番外編02 灰汁のばあさんと石鹸の子
朝いちばんの水は、手が切れるほど冷たい。それがいい。寝ぼけた指が、いっぺんで目を覚ます。
あたしの一日は、桶に水を張るところから始まる。もう何十年も、そうしてきた。
街はずれの、ちっぽけな洗い場。客はたいてい貧乏人で、持ちこまれるのは頑固な汚ればかり。おかげでついた異名が「灰汁のばあさん」ときた。
……ふん。上等だよ。灰汁より頼りになるものなんて、この世にそういくつもあるもんか。
その朝は、干し場の様子が、なんだかおかしかった。
昨日干したシーツの裾が、一枚だけ、妙な形にたわんでいる。
めくったら、子どもがいた。
二つか、三つか。泥と煤で、頭のてっぺんから爪先まで、みごとに真っ黒だった。
捨て子だ。この街じゃ、めずらしい話でもない。
こういうのは、教会へ届けるのが筋だ。あたしみたいな一人暮らしのばあさんが、抱えこんでいいもんじゃない。
「……あんた、親は」
子どもは、答えなかった。泣きもしない。
ただ、じいっと、あたしの手元を見ていた。
桶と、洗いかけの布を。
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教会に連れていくにしても、その汚れのままじゃ我慢がならなかった。
なにせ、こっちは商売柄だ。目の前に汚れがあると、手が黙っちゃいない。
湯は、ぬるめ。子どもの肌に、灰汁は強すぎる。泡草の根を薄く溶いて、やわらかい布で、そっとぬぐっていく。
泥の下から、白い肌が出てくる。煤の下から、まっとうな子どもの顔が出てくる。
子どもは、じたばたもしなかった。おとなしいというより——泡を、ふしぎそうに見ていた。
「あわ」
はじめて、声を出した。
ちいさな手が、泡をつかもうとして、すかっと空を切る。それでけらけら笑った。
……なんだい。笑えるんじゃないか。
洗いあがってみれば、存外、ちゃんとした顔の子だった。
さて、と前掛けを外しかけたところで、店先から声がした。客だ。
「ばあさん、頼むよ! 女房の一張羅に、葡萄酒をぶちまけちまった」
広げてみれば、ずいぶん派手にやったもんだ。赤黒い染みが、胸から裾まで。
こういうときの口上は、決まっている。あたしは袖をまくって、言ってやった。
「落ちない汚れは、ございませんよ」
そのときだ。
足もとで、ちいさいのが、目を輝かせた。
「おちる? それ、おちる?」
「落ちるとも」
「みる!」
桶のふちに、ちょこんと顎をのせて。子どもは、あたしの手元を食い入るように見ていた。
酸っぱい果実の汁で、染みをゆるめる。それから泡草——と、手を伸ばしかけたら。
「あわくさ!」
子どもが、先に、泡草の籠を指さした。
……おいおい。
あたしは、まだひとことも、教えちゃいないよ。
「あんた、どこで覚えたんだい。そんなの」
子どもは、きょとんとしていた。自分でも、分かっていない顔だった。
へんてこな子もいたもんだ。
……気味が悪い、とは思わなかった。
むしろ、面白いと思っちまったのが、運の尽きだった。
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染みが落ちて、客が拝むみたいに帰っていったあと。
あたしは、子どもの手を引いて、教会へ向かった。そうするのが筋だからだ。
角をふたつ曲がったところで、子どもが、ふいに足を止めた。
ふりかえって、洗い場のほうを指さして。
「……おしぇんたく」
舌ったらずの、へたくそな発音で。
この世のなにより大事なものみたいに、そう言った。
あたしの足は、そこから先へどうしても動かなかった。
理屈じゃない。長いこと職人をやってると、たまにあるんだ。理屈より先に、手が決めちまうことが。
「……ええい、分かったよ」
あたしは、子どもの手を引きなおして、来た道を戻った。
洗い場は、あたしひとりには、もとから広すぎたんだ。
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名前がないのは、不便だった。
考えあぐねていたその晩、ちびすけは飯を食う手を止めて、こっくりこっくり船を漕ぎはじめた。桶を見てるときはあんなに目が輝くくせに、それ以外は寝る寝る。
そういえば。
あたしの「ローズ」って名も、もとは洗い場の名前だ。おふくろが干し場のふちに植えてた、香りのいい草——ローズマリーとかいうやつから取ったらしい。洗いあげたシーツをあの茂みに広げておくと、お日さまと一緒に、いい匂いが布に移るんだ。
だったら、この子にも。洗い場の名前を、ひとつやろうじゃないか。
昔、南から来た行商人に聞いたことがある。向こうの言葉じゃ、石鹸のことを「サボン」と言うんだと。
泡が好きで、石鹸みたいに真っ白になった子。ついでに、隙あらばサボって寝る子。
それにね。石鹸ってのは、えらいやつだ。ちいさいくせに汚れを抱きこんで、水と手を組んで、白いところを取り戻す。
「あんたの名前は、サボンだ」
我ながら、いい名前だった。
ちびすけは寝ぼけまなこで「しゃぼん」と言って、また寝た。
翌朝には、近所の世話焼きのちびが、さっそく顔を突っこんできた。マリーとかいう、目つきのしっかりした子だ。姉貴分だか子分だか知らないが、その日からサボンの寝坊を叱る係になった。
……こうして、うちの洗い場は、いっぺんに騒がしくなった。
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サボンは、覚えが早かった。早いなんてもんじゃなかった。
教えたことは一度で覚える。教えてないことまで、どうかすると先に知っている。
「ごしごしはおやめ。繊維が泣くよ。織り目に沿って。押して、はなして。……布と、なかよくやるんだ」
教えりゃ、真剣な顔で、ちいさな手が布を押す。押して、はなして。憎らしいくらい、筋がいい。
汚れを前にしたときの、あの目。あれは、職人の目だ。三つ四つの子どもがしていい目じゃない。
なのに桶を離れれば、寝癖あたまで日なたぼっこと来た。
……まったく。妙な子を、拾っちまったもんだよ。
けどね。
いつか、この子はあたしより上手くなる。それだけは、拾った日から分かってた。
あたしの手に負えない汚れも、あたしがやり残した仕事も。この子はきっと、あの目で笑って引き受けるんだろう。
そんときゃ、あたしも遠慮なく、先に休ませてもらうさ。
だからそれまでは、みっちり仕込むよ。
道具の手入れ。灰汁の加減。汚れの声の、聞き方。
それから——うちの、いちばん大事な口上をね。
「いいかい、サボン。ついといで。……落ちない汚れは、ございません」
「ごじゃいましぇん!」
……先は長いね、こりゃ。




