番外編1 はじめてのお洗濯
お務めのない日の朝は、街はずれの洗い場で始まる。
わたしは桶を三つ並べて、今日のぶんの洗濯物と向き合っていた。ご近所の前掛けに、食堂の台ふき。それから、ガロさんの仕事着。あいかわらず、惚れ惚れする魔物の血の飛び散り方だ。
「サボン……お、お客さんよ」
受付のマリーが呼んだ。その声が、ちょっとへんに裏返っていた。
戸口に、フードを目深にかぶった女の人が立っていた。旅装のつもりらしいけど、生地が上等すぎる。
……あれ。この人、全然くすみがない。
うちに来るお客さんは、たいてい、どこかしら汚れている。街中で仕事してる人がほとんどだし、商売してたら当然だ。なのにこの人、フードの下まで透きとおるみたいに真っ白だった。
そんな人、ひとりしか知らない。
「……エルフリーデさま?」
「しっ。今日は、お忍びなの」
フードのすきまから、淡い金の髪がこぼれた。
マリーが、音もなく固まった。
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エルフリーデさまは、抱えていた籠をそっと差し出した。
中には、ちいさな服がきちんとたたんで詰めてある。泥だらけのズボン。袖口に茶色い染みのついた上着。……どれも、見覚えがある。大聖堂の子どもたちのだ。わたしがお務めの日に行って洗えば良さそうなのに、わざわざ持ってきたということは、何か事情があるのかもしれない。
「お務めの日だと、間に合わないとかありました?」
エルフリーデさまは、フードを下ろして、まっすぐわたしを見た。
「教えてほしいの。お洗濯を。……わたしに」
「聖女さまが、お洗濯を?」
「干すのは、ずっと手伝ってきたでしょう。でも、洗うほうはあなたと係の人に任せきり。……それにね」
エルフリーデさまは、自分の白い手のひらを、じっと見た。
「この手はね、“移す”ことしかしてこなかったの。だから、覚えたいのよ。この手で“落とす”ほうを。……あの子たちの汚れくらい、自分で落としてあげられるように」
むずかしい理屈は、あいかわらず、よく分からない。
でも、これだけは分かる。目の前に、洗濯を覚えたい人がいて。ここに、桶と水と石鹸がある。
だったら、答えはひとつだ。
「じゃ、はじめましょっか。はい、腕まくり!」
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まずは、身支度から。
純白の袖なんかで水場に立たれたら、こっちの気が休まらない。ばあちゃんの前掛けを貸して、髪を結わせて、袖をまくらせる。
マリーが桶の位置を直しながら、まだ半分あわあわしていた。
「ほ、ほんとにやるんですか。聖女さまが、うちの洗い場で」
「ここには、ただのエルフリーデで来てるの。……ふふ。この前掛け、いいわね。なんだか、ここの正装みたい」
ばあちゃんの前掛けが正装。……うん、いいことを言う。
お題は、持ってきてくれた子ども服だ。
まずは、泥だらけのズボン。泥は、いちばんの基本だから。
「泥はですね、濡らしちゃだめです。まず乾かして、ぱんぱんって叩き出す。それから、ぬるま湯」
「え。汚れているのに、洗わないの?」
「濡れた泥は、繊維の奥に沈むんです。乾いた泥は、ただの砂。……って、ローズばあちゃんが言ってました」
つぎは、袖口の茶色い染み。鼻を近づける。……甘い。おやつの蜂蜜だ。
エルフリーデさまが、自信満々に手を伸ばした。
「これは分かるわ。しつこい汚れは、熱いお湯でしょう」
「あ、だめです。それだけは」
「……だめなの?」
「お砂糖の仲間はね、熱で焦げて茶色が居座っちゃうんです。ぬるま湯で、じっくりふやかす。甘いものは、気が長いひとの勝ちです」
エルフリーデさまは、ぬるま湯に袖口を沈めながら、しばらくぶつぶつ言っていた。おのれ蜂蜜め、みたいなことを。
ふやかしたら、押し洗い。
エルフリーデさまの手つきは……なんというか、敵討ちみたいだった。
「ちょ、ちょっと待って。ごしごししない! 繊維が泣いてます」
「泣く……? 布が?」
「泣きます。織り目に沿って。押して、はなして。布と、なかよく」
……われながら、口から出てくるのは、ぜんぶばあちゃんの言葉だ。
