第25話 そぉぉぉい!
地下から地上へ。長い階段を、みんなで駆けあがる。
先頭は、ユーリさん。まっ黒なエルフリーデさまを抱きかかえて、それでもぐんぐん進む。
そのうしろを、歩ける子どもたちが、リリとマリーに手を引かれて。
わたしは、いちばん後ろ。
手には、ローズばあちゃん特製石鹸水のバケツ。濃いめの石鹸水を、なみなみと。なにかあったら、すぐぶちまける用だ。
追っ手の足音が、すぐ後ろまで迫っていた。
「観念しろ、この!」
階段を上りきった廊下で、ひとりの子が転んだ。
マリーが、とっさにその子をかばって立ち止まる。
そこへ、神官の手が伸びた。
「きゃああ!」
「マリー!」
わたしが叫ぶより早く。
リリが、神官とマリーのあいだに割って入った。
そして、神官の祭服の帯に、ひょいと指をかける。
「あんたの装束。どこをどう引けば、いちばん無様になるか……。ぜんぶお見通しなんだよ」
「は? 何を」
くいっ。
相手の神官の言葉を全て聞くより早く、たったひと引きで、立派な祭服がしゅるしゅるとほどけた。
「な、なにを——っ!?」
垂れ布が足にからみ、帯が腕を縛る。神官は、自分の衣装に絡まって無様に転がった。
リリの〈見立て〉。いちばん映える姿が視えるなら、逆に、いちばんみっともなくなるやり方だって視えるわけだ。
「マリー、こっち!」
「……あんた、やるじゃない」
「だろ?」
ふたりが、にっと笑い合う。
でも、追っ手はひとりじゃない。がしゃん、がしゃん、と鎧が鳴る。
廊下はまだ続く。
「待てっ、その娘たちを捕らえろ!」
「逃がすな、聖女さまを取り戻せ!」
どやどやと、衛士や神官が廊下になだれこんできた。
ここが、わたしの出番だ。
廊下のすみに、あらかじめ置いといたオオダライ。なみなみと満ちた、とっておきの石鹸水。
三日かけて、これでもかと滑るように練りあげた自信作だ。
地下から地上へ抜けるには、この長い廊下を通るしかない。逃げ道は、はなから一本道。だから、ここに仕込んでおいた。
わたしは、そのオオダライを、思いっきり蹴飛ばした。
「そぉぉぉい!!!」
石鹸水が、廊下いちめんに、ざぱーっと広がる。
最初に突っこんできた衛士が、つるんっ、と派手に足を滑らせた。
うしろの神官が、それにぶつかって、また転ぶ。
泡が立ち、しがみつく手も、つるつるとほどけていく。
「うわっ、滑る!」
「おいっ! 俺につかまるな、引きずられ……どわっ!」
「なんだ、この泡はッ!」
あっという間に、廊下は、ツルツルの泡あわ地獄になった。
うんうん、狙い通りの滑り具合!
