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落ちない汚れはございません!〜街はずれの洗濯婦のはずがこの国の黒いものまで洗い流して洗濯聖女になっちゃいました〜  作者: 絹田屋


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幕間 灰をかぶった聖女

# 幕間 灰をかぶった聖女


 子ども部屋を出て、わたしは長い廊下をひとりで歩いた。

 あの娘のまっすぐな目が、まだ胸に刺さっている。

 白くなっていく子どもの肌。あんなもの、わたしには、一生かけても作れない。

 ……ひさしぶりに、思い出してしまった。

 わたしが、ここへ来た日のことを。


 五年前。わたしは、向こうの世界のどこにでもいる子どもだった。

 名前も暮らしも、もう、うまく思い出せない。覚えているのは、ある日とつぜん、足もとが光って。

 気づいたら、知らない場所に立っていたこと。

 高い天井。立ちこめる香。ずらりと並んだ大人たち。

 その人たちは、わたしを見るなりひざまずいた。


「おお、聖女様。よくぞ、おいでくださいました!」


 わけが、分からなかった。十二の子どもに、分かるわけがない。

 帰して、と言っても、誰も帰してくれなかった。

 はじめの数ヶ月は、毎晩、泣いた。

 帰りたかった。でも、帰り方を知っている人は、ひとりもいない。

 言葉も、最初は上手く通じなかった。わたしの声は、誰にも届かない。

 そのうち、こちらの言葉を覚えた。覚えてしまえば、もっと、よく分かった。


 この人たちは、わたしを“人”として見ていない。“道具”として、見ている。


 教会は、〈浄化〉の聖女を求めて、わたしを呼んだのだという。異世界から渡り人を強制的に呼ぶ儀式……。


 聖女に求められるのは穢れを祓い、人々を清める、奇跡の力。

 でも、鑑定のあくる日。

 わたしに宿っていたのは、それじゃなかった。


 〈転嫁〉。

 穢れを、よそへ動かすだけ。祓うことは、できない。


 大人たちの顔から、うやうやしさが消えた。

 かわりに浮かんだのは、落胆と。それから、もっといやな、打算の色。

 いちばん偉い神官が、しばらく考えて、こう言った。


「祓えずとも、構わぬ。“転嫁”できるなら、それはそれで使い道がある」


 その日から、わたしの“お務め”が始まった。

 「失敗だった」とは、言えなかったらしい。

 聖女召喚は、教会の威信をかけた、大きな儀式だったから。

 だから、聖女に仕立てられた。

 祓えないことは、ぜったいの秘密。

 転嫁した穢れは、誰も困らない場所へ。

 ……そう、誰も。


 はじめて子どもに穢れを転嫁したときのことは、忘れられない。

 まだ小さな女の子だった。わたしの手の中で、その子の肌が、みるみる黒く濁っていった。

 その子は、痛いとも言わなかった。ただ、不思議そうにわたしを見上げて。


「せいじょさま。これ、なあに」


 わたしは、答えられなかった。

 神官たちは、満足そうにうなずいていた。


 その夜、自分の手を、はじめてまじまじと見た。

 移したはずの黒が、ほんのすこし、指先に残っていた。

 〈転嫁〉は、きれいに移しきれるわけじゃない。泥を手ですくって投げれば、手にも泥が残る。それと、おなじ。

 一回ごとに、ほんのわずか。洗っても、落ちない。それが、少しずつ、積もっていった。

 ……この残りかすも、よそへ移そうと思えば、移せた。

 〈転嫁〉は、穢れを“誰かへ動かす”力だ。自分のぶんも、もうひとりべつの子に押しつけてしまえば、わたしはきれいになれる。

 でも、それだけは、できなかった。

 お客の穢れを移すのは、お務めだと、言い聞かせられた。けど、自分が楽になるためだけに、子をもうひとり汚すのは。それは、もう、ただのわたしの罪だ。

 だから、自分についた黒は、自分で抱えることにした。

 移せるのに、移さない。……それだけが、わたしに残った、たったひとつのまともなところだった。


 いちど、情をかけた子がいた。

 夜にこっそり、お菓子を分けて。名前を呼んで。せめて、笑っていてほしくて。

 でも、その子の番が来れば、関係なかった。

 いっぱいになったその子は、地下へ連れていかれて。

 ……二度と、戻らなかった。

 それきり、子どもの名前を覚えるのをやめた。

