗った。
「魔物を狩って捌いて、肉と素材を街に卸してる。夜にしか作業ができねえ。もう落ちない溢れかえった血のついた布を、持て余しててな……。捨てる場所を探して歩いてただけだ」
「頼むから、所定の場所で燃やすようにしてくれ……」
「すまん。早朝に狩りに出て諸々こなすと焼却場が閉まっちまうんで……」
ロイさんがへなへなとした声で漏らした。街じゅうを震えあがらせていた真相は呆気ないものだ。
マリーが、ふう、と気の抜けた息をついた。
わたしは、山からいちばん手強そうな一枚をつまみ上げた。
布の端を引っぱってみる。かちかちだ。爪を立てても、欠ける気配すらない。魔物の血は、人の血とは別物だ。固まると、瘡蓋みたいに繊維にこびりついて、ちょっとやそっとじゃ離れない。血に、魔素という厄介なものが混じっているせいだ。
(これは……いちばん頑固なやつは、一日がかりだ)
「ガロさん。これ、今日中には無理です。古い血のやつは、一日いただきたいんですけど。……預かっても、いいですか?」
ガロさんは、面食らったように、わたしと布を見くらべた。
「……ここでダメだったら捨てるつもりだった布だ。好きにしてくれ」
「一日くだされば、ぜんぶ落としてみせます!」
どんと胸を叩いてみせた。ガロさんはふんと鼻を鳴らして、それだけ言って出ていった。
「……明日、来る」
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さて。
預かっていいとのことなら、こっちのものだ。わたしは腕まくりをした。
魔物の血を落とすのは、三段がまえ。
まず魔素を抜いて、つぎに血を抜いて、最後はいつもどおり洗う。順番をまちがえると、ぜんぶ無駄になる。
早速、魔素抜きから。たっぷりの水をたらいに張って、直に火にかける。岩塩は、冷たい水にはなかなか溶けてくれない。だから、いったん湯にして、これでもかと溶かしこむ。底に沈んだ粒がなくなるまで、限界まで。
でも、このまま布を入れてはいけない。熱い湯は、厳禁だ。血はもとがタンパク。熱を加えたとたんに固まって、今度こそ二度と離れなくなる。
だから、冷ます。
ぐらぐらの塩湯を井戸の水で割って、それから、ただ待つ。指を浸して、熱くも冷たくもない、ぬるい水になるまで。
うーん、じれったい。でも焦ったら台無しになる。
すっかり人肌より下がったころ、血まみれの布を、そっと沈めた。
固まった血のまわりから、細かな泡が、しゅわしゅわと立ちのぼる。塩が、魔素を追い出している音だ。
あとは、待つだけ。一晩、まるまる。
ここで揉んだら、おしまい。手を出したいのを、ぐっとこらえる。
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ロイは、帰りぎわに、こう言っていった。
「助かった。おかげで、街のやつらも安心する。……なあ。今度から、よく分からん汚れがあったら見てもらってもいいか」
「汚れなら、いつでもどうぞ!」
わたしが答えるより早く、マリーが横から口を出す。
「不明な汚れは調査料込みで、きちんといただきますけどね」
たくましい。
マリーは、ロイを戸口まで送って、なにやら色々な話をつけていた。それがすむと、わたしをじろりと見る。
「っていうか、サボン。あんた、今日も顔を洗ってないでしょう」
「……汚れ、ないもん」
「自分の顔は自分で見えないでしょうが」
ずるずると、井戸端に引っぱっていかれる。顔を洗わされ、朝からそのままだった寝癖を直され、ましな上着に着替えさせられた。他人の汚れにはあんなに燃えるのに、自分のことになると、まるでやる気が出ない。
「はい、できた。……たまには、街の店で食べるわよ。布が漬かってる間くらい、いいでしょう」
「えー」
「えー、じゃないの。行くの」
腕を引かれて、夕暮れの通りへ出る。
角の食堂は、あたたかい湯気と、誰かの笑い声で満ちていた。マリーは、向かいでにこにこしながら、わたしの皿に肉を足してくる。スープに浸した小麦をこねたおもちみたいなものと、ピットブルの串焼き。
あたたかい飯を、ちゃんと味わって食べた。