ひとりの衛士が、剣を床に突き立て、それを支えに立ちあがろうとした。
なるほど、考えたな。
でも、こっちには、とっておきがある。
「そぉぉぉい!」
トドメの石鹸水をバケツごと、その人めがけてぶちまけた。いちばん濃い、とびきり滑るやつを。
「ぶっ……!?」
まともに浴びた衛士は、声にならない呻きをあげて、いちばん派手に転んだ。
人間は二本足で立つように出来てる。だからその足元をすくわれたら、誰だって立てなくなる。立てなくなった相手から逃げるなら、難しくない。
追っ手のいちばん奥では、あの高位神官までもが、泡に足をすくわれていた。
さっき「捕らえろ」と命じた偉い人が、つるつる、べしゃっ。おしりから無様に滑って、起きあがれずにいる。
「ええい、立たせろ! 貴様ら、なにをしているか……っ」
顔を真っ赤にして、わめき散らす。でも、わめくほどに口へ泡が入って、ぶばっと吹き出すばかり。手足をばたつかせるほど、つるつると滑って、起きあがれない。当然、いい服もベッチャベチャだ。
「サボン! 早く!」
「今いく! おまけのタライ、そぉぉい!」
「うわああぁぁ……!」
追加でバシャーッと広げたら、四つん這いで進もうとしてた衛士と神官がまとめて流されて行った。
その隙に、みんなが礼拝堂へ走る。マリーも、リリも、子どもたちも。ユーリさんの腕の中では、エルフリーデさまが、まだ息をしている。
よかった。まだ、間に合う。
追っ手を泡の海に残して、わたしも、みんなのあとを追った。
前で、大きな扉が開く。
まばゆい光。ざわめき。
礼拝堂だ。祈りに来た、おおぜいの人たちがいる。
ユーリさんが、その真ん中へ、エルフリーデさまを抱えて飛びこんだ。
「きゃあっ、なに!?」
「騎士さまに……聖女さま? あのお姿は……!」
「黒い……いったい何が」
参列の人たちが、いっせいにどよめいた。
そこへ、這いずってきたのか、泡まみれの高位神官がよろよろと礼拝堂に転がりこんできた。
いつぞやの、ぞっとするような威厳はどこへやら。
頭から爪先まで、わたしの石鹸水で、ぬるぬるのベシャベシャ。泡が、祭服にしみこんだ埃や脂を浮かせて、灰色の汚れ水になって滴っている。取り澄ましていた人の見せかけの清らかさが、ずるずると剥がれていく。
立とうとして、つるん。手をついて、ずるん。そのたびに、汚れた泡が、ぶしゅっと潰れる。
「ち、近寄るな! その女どもを捕らえろ! ええい、衛士はどこだ!」
ぎゃあぎゃあと、みっともなくわめき立てる。でも、来るはずの衛士は、みんな廊下の泡地獄で溺れている。
立派なお説教の声で、いつもみんなを従わせてきたんだろう。でも、いまのそれは、泡まみれの人が騒いでいるだけだった。
参列の人たちが、ひそひそと顔を見合わせる。そりゃそうだ。
これでいい。
追っ手は、廊下の石鹸水で足止め。逃げこむ先は、大勢が祈りに来る礼拝堂だ。この人だかりの前では、いくら偉い神官でも、手荒なことはできない。ましてや、泡まみれの無様な姿では、誰ひとり従いやしない。
……作戦どおり!
ユーリさんが、エルフリーデさまを抱えたまま、声をはりあげた。
「皆さま、聞いてください!」
その声は、震えていた。でも、まっすぐだった。
「腐った教会の一部が、長いあいだ孤児たちに穢れをなすりつけてきました。それを知った聖女エルフリーデさまは、心を痛められた。そして——自らの身を顧みず、その穢れをたったひとりで引き受けられたのです!」
ユーリさんが、扉の向こうの神官たちを、まっすぐ指さした。
どよめきが、大きくなる。
その演説を、わたしは半分も聞いていなかった。
ユーリさんが喋っているあいだに、もう膝をついて、道具袋の口を開けている。布を広げ、サボン水の栓を抜く。手が、待ってくれない。
だって、腕の中のエルフリーデさまの息が、ひと呼吸ごとに細くなっていくんだから。
それから、ユーリさんはわたしのほうへ手を。
「そして、こちらはサボン様。“洗濯聖女”の噂を、知る者もいるでしょう。エルフリーデ様とともに、教会の腐敗を洗い流すために立ちあがってくださった……!」
……なんだか、すごい紹介をされてしまった。ただの洗濯婦なんだけど。
でも、今は、訂正している場合じゃない。
ユーリさんの腕の中で、エルフリーデさまが、ぐったりしている。
まっ黒な体は、ひゅうひゅうと浅い息をくり返すばかり。
もう、一刻ももたない。
布に、サボン水をたっぷり含ませる。
みんなが、見ている。神官も、貴族も、参列の人たちも。
かまうもんか。
わたしは、まっ黒なエルフリーデさまに、にじり寄った。
「聖女さま。お待たせしました」
いまから、いちばん大きな汚れを、落とす。




