終章 いつもどおりの朝
あの大さわぎから、ふた月が過ぎた。
わたしは、街はずれの、ローズばあちゃんの洗い場に戻っていた。
一応掃除したベッドからのっそり起きる。寝癖は、あいかわらずひどい。
立派な聖女付きの部屋も、上等なごはんも、もうない。
でも、こっちのほうがずっと息がしやすかった。
マリーが、扉を蹴破る勢いで入ってくる。
「サボン! また寝てる! 今日は、お務めの日でしょ!」
「ん……あと五分……」
「その五分が、いちばん信用ならないの」
顔を洗っていると、洗い場の戸口から、でかい人影がのぞいた。
「よう。帰ってきたんだってな」
ガロさんだった。街の解体屋の、強面の。
あいかわらず、魔物の血や脂で、あちこち汚れている。
「ガロさん! お久しぶりです。うわ、その血。新しいですね……いい飛び散り方」
「洗濯聖女になっても、あいかわらずだな。お前は」
ガロさんが、にやりと笑う。
……そういえば。
いちばん最初に、魔物の血の布を任せてくれたのは、この人だった。
「あのとびきり頑固な瘴気を落とせたの、ガロさんの血の布のおかげなんですよ。あれで、魔物の血の落とし方をおぼえたから。……ありがとうございます」
ガロさんは、きょとんとして。それから、てれくさそうに鼻をかいた。
-----
お務めの日は、王都の大聖堂へ通う。
エルフリーデさまは、いまも聖女のままだ。
あの人だって、なんにも分からないうちに連れてこられて、無理やり聖女に仕立てられた子どもだった。だまされ、利用された側だ。だから、罪には問われなかった。それに子どもたちの穢れを一手に引き受けた姿は、目撃した人たちからしたら聖女そのものだっただろうし。
でも、本人はそれで済ませる気はないらしい。子どもたちを救うために身を投げ出したあの日から、償うみたいに、いまも子どもたちのそばで暮らしている。
穢れを他人へ転嫁するのは、もう封印した。
かわりに、わたしがいる。
エルフリーデさまが客から引き受けた穢れを、わたしが、ぜんぶ落とす。
結局、「洗濯聖女」という呼ばれ方で、しっかり聖女になってしまった。
なんでも、腐った教会の人たちはごっそり入れ替えになって、いまは配置がえの真っ最中らしい。
-----
大聖堂につくと、ノラちゃんが飛びついてくる。
「サボンおねえちゃん!」
ほっぺは、ぷくぷく。あのつかれた目は、もうない。
エルフリーデさまが、子どもたちと洗濯ものを干しながら、わたしを見て笑った。
「おはよう、サボン。マリー。今日もよろしくね」
聖女さまの、つくり笑いじゃない。
ただの、エルフリーデちゃんの笑顔だ。
その隣で、洗濯ものの籠を抱えていたのは、リリだった。宮廷勤めの合間を縫って、休みのたびにこうして顔を出すのだ。
「よう、サボン。あいかわらず寝癖、ひどいな」
「リリ、おはよう」
わたしとほとんど同じタイミングで、ユーリさんもやってきた。
「サ、サボン殿。本日も、護衛に」
あの騒動での働きが認められて、勲章をひとつ、もらったらしい。位も、すこし上がった。
おかげで、堂々とわたしの護衛を続けられる。そう言って、なぜか嬉しそうだった。
「あ、ユーリさん。その外套、いい素材ですね……あとで、どう洗えばいいか観察させてください」
「そっち……」
ユーリさんが、がっくりする。
そこへ、子どもたちが、わらわらと駆けてきた。
「あっ、お姫さまを抱っこした騎士さまだ!」
「聖女さまと、騎士さま!」
「い、いや……! 僕は、サボン殿の護衛ですから」
ユーリさんが、子どもたち相手に、真っ赤になって手をふる。
あの日、エルフリーデさまを抱えて礼拝堂へ飛びこんだ姿は、子どもたちには絵本のワンシーンみたいに見えたらしい。
その横で、エルフリーデさまが、ほおを染めて目を伏せた。
……エルフリーデさま、ユーリさんを見るとき、なんだか顔がやわらかいな。
それを見ていると、なんだか、お腹の奥がモヤモヤする。
なんでだろう。
考えていると、リリとマリーが、ぽんと肩を叩いてきた。
「サボン。あんたって、汚れのことなら何でも分かるのに。こういうのは、からっきしね」
「いよいよ、自分の身だしなみにも気を使うんじゃないかな」
「?」
「いいの。わたしには、ちゃーんと分かってるから」
マリーは、それ以上は教えてくれなかった。
……なんだろう、この感じ。胸のおくに、ちいさな染みみたいに、ぽつんと残っている。
わたしの得意な汚れなら、すぐ落とせるのに。これだけは、落とし方が、分からない。
そのマリーとリリは、さっきまで子どもたちと、着飾りごっこをしていた。
まっさらな白い布と、ぼろきれから作りなおしたリボン。リリが似合う色を見立てて、マリーが手早く結んでいく。
言い合ってばかりのふたりなのに、こういうときの息は、なんだかぴったり合っていた。
そういうのは、わたしには、汚れよりずっと難しい。
ふと、ユーリさんの肩が目に入った。
あの日、わたしをかばって斬られた、肩。
「ユーリさん。肩の傷、もう痛みませんか」
そう聞くと、ユーリさんは目をまるくして、それから嬉しそうにうなずいた。
「……はい。おかげさまで、すっかり」
よかった。あの血は、もう流れていない。
みんな、それぞれの場所で、ちゃんと生きている。
……あの日視た、もっと黒い、誰かの気配。
あれは、まだ、どこかでくすぶっている。
いつか、その頑固な汚れと向き合う日も、来るだろう。
でも、それは、まだ先の話。
今日は、目の前の洗濯物が、わたしを待っている。
子どもたちの、ありったけの着替え。シーツに、エプロン。汚れたものは、なんでもかんでも、ぜんぶ洗ってやることにした。
泥んこ遊びの泥。食べこぼしの脂。寝汗の黄ばみ。どれもこれも、瘴気でも、穢れでもない。子どもが元気に暮らしている、っていう、ただそれだけの汚れだ。
泥はぬるま湯でふやかして、脂は熱いお湯と石鹸、黄ばみはお日さまと灰汁。落とし方は、ちゃんと、この手が憶えている。
……うん。やっぱり、これがいちばん、しっくりくる。
腕まくりをして、桶に手を入れた。
——さて。
「さぁ、洗うぞ〜! 落ちない汚れはございません、ってね!」