ガロさん、街に肉と素材を卸してるって言ってたな。ここの食堂の肉も、そうなのかも。
「……あの大量の布、本当に明日には終わるの?」
「もちろん。ああ、あれが落ちたらすっごく気持ちいいだろうなあ〜」
マリーは、やれやれという顔で、でもちょっと笑った。
その夜は、布のことを考えながら眠った。
早く、朝になればいい。
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翌朝。
寝起きの悪いわたしが、朝が待ちきれずに飛び起きた。
たらいの中に沈んだ布を、そっと持ちあげる。かちかちだった血が、ゆるんで、ぽろぽろとほどけはじめていた。よし。魔素は抜けた。
塩水を捨てる。にごった水を流して、布に残った塩っ気を、井戸の水で何度もすすぎ落とす。塩が残っていると、つぎの主役が働いてくれない。
きれいな水を張りなおして、布を移す。ここからが、血を抜く番だ。
棚から、ローズばあちゃん特製の『肉溶かしの菌』の壺を下ろす。蓋を開けて、覗きこむ。底のほうが、ふつふつと元気だ。
「……あんた。自分のごはんは抜くくせに、そっちには欠かさないのね」
いつのまにか、マリーが横に立っていた。
「これは別。ちゃんと餌をやらないと、すぐ弱るもん。死なせたら、また一から育てなきゃだし」
肉溶かしの菌を小さじにすくって、ゆるんだ血に垂らす。魔物の血も、もとはただのタンパク。菌は嬉々として、それを食べてくれる。布の奥で汚れがほどけていくのが、目と指先を通して伝わってきた。
織り目に沿って、指の腹で、そうっと。ごしごしはしない。繊維が泣いちゃう。
赤黒かった布が、少しずつ、もとの色を取りもどしていく。
血さえ抜けてしまえば、あとはもう、いつもの洗濯だ。
ぬるま湯ですすいで、にごった水を、何度も替える。最後に、きれいな水で締めた。
すうっと、残りの汚れが流れていった。
「……ん! 落ちたぁ!」
手の中の布は、生成りの白。ゆうべの惨状が、嘘みたいだった。背すじを、あのスッキリが駆け抜けていく。たまらない。
後は温風の風車にかけてゆっくりしっかり乾燥だ!
わたしはいそいそと火をつけた。
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昼すぎ、約束どおりガロさんが来た。
洗い上がった布の山を、どんと差し出す。
ガロさんは、ごつい手で一枚を取って、しばらくじっと見ていた。
「二十年、この仕事をしてる。血の落ちねえ布は、捨てるしかなかった」
低い声が、すこしだけ震えていた。
「あんた、すげえな」
「へへ、でしょう?」
わたしは胸を張った。ふわふわの布たちが祝福してくれてるようにも思える。
「落ちない汚れは、ございませんとも!」
ガロさんは、ぶっきらぼうに銅貨を何枚も押しつけてくる。
「足りるか」
「ちょ、ちょっと。さすがに多すぎます」
マリーが、すかさず正確な釣り銭を返した。ガロさんはふんと鼻を鳴らして、でも帰りぎわに、ぼそりと言った。
「……また、来る」
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それから、ガロさんはうちの常連になった。
夜が明けるたび、血まみれの布の山を抱えてやってくる。腰を抜かしていたマリーも、今では「また来た」くらいの顔で受付の帳面をつけている。マリー、もう独り立ちしてるからってうちに来すぎでは? と話したら『仕事分はもらってるから大丈夫よ』とにやり笑い。ロイさんも、わけの分からない汚れに出くわすたび、うちへ持ちこむようになった。
わたしのところには、ますます汚れが集まるようになる。
血のついた布も、落とせない染みも、わけありの汚れも。噂は、街はずれの洗い場には不釣り合いなところまで広がった。きれいな身なりの客が、こっそり訪ねてくることもほんの少し増えた。みんな、人には言えない汚れを抱えている。
でも、わたしにとっては、どれもただの汚れだ。人は生きてたらお洗濯物がでるんだから。
落とせるか、落としにくいか。それだけ。手強ければ手強いほど、いい。それだけで、わたしは機嫌がいい。
となりでマリーが、何でか長いため息をついた。




