第01話 朝は苦手、汚れは得意
「サボン! 起きなさい、もう昼前よ!」
ガン、と扉が鳴る。わたしは布団の中で、芋虫みたいに丸くなった。
(あと、もうちょっと……)
「聞こえてるんでしょ。今日は約束があるって、自分で言ったのよ」
マリーの声は、薄い壁なんてないみたいに突き抜けてくる。幼馴染というのは便利なようで不便だ。こっちの寝起きの悪さを、物心ついたときから全部知っている。
「うー……」
「うー、じゃない。これで三回目。全く、ローズおばあさんが今の姿みたらハタキで叩くんじゃないかしら」
せめて、と続くより早く扉が開いた。差し込む光がまぶしくて、枕に顔を埋める。
マリーは部屋を見回して、はあ、と長いため息をついた。
「……あんた、洗濯屋でしょ。なんで自分の部屋が、街でいちばん汚いの」
床には脱ぎ散らかした服。机の上には、たぶん三日前の皿。窓は白く曇って、外がよく見えない。
たしかに、まあ、汚い。
でも、何でか気にならない。自分の汚れというのは、なんというか、どうでもいい。寝ぼけ頭でむにゃむにゃしながら答える。
「うーん……他人の汚れには燃えるんだけどねえ」
「その情熱を、一割でいいから自分に回しなさいよ」
ぴしゃり。マリーはわたしの服を拾って椅子にかけ、皿を重ね、窓を開ける。世話焼きが服を着て歩いているような子だ。ちいさいころから、ずっとこう。
寝坊するたびに、マリーが起こしにくる。散らかすたびに、マリーが片づける。そういう役割分担で、ここまで来た。本人は不服そうだけど同時に生き生きして見えるんだよね、不思議。ローズばあちゃんが病気で倒れた時に、マリーにお願いしたんだって。わたしの世話をできる範囲で焼いてくれって。
のろのろと起き上がって、欠伸をひとつ。
「マリー、朝ごはんってどこにあった?」
「もう昼。それと、お客さん来てるから。下で待ってもらってる。ご飯は話聞いたあと」
その一言で、わたしの目はぱっちり開いた。
「お客さん。……ってことは、困ってる?」
「うん。すごーく困った顔してた」
困った顔。落とせない汚れを抱えた人の。
わたしは寝間着のまま、ぴゅうっと階段を駆け降りた。
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うちは、店というほど立派じゃない。
街外れの、井戸のそばの洗い場だ。たらいと、物干しと、棚いっぱいの瓶。瓶の中身は、ぜんぶわたしが調合した洗剤たち。
泡草の根を干して砕いたもの。鉱泉の白い粉。酸っぱい果実をしぼった汁。市販の洗い粉なんて、わたしに言わせれば全然力が足らない。汚れごとに、効くものが全部ちがうんだから。
待っていたのは、若い女の人だった。布をひとつ、胸に抱きしめている。
「あの……あなたが、サボンさん? どんな汚れも落とすって、聞いて……」
「落ちない汚れはございませんとも!」
わたしは胸を張った。寝巻きだけど。でも洗濯だけは、自信がある。
女の人は、おずおずと布を差し出した。男物のシャツ。その襟元に、赤い染みがひとつ。
差し出された瞬間、染みの正体がわかった。
正体が見えた、というと語弊があるかもしれない。匂いと、色の沈み方と、繊維へのしみこみ具合。それが頭の中で勝手にほどけて、「これはこういう汚れだ」「こう落とせばいい」と、教えてくれる。昔から、そうだった。
染みに鼻を近づけた。ほのかな香りがする。
「……甘い。木苺ですね。それも、ぐつぐつ煮詰めたやつ。ジャムです、これ」
「じゃ、ジャム……?」
女の人の声が、ふるえた。
「てっきり……口紅か、何かと……」
ははあ、なるほど。浮気? とかの疑いだったのかな。
襟をひっくり返して、内側もよく見る。古い染みと、新しい染み。何度も、同じようなところに重なっている。
「旦那さん、パン屋で働いてます? 毎日、近い場所に木苺がつく。ジャムを混ぜる係の人なんですかね」
「うちの人は……石工です。パン屋だなんて、そんな……」
女の人は、口を手でおさえた。
まあ、わたしには関係ない。汚れがそこにある。落とす理由は、それで十分だ。
(煮詰めた木苺。砂糖を含んだ、糖の染み。古いほうは少し焦げて、酸化してる……これは、ちょっと手強いぞ)
ぞくり、とした。手強い汚れほど、燃える。
