第26話 落ちない汚れはございません
エルフリーデさまの体からは、黒い澱みが、外まで溢れ出していた。
もやもやとした黒い靄が全身にまとわりついて、誰の目にも、まっ黒に見えるほどに。
何十人ぶんの穢れ。それに、この人が五年、ためこんできた澱。
いままで見たどんな汚れより、大きくて、重い。
……正直、こわい。
でも、手はもう動いていた。
礼拝堂の隅には、大きな桶が、いくつも並べてあった。前もってリリが運びこんでおいてくれたやつだ
なみなみと満たしてあるのは、お風呂にもどっぷり使えるよう仕込んだ、大きいサボン水。瘴気を抜く、とっておきだ。
わたしは、それを布にたっぷり含ませた。
まずは、表面の、いちばん浮いた黒から。
拭う。拭う。拭っても拭っても、布がすぐ、まっ黒になる。
桶のサボン水が、みるみる濁る。何度も、かえる。
……足りない。あんなに仕込んだサボン水でも、ぜんぜん足りない。
でも、ここでやめたら、この人は。
「サボン、こっちは気にしないで! サボン水もどんどん足すから、早く!」
「桶は僕がさばく。きみは、手を止めるな!」
マリーが新しいサボン水を足し、リリが、まっ黒になった桶をつぎつぎ下げていく。
ユーリさんは、エルフリーデさまの体を、そっと支えている。
みんなで、ひとつの、大きな洗濯。
でも、ただ水をかけるだけじゃ、追いつかない。
目を凝らして、鼻をきかせる。この黒は、何十人ぶんもの寄せ集めだ。汚れの顔ぶれが、ひとつひとつ、ちがう。
酒みたいに、つんとくるところ。そこは、当て布に酸っぱい果汁を含ませて、そっと吸い取る。肌に直に塗ったら、ひりひりしてしまうから。
脂と血で、ぬらぬらするところには、リーネを。
金くさい、冷たい汚れには、塩をきかせたサボン水を。
汚れの顔ぶれに合わせて、手札をとっかえひっかえ。持てるもの、ぜんぶ使う。
一種類で落とせる汚れなんて、ない。ばあちゃんに、そう教わった。
腕が、しびれてくる。汗が目にしみる。それでも、止まれない。
エルフリーデさまの息が、だんだん細くなっていく。
……だいじょうぶ。あなたの汚れも、ぜったいに落ちますから。
——焦るんじゃないよ。汚れには、汚れの言い分がある。よおく、聞いておやり。
ローズばあちゃんの声が、聞こえた気がした。
「……そうだったね、ばあちゃん」
わたしは、指の腹で繊維をたどるみたいに、その人の輪郭をなぞった。
黒の奥に、芯がある。五年、固まりつづけた、いちばん硬い澱。
ここだ。
とっておきのサボン水を、その芯に。……でも、しみこんでいかない。
あんなに仕込んだ、大きいサボン水でも。この芯だけは、つるりとはじき返してくる。
ああ、そうか。古すぎるんだ。五年も固まった澱は、もう半分、岩みたいにこびりついている。サボン水だけじゃ、歯が立たない。
物質化してるなら、リーネの出番だ。
わたしは、増やしておいたリーネの壺の封を、つぎつぎ切った。血と脂を強く感じる箇所へ、惜しみなく振りかける。何壺ぶんものリーネが、いっせいに、こびりつきを食んでいく。
硬い芯が、ふやけてゆるむ。すかさず、そこへサボン水を。
ゆっくり、ゆっくり、ほどいていく。
すると——。
ゴリッとした一番固いところが崩れる手応えがあった。その瞬間、ぶわっと黒がいっせいに浮きあがった。
黒い澱が、煙みたいに立ちのぼって、ほろほろほどけていく。
ほどけるたびに、その汚れの「言い分」が、わたしには視えた。
えらい大人たちの、こすっても落ちない欲と罪。
それを押しつけられた、子どもたちの、声にならない苦しみ。
そして、たったひとりでぜんぶを抱えてきた、エルフリーデさまの涙。
桶にたまっていく水を見れば、誰だって分かる。
聖女さまの体から、黒い水が、次から次へとあふれ出してくる。桶は、すぐにまっ黒だ。
その水は、酒くさく、血なまぐさい。脂で濁って、金物みたいに冷たく光る。清らかな聖女から出るはずのない、えらい人たちの汚れ。
「ああ、ああ……聖女さま、おいたわしや……」
「エルフリーデ様のご献身……これぞ慈悲だ」
「それに、サボンさまも……皆で祈りましょう」
参列の人たちが、それぞれにささやく。
聖女さまが、たったひとりで、これだけのものを引き受けてきたのだ。ぜんぶ、ぜんぶ、桶の水へ。
エルフリーデさまの体から、黒が剥がれていく。
あらわれたのは。
白い肌。淡い金の髪。あどけない、ひとりの女の子の顔。
聖女でも、まがいものでもない。
ただの、エルフリーデちゃんの顔だった。
わたしは、最後のひとしずくを、ぬぐって。
そっと声をかけた。
「……うん。落ちましたよ」
しん、と。礼拝堂が、静まりかえった。
桶の中で黒い水がゆれている。
……やがて。
エルフリーデさまの、まぶたがふるえた。
ゆっくりと、目がひらく。その目が、わたしを見つけた。
「……かるい」
かすれた声で、エルフリーデさまが言った。
「からだが……こんなに、かるいのははじめて」
ぽろり、と。涙が、ひとつこぼれた。
もう黒くない、透明な涙の雫。
「……どうして。わたしは、あんなことをたくさん……」
消え入りそうな声だった。たぶん、自分の罪のことを、言っている。
「汚れたら、落とせばいいんです。何回でも。落ちない汚れはございません。……また汚れたって洗いましょう。そうして、生きていいんですよ」
エルフリーデさまの目から、また涙がこぼれた。
今度のは、さっきとはちがう涙に見えた。温かくて、澄んでいて。ぽろぽろと、いくつも。
……よかった。
ただそれだけで、胸がいっぱいになった。
まわりで、子どもたちがおそるおそる近づいてくる。
ノラちゃんが、エルフリーデさまの手に、そっと自分の手をかさねた。
あちこちで、嗚咽が漏れる。祈りを捧げる声。聖女さまを讃える声。
「聖女エルフリーデさま!」「聖女サボンさま!」
「二人の聖女さまが、子どもたちをお救いになった!」
「聖女さまが、聖女さまをお救いになった!」
ざわめきは、やがて大きな喝采になって、礼拝堂いっぱいに広がった。