わたしも、こうやって教わったんだっけ。桶のふちに、ちょこんと顎をのせて。
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三枚目あたりで、エルフリーデさまが、ふと手を止めた。
「ねえ。思ったのだけど。要するに、ぐるぐる回せばいいのよね」
「?」
「水流よ、水流。渦を作って汚れを揉み出すの。縦型は、そういう仕組みだったもの」
エルフリーデさまは、洗い棒をつかむと、桶の水をものすごい勢いでかき回しはじめた。
「回転! そして反転! 交互にやると絡まないのよ! ああ、底に羽根が欲しいわね……!」
「せ、聖女さま!? 水が! 水があふれてます!」
マリーの悲鳴。泡が、洗い場の床いっぱいに広がっていく。
白い箱の仕組みなんて、考えたこともなかった。けど、たしかに、そういう仕組みなら……。
わたしも棒をつかんだところで、マリーに後頭部をはたかれた。
「あんたまで乗るんじゃないの!」
目をきらきらさせて羽根の角度を語る聖女さまと、わたしは、まとめてマリーに桶から引きはがされた。
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さいごの一枚は、ノラちゃんの上着だった。
胸のところに、草の汁と、転んだときの泥擦れ。……けっこう、手ごわい。
「これ、わたしが最後までやってみたい」
エルフリーデさまの目は、真剣だった。
押して、はなして。ぬるま湯を替えて、また押して。
教えたとおりの手順を、ひとつずつ、ていねいに。手つきは、まだぜんぜん危なっかしい。でも、その順番を、この人は一度もまちがえなかった。
やがて、すすぎの水が、すっと澄んだ。
緑色が抜けて、生成りの白が顔を出す。
「……あ」
エルフリーデさまが、ちいさな声をあげた。
「落ちた。……うん! 落ちたわ!」
わたしの口癖が、うつっていた。
濡れた上着をかかげて、エルフリーデさまは、しばらくそれを見ていた。
その手は、水で冷えて、指先がすこし赤くなっていた。
「……ねえ、サボン。わたしの手でも、落とせるのね」
「そりゃあ、もう。手さえ動けば、誰の手でも」
「そう。……誰の手でも、なのね」
エルフリーデさまは、なんだかとても嬉しそうに、おなじことを二回たしかめた。
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干し場に、ちいさな服がずらりと並んだ。
風がとおって、お日さまと石鹸の匂いがする。
エルフリーデさまは、前掛けを外しながら言った。
「つぎのお務めの日から、洗うほうもやるわ。……それでね、サボン。もうひとつ、おねがいがあるの」
「はい?」
「あの子たちにも、お洗濯を教えてあげてほしいの。じぶんの手で落とせるって、こんなに気持ちいいのよって。……教わるなら、やっぱり本物の先生がいいもの」
ばあちゃんがわたしに教えてくれたことを、こんどは、わたしが子どもたちに。
……なんだか、洗濯物の白が、ずっと先までつながっていくみたいだ。
もちろん、返事はひとつしかない。
「はい、もちろんです!」
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日が傾いて来た頃に、見覚えのある大きな影が立っていた。お忍びの護衛を頼まれたらしい、ユーリさんだ。
「エルフリーデさま。お迎えに……。あ、さっ、サボン殿」
ユーリさんがぺこりとこちらに頭を下げていた。
そんなユーリさんの姿を見て、エルフリーデさまの顔が、ふわっとやわらかくなる。
……また、お腹の奥がモヤモヤした。なんでだろう。
マリーが、わたしの肩をぽんぽんと叩いた。
「はいはい。あんたはまず、床の泡をなんとかしなさい」
そうだった。洗い場がまだ泡だらけだった。
エルフリーデさまが、フードをかぶりながら、ふりむいた。
「サボン。今日は、ありがとう。……落ちない汚れは、ございません」
それから、ちょっといたずらっぽく笑って。
「——でしょ?」
「はい!」
わたしが胸を張って返すと、聖女さまは、鈴を転がすみたいに笑った。