頭の中に、もう手順が浮かんでいる。手間暇かかるし面倒くさい。けど、これが落ちたら——きっと、ものすごくスッキリする。その予感だけで、指が勝手に動きたがっていた。
「熱いお湯は使いません。糖と一緒に、布まで傷むので」
ずっと沸かし続けてるやかん。マリーが『加湿のため!』って言って沸かしてるやつだけど、こういう時に使ってる。たらいにお湯と水を張って、指を浸してみる。冷たすぎず、熱すぎず。手首の内側でたしかめる、肌がほっとするくらいのぬるさ。これより熱いと、糖がからまって繊維の奥に居座ってしまう。逆に冷たいと、固まった糖がいつまでもほどけない。
まずは、乾いて固まったところを爪の先で軽くさらう。ごりごりやってはだめだ。表面の、浮いたぶんだけ。
それから、泡草の根を溶いた水に襟をひたす。泡草は油を抱くと同時に、べたべたする汚れもよく抱く。しばらく置くと、じわりと赤がにじみ出して、水にほどけていく。新しい染みは、これでだいたい浮いてくる。
水を替える。にごった水は、もう仕事をしない。
問題は、古いほうだ。何度も重なり、焦げて酸っぱくなって、繊維にしがみついている。
瓶の棚をながめて、酸っぱい果実をいくつか混ぜた汁を選ぶ。木苺の赤は、酸に触れると色が冴える。沈んで黒ずんでいた染みが、いったん鮮やかな赤に浮かび上がる。隠れていたぶんまで、ぜんぶ表に引きずり出す。
(ほら、出ておいで)
布の織り目に沿って、指の腹でそっと撫でる。ごしごしはしない。繊維が泣く。糸の一本一本に沿って、染みだけを、そうっと。
赤が、少しずつ薄くなる。
最後に残った、いちばん奥の影。ここで灰汁をほんのひとつまみ。強い子だから、使うのは耳かき一杯ぶん。長く置けば布まで白茶けてしまうから、十、数えるあいだだけ。
いち、にい、さん……
わたしは染みだけを見ていた。となりで奥さんが何か言っていた気もするけれど、よく聞こえなかった。今は、この子と話している最中だ。
じゅう。
すぐに酸の汁ですすいで、灰汁の力を止める。冷たい水で、もう一度。もう一度。
——そして、最後のひと押し。
赤が、すうっと消えた。
「……ん! 落ちたぁ!」
背すじを、すうっと何かが抜けていく。さっき予感したとおりの、あのスッキリだ。たまらない。頑固な汚れほど、落ちたときの気持ちよさは大きい。これがあるから、やめられない。
襟は、もとの白にもどっていた。染みなんて、最初からなかったみたいに。
女の人は、それを両手で受け取って、ぽろぽろと泣きだした。
「うちの人……わたしに内緒で、パン屋で……お金なんて、ないはずなのに。ああ……この前、わたしの誕生日に、贈り物を……」
ああ、スッキリ落としたら泣かれてしまった。ちょっと、困る。
でも、まあこれは……うん、わかる。腕を褒められて泣くほど感動する気持ちは、わからなくもない。だってこの染み、相当に手強かったし。
「でしょう? 古い糖の染みは、酸を効かせるのがコツでしてね。落ちない汚れはございませんとも!」
「え? いや、ちが……いえ、はい。ありがとうございます……!」
女の人は、何度も頭を下げて、シャツを抱いて帰っていった。
うん。いい仕事をした。
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ふり返ると、マリーが戸口に寄りかかって、こっちを見ていた。なんとも言えない顔で。
「……あんた、今、人んちの夫婦のアレやコレ、まるごと言い当ててたわよ」
「そう? わたしは、染みを落としただけだけど」
「その『だけ』が、いちばん怖いのよ」
マリーはため息をついて、それから、ちょっとだけ笑った。
「まあ、いいわ。おかげでまた評判になる。『あの洗い場に持っていけば、落ちない染みはない』って」
「ふふん」
わたしは鼻を鳴らして、瓶を棚にもどす。手強い汚れのあとは、いつも指先の機嫌がいい。
「……ねえ、サボン」
マリーの声が、少しだけ低くなった。
「実は最近、変な話があるの。血のついた布を持って、街をうろついてる人がいるって。自警団が、治安の不安があるってずいぶん困ってるって——」
血。
その一言に、わたしの指が、ぴくりと反応した。
「……それ、手強そう」
「待って。夜中に出歩かないでって言いたいだけなのよ。燃えないの。お願いだから、燃えないで」
そんなの聞いてしまったら、もう遅い。
血の汚れかぁ……!