 情なんて、かけるだけ、つらいから。


 はじめは、毎晩、吐いた。

 夢の中で、あの子たちの目が、ずっとこっちを見ていた。

 でも、人間は慣れる。

 慣れて、麻痺して、仮面をかぶる。

 これは必要なこと。わたしが生きるための、たったひとつの道。

 そう、何度も自分に言い聞かせて。

 ……いつのまにか、五年が過ぎていた。

 鏡の中のわたしは、誰よりも清らかな聖女の顔をしていた。

 誰にも落とせない黒を、いちばん奥に隠したまま。


 そこへ、あの娘が来た。

 ただの洗濯婦。だらしなくて、のんきで、欲がない。

 なのに、わたしが喉から手が出るほど欲しかったものを、持っている。

 「落とせる」力を。

 汚れても、やり直せる。また、生きていい。

 あの娘の手は、それを子どもたちに返してやれる。

 ……わたしには、できなかったことを。


 ずるい、と思う。

 わたしばかりが、こんな目に遭ってきたのに。

 あの娘は、ばあちゃんに拾われ愛されて、まっすぐ育った。

 ——でも。

 あの、白くなった子の頬を思い出すと。

 もう、止められないのも分かっていた。


 動いているのは、わたしだけじゃない。

 あの娘が王宮の汚れを“洗い出して”しまってから、上のほうは、ずっとざわついていた。毒の証拠。書きかえられた帳簿。消えた調達長。あの娘が無邪気に手繰った糸の先には、名のある家々の後ろ暗いものが、いくつもぶら下がっている。

 そして、聖女の前では、みんな口がゆるむ。わたしを、ただの飾りだと思っているから。おかげで、いろんな声が、届いてしまう。


 たとえば、夜会の隅。扇のかげで囁きあう、貴族たちの声。


「あの洗濯婦、いいかげん目障りね。うちの主人の仕事まで、嗅ぎ回られてはたまらないわ」

「ご心配なく。足を滑らせて頭から、なんてことも。洗い場では、よくある事故ですよ」


 貴族たちは、ずっと前から、あの娘を消したがっていた。それは、知っていた。

 わたしを不安にさせたのは、教会のほうだ。

 はじめは、あの娘を“資産”として囲うつもりだった。本物の力を手元に置き、わたしの残りかすを落とさせる、専用のしみ抜き。それで仕組みは、いっそう盤石になるはずだった。


 でも、今日で、その目論見は崩れた。


 あの娘は、溜めに溜めた“器”をひとつ、空にしてしまった。

 しかも――誰の目にも、はっきりと示してしまった。穢れは、移すしかないものなんかじゃない。本当に、消せるのだと。


 それは、わたしの“浄化”がまやかしだと知れるのと、おなじこと。


 だから、香のけむりの向こうの声も、変わっていた。


「あれは“本物”だ。だが、本物すぎる。生かしておけば、儀式に必要な贄そのものが根こそぎ洗われる」

「惜しいが……始末するしかあるまい。聖女の失態として、ひっそりとな」


 消したい者と、消したい者。

 今度は、もう、綱引きですらない。

 どちらの声も、おなじことを言っている。

 あの娘を、ひとりの人間だとは、これっぽっちも思っていない。邪魔なら、消す。それだけ。

 ……五年前の、わたしと、おなじだ。

 あの娘は、自分がもう逃げ場のない真ん中に立っていることも、きっと知らない。


 わたしは、まちがえた。

 そばに置けば、守れると思った。並び立つ聖女に、と進言した。半分は打算で、もう半分は――あの娘を、手の届くところに置いておきたかったから。

 なのに。

 わたしが手元に引き寄せたせいで、あの娘は、いちばん黒いものの真ん中へ来てしまった。貴族だけじゃない。今度は、教会までもが、あの娘の息の根を狙っている。

 守るどころか、わたしが、あの娘を狩り場へ連れこんだのだ。


 それでも。

 子ども部屋で見た、あの白い頬が、目に焼きついて離れない。

 つかれきって、それでも嘘みたいに白くなった、あの子の腕。

 あんなふうに、誰かをやり直させてやれる手が、この世にある。

 ……それを、消させてなるものか。

 はじめて、打算でも保身でもなく、そう思った。


 わたしは立ち止まり、自分の胸もとに手を当てた。

 ここにある、誰のものとも知れない黒い澱を。

 ……一度でいい。

 ぜんぶ、落としてもらえたら。

 わたしも、もう一度、ただのわたしに戻れるだろうか。


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